F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

不敬虔。

神を信じないこと、と言う意味になるのだろうか。如何にも一神教の発想に思える。キリスト教は16世紀に日本に伝来し、土着化させようとする営みがなされ、今も継続している。けれど、信じる人間は一向に増えていない。そういう点では、日本人の圧倒的多数が不敬虔なのだろう。そして気に留めていない。何もかもに神が宿ると考える日本人には、不敬虔という状態自体を理解出来ないのだろう。日本的と言うか。勿論、国際社会には通用しないとも思っているのだろうけれど。

はてなブログ開設2周年。

はてなの運営からメールが来て、はてなブログの開設から2年が経ったと知る。何とか更新が継続しているのだから、喜ばしいと言えるだろう。ただ、記事のアーカイブは07年からある。その頃には、はてなブログは存在していない。07年から書いていたのは、はてなダイアリー。そして2年前に、はてなブログに移行した。長らくはてなダイアリーに親しんでいたので不安はあったが、何とか慣れて現在に至る。これからも更新を続けたいと思う。なかなかアクセス数は伸びないけれど。

社会心理学とは何か(社会心理学第1回)

社会心理学という学問領域においては、概説書を読むより各個の研究を読んだ方が面白く学べるかもしれない。

 

集団心理や集団行動を研究する、というのは勘違い。出来ない訳ではないが。集団心を仮定した研究も過去にはあった。もっと個人間のコミュニケーションに沿ったもの。オルポート。他者が実際に存在したりしていることで、個人がどのような影響を受けるか。味わい深い定義?3つのポイントが。社会を集団とは捉えていない。社会の代わりに他者の存在が入っている。たった一人だとしても、影響を与えるのなら。他者の存在という社会環境が重要でも、目の前に存在している必要はない。想像上だけでも励まされたり動揺したりすることはある。かなりの時間を他者のことや他者と自分との関係性を考慮することに費やしている。存在することが仄めかされたりしている場合も。個人の思考感情行動について。一人ひとりの持つ心の問題。心理学的社会心理学の特徴。他に社会学的社会心理学の系統もある。ここで扱うのは心理学的社会心理学。社会の中で生きる個人の心を扱う。私達の思考感情行動は社会的環境で影響を受けるだけでなく、どう受け取るかも問題。社会的認知。過去から現代までの研究者の2つの合意。個人の行動は社会的環境に影響を受ける。個人は社会的状況を能動的に解釈する。他者の意見に影響を受ける。同調。しかしどの人にも同調する訳ではない。同じ内容でも部下や同僚とでは、同調を必ずしもする訳ではない。社会から個人への矢印と、個人から社会への矢印。もしくは相互作用。社会心理学にとり重要。社会心理学の根幹にあるのは、人間は社会的動物であるということ。社会環境に能動的に関わる。他者との相互作用抜きには生きられない。相互作用は必要不可欠。「社会的動物」。ソーシャルアニマル。72年に初版が出る。何度も改定が行われている。社会心理学の特徴。毎回1冊ずつ書籍を紹介する。私達が日常生活で遭遇するような様々な出来事についての研究が。世間の耳目を集めた事象について研究されることも多い。現実に物事が起こったあと、後知恵バイアス。実証性を重視。確かな客観的証拠に基づいて。データを収集し分析する。検証するための実験をする。しかし簡単ではない。人間を対象とするので苦心しなければならない。複雑に入り組んでいる。研究者の手腕が問われる。社会心理学の実験は、問題となる現象を再現は出来ないし、その必要もない。根幹となる部分を抽出し、それ以外は排除する必要。研究の醍醐味。抽象的理論よりも多くを教えられる。実験の数々も紹介する。具体的方法や結果を知ることは重要。積み上げていくこと。あくまでも初学者向けなので、一般に書かれた書籍が対象。興味があれば書物を手に。目指すのは概要の全てを把握するのではなく、ガイドブックのような働きを目指す。まとまりの点で不十分でも、多様性が学問の魅力。生きる人の心。想像上の他者も含まれる。トピックは必然的に多様性に富む。統一性の欠如という深刻な問題もあるけれど。トピックを存分に味わうことが大事。
自己紹介。人間は嫌な存在?外の世界では色々と嫌な出来事が。しかし人間を理解しないと。対人関係や集団心理、人は色々なバイアスを持つ。その研究が社会心理学。社会的認知に興味を持つ。本人ですら気がついていない、理解していない側面を理解する。巧妙な手法をもって理解する。偏見の抑制。偏見を持つのはいけないこと?偏見なく行動しようとすればするほど、偏見に囚われてしまう。メカニズム。抑制によるリバウンド効果。他にも意外性がある研究は沢山ある。何故そうなのかという理論も。広告企画の仕事がしたいと思い、就職をした。努めていた出版社は予約読者のデータを持っていて、広告主に説明をしていた。くどくど説明するよりも、自分に似たライフスタイルだと理解してもらえる。自分に似た人。類似性効果。雑誌への評価も高まる。メカニズムが人に共通のものならば、理解したいと思った。同じCMを見る場合にも、前に流される番組の種類で効果は異なる。日常生活に役に立つ。発達臨床。身近な問題をどのように読み取るのか?高校生の時の倫理の授業。哲学科に入ったが、実験や調査を使うのに興味を持って転科した。社会心理学概論。学習性無力感。犬を用いた二段階の実験。電気ショックを自分の力で止めることが出来なくなると、別の学習課題でも最初から諦めてしまう。セリグマン。結果が変わらないのを学習してしまった。無力感の学習。発想が凄い。卒論で人間について研究する。実験でも調査でも社会的場面での人間の認知を捉えるのには苦労する。上手くするのに苦心するのが楽しい。社会心理学は身近な問題が多い。興味を持った時は取り上げられている書籍などを手に取ると良い。行動に移す人は少数派だが、大きな違いが生まれる。面白そうなものがある方向に歩く。嗅覚は間違っていない。自分の専門分野が一番おもしろいと思っているものだが、人間の心や行動についての研究は更に増えると思う。ミルグラムの服従の心理。最も有名で最も物議を醸した服従実験。紹介した本を読んだ人は少ないと思う。研究の面白さを。

 

社会心理学 (放送大学教授)

社会心理学 (放送大学教授)

 

 

激情。

俗に言う激情家の方をどのように評価するのかは難しい。職場では感情の起伏が激しいと扱いに苦慮する。落ち着いて仕事が出来ないのではないかと疑われることも。勿論、喜ぶべき時には喜ぶことも円滑な人間関係には大事なことだけど。恋人としてはどうだろうか。オーバー気味にでも喜んで貰えるのは嬉しいこと。他の感情に振り回されても、それを含めての恋人同士の関係、という風に納得できる。ただ実生活を共にする割合が増えると、結構ウザくなるかもしれない。気をつけよう(何に?)

日本初の学校プール。

私の出身高校の前身の茨木中学では、日本初の学校プールが作られた。大正5年のことである。日本で近代水泳が模索されていた段階での建設だった。人手が足りないというか、人件費が無かったのか分からないが、生徒を体育の時間に際して作業をさせたという。それまでは練習するのに海まで出なければならなかったのだから、近代水泳の進歩に多大な影響を与えたのだろうと思う。それからプールが普及したのはご存知の通り。その系譜を今の出身高校も引き継いでいる。ちなみに私は高校の授業で、平泳ぎのフォームを褒められ、実演をした。運動音痴なので、まさか称揚されるとは思わなかった。結構自慢だったりする。

語用論(2)-意味論から語用論へ-(新しい言語学第10回)

意味論しか大学では学ばなかった。確かに意味論だけではコミュニケーションの解明には充分ではないかも。

 

語用論。言外の意味。字面通りには言われていないことを問題にする。字面の意味は?意図。言いっ放しでは伝わらない。言った人の意図を推論する。グライスの会話の理論。レトリック。当たり前のようにやっているが、コミュニケーションの不思議。意味の計算は何故出来るか?言われた言葉の意味は見当がつきそうだが、その問に答えを出すには過去の出来事や話したこと、相手の事情を参照しなければならない。学問的には大きな転換が必要。人は不思議なことを毎日やっている。語用論はどうやって別れたか?
「明日の夕ご飯はどうなさいますか?」事前には話をしていないと焦ってしまう。ただ聞いただけだけど。質問なのか誘いなのか微妙。意味論と語用論の違いの事例。なめらかにコミュニケーション出来なかった。純粋に尋ねたから意味論的。はい、食べます、と答えると頓珍漢になる。誘いなどの別の意図がある?尋ねた背後の意図。字面通りの意味が意味論。意図まで探るのが語用論。言葉が何かを意味すると考えるのが意味論。何かを意図するのが語用論。発話と発話者。学問の歴史と並行している。意味論は伝統的言語学の一分野。食べるか食べないかを。家で食べるか外食するか。一人で食べるか友達と食べるか。基本的に夕ご飯はどうするか?というニュアンス。聞いた方の意図を察していない。言葉から人へ。意味論を超えている。字面の意味をいくら突き詰めても意図は掴めない。人の意図まで辿る必要がある。意味論から語用論へ。
先程の問いを発する。焦らないためにはどのような条件が必要?夕ご飯にまつわる会話を事前にしていること。問いが自然に聞こえるには、何らかの会話がなされたことが必要。そのような想定のことを、語用論的前提という。何らかの共通点が。会話をしたことがなかったから意図が掴めない。前提と聞き手の頭の中での解釈。コミュニケーションには隠れた多くの前提が在る。その上に言葉が乗せられている。授業で何の話をしたか知っている。色々な前提が隠れている。前提部分では改めて言葉にしない。相互了解。でないと言葉ばかり多くなって辿り着けなくなる。暗黙の前提。改めて語らない。コミュニケーションの経済効率を。とても関係の深い言葉を。「これそれあれどれ」。前提というものを最大限に利用。夕ご飯を食べる日の相談を。眼の前にある、今に最も近い、などの条件。「この」や「これ」。自分だけカレンダーを見ていても分からない。「あの」。二人が共有。かつ、今ここにはない。自分も知っている過去の経験。時々そこから外れる用法もある。「あの頃は大変だった」。回想の「あ」。聞き手はそのことを知らない、初めて聞く。話し手はそれを承知だが、お説教みたいなニュアンス。「そんな話していない」。「そ」系の指示詞。自分の管轄ではない、とみなしている。夕ご飯の話は違う。前提は多くを語る。
ダイクシス、という問題。意味論から語用論へ。語用論は何を見ようとしているか?人が意味する、への転換。見る角度を変える。コミュニケーションの中で言葉を使う時、何を言っても良いのではない。言うべきでないこと、先ずは嘘。言って良いと何を信じていいかわからなくなる。誤解を与える表現も相応しくない。嘘かホントかは言いようがない、けれど相応しくない。論理学や意味論は命題の真偽を問題にしたが、それだけでは片付かない問題に気がついた。適切性。適切かどうかが問題。真でも偽でもないが、唐突で不適切。意味論が命題の真偽を問題にしたのに対し、語用論は適切さを問題にする。真偽はともかく、適切性というのは何が該当する?言われた人はどうして戸惑うか?ただの質問なら当たり前だし、誘いが含まれるなら察しなければ。人は言葉で合意をする。発話行為、言語行為。語用論といえばこれ?
語用論の流れの中で画期的となったのは発話行為論。オースティン。スピーチアクト。儀式性や形式性の高いケース。結婚式における契約、誓いの言葉。裁判で言う判決。言うことがそのまま契約。裁判長が刑罰を言い渡すのは法的効力を持つ。在る場面である言葉をいう、それがそのまま行為となる、発話行為となる。開会宣言。船の命名式。日常ではしょっちゅうある訳ではない。普通の言葉ではないタイミング。かなり決まっている。儀式性が目立つ。権威のつく人が言う必要もある。サール。日常の行為。発話行為が身近に。だが今度は規則がやたらと出てくる。手続に分解される。凄くなってしまった。行為を構成する規則。構成規則。違和感を持つ人も。アメリカの人。アメフトの例が出てきてなんとなく分かる。「せよ」「するな」ではなく、一定のやり方で相手のエンドに持ち込むとタッチダウン。法則ではなくて、一定の手続でこれが成立する。人々の発話行為もスポーツと同じルールブックを作ることが出来る。約束という行為のタッチダウン。クイズ。普通に円満に暮らしている夫婦。「明日は離婚しないと約束する」。約束の構成規則の不備。何が?離婚しないと言うコト自体が不自然。とても恐ろしい闇の世界。「お前のこと絶対に殺すって約束する」。普通は約束とは言わない。して欲しくないこと。約束の構成規則の中には、相手が好むことである、ということ。行為そのもののラベルが変わる、脅し、という行為に。発話行為論を専門にしている学者はあまり居ない。日常の暮らしの中で、「何々すると約束するね」と言った記憶は?言い方が重要。大人になってから随分だが、あまり言っていない。子供の頃は指切りげんまんするが、大人ではあまりしない、借金返済について債権者から凄まれて約束する、というイメージ。約束をしないのではなく、子供のように一つの文で完結した形で約束をしない、というのが。色々言いながら、「ご心配なく」と言う。細かい事の積み上げ式。依頼に関して「お願いします」という言葉は山場ではなかなか使わない。何となく言うと成立する、という訳ではない。実際はお願いではない。もって回った言い方をする。約束する、お願いする、という一文で成しているのではない。発話行為論は一つの文で一つの行為、と考えるが、実際はもっと複雑。アメフトや野球のようではない。現在の語用論の到達点。夕ご飯、と聞くのはオカシイこと。会話をどのようにする?まとまった形で。会話には構造がある。
言葉ではなく人が意味する。言葉が自動的にではなく。言うときには様々な前提がある。言葉で行為をする。行為は文という単位から大きい単位で。談話という形で。

 

新しい言語学―心理と社会から見る人間の学 (放送大学教材)

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突飛なこと。

子供の頃には誰でも突飛なことをする。それで親に怒られたり友達から馬鹿にされたりもするが、大抵はほとぼりが冷めればまたやり出す。そもそも頭のメモリに入っている行動パターンが少ないので、同じことをしていても飽きるだけ。なので突飛なことをするのは子供に共通する属性であるのだろう。試行錯誤を繰り返して、首尾良くやっていける範囲を広げていく。俗に言う「生きる力」を育てていく。私はどちらかといえば突飛なことが中々出来なかったけれど、人間の真ん中に空虚な感覚があるのはそのせいかも。今からでも挽回できるだろうか。