F-nameのブログ

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軽率さ。

思えば私は軽率な行為ばかりしているように思う。計画性が無いのが自分の弱点。入試やら採用試験やら資格試験やら、色んな試験を受けてきた。けれども、まともに計画を立案して、その通りに実行したのは、高校受験の時以外にはない。進研ゼミから定期的に教材が送られてきたので、それを一通りこなす。そして正解出来るまで繰り返す。範囲を狭めても安心感があったから、首尾良くいったのだろう。他の試験では計画性が無い有様。それでも打率が良いのは、単に強運なだけかもしれない。

香港。

香港のデモが大規模化している。そもそもの原因は、「犯罪を犯した」とされる者を中国政府に送ることが出来るという法案が成立しようとしていることである。犯罪者を処理するのはどの国にもあるけれど、先進国なら立法や行政から独立した司法の場でなされるのが通常。だが中国の司法は共産党に従属している。基本的人権の保障が致命的に欠けている。香港が返還された時には、中国にも法の支配が確立するのではとも思われたが、今のところは兆しが無い。日本政府は法の支配を錦の御旗にして外交を展開しているのだが、中国政府にアプローチはしているのだろうか。

冷淡な傍観者(社会心理学第3回)

紹介された実験はとても的確だと感じた。よくアイデアが練り上げられているなあと。

 

ビブ・ラタネとジョン・ダーリー。状況の力は強大。服従実験に対し、今回は、特に権威を持っていない者でも、存在するだけであっても、影響を及ぼす。現実にあった出来事が基で実験を。前回はホロコースト。今回はニューヨークで起きた殺人事件。評論家が思いもよらない仮説を検証する。傍観者効果と呼ばれるようになる。
「冷淡な傍観者」。人間の行動。援助行動。先ずは事件について。64年。初めに助けを求めてから20分で殺害される。目撃者は38人もいた、という報道。誰一人として助けず見殺しにした?事件には気づいても状況を把握していたのは少なかったかもしれない。痴話喧嘩なのか緊急事態なのかは分からなかった。助けなかった原因。冷淡さや臆病さ。道徳心が欠けている。これらの解釈を筆者は否定する。2人は緊急時の援助行動を研究する。何故人は被害者を助けないのか?実験をして詳しく分析する。結論。数が多いほど人は援助しなくなる。その分差し伸べられる手は多くなるわけではなく、抑制される。何故?実証研究。近い形で行われた実験。ある人が緊急事態に陥ったことがわかればよい。討論している最中にある人が癲癇発作を。学生が一人ずつ参加、75名のデータ。小さい個室に通されて実験の説明を。偽りも含む。研究の目的はどのような個人的問題を抱えているかを知るということ。他にも参加者が居るように思わせる。様々な工夫。気詰まりを起こさない為に個室を用意した。話すことは他の人に知らせない。取りまとめの研究者も居ないということにする。期待させることがないように。参加者が居ないことを。音声に従って話をしてもらうことにする。順番に個人的な話を、それから全員で討論。病人役に続いて他の人も。参加者は一番最後に。順番に話している人の順番を変える。3種類。2名条件、3名条件、6名条件。本当の参加者に聞こえるのは録音。研究者はその様子を確認できる。病人役以外のマイクはオフに。他に気づいている人は居るのは分かるけれど、どのように行動するかは分からない。病人役は途中で発作のような状態を。参加者には緊急性の高いのが分かるはず。反応が観察される。自分の個室を出るまでにかかった時間。発作から6分経っても出てこない場合は中止。個室を出るまでの時間も、参加者が多いほど長くなっていた。2名条件で100%、3名条件では85%、6名条件では62%。2分ほどで音が途切れるまでは。85%、62%、31%。傍観者効果と呼ばれる。居合わせた人々の数は、把握したとしても自分の行動に反映するとは思っていない。強く疑問に思うほど。人が容易に気がつくことの出来ない要因を。癲癇発作の実験はもっとも有名。しかし実験はそれだけではない。質問紙回答をしている時に煙が。マジックミラー。鏡の反対側からは観察できる。煙に気づいてから部屋を出るまでの時間を測定。全ての実験で傍観者効果が実証される。では、傍観者効果は何故起こる。責任の分散と集合的無知。責任の分散。自分以外にも居ると思いこんでいると、他の人にも責任があると思い、自分に責任があると思う度合いは減っていく。自分だけだと決断できるけれど、その場にいる者全てが責任があると、自分がする可能性が減る。適した人が居るとか、既に行動したと思ってしまう。集合的無知。誤った思い込み。集団の人の殆どに共有されている。自分の考えは他の人の考えとは違うと思い込む。煙が出てきたり呻き声が聞こえたりして、緊急事態だと感じるけれど、自分だけではと周りを伺う。他の人の様子を伺うと何もしていない、きっと緊急事態ではないと思いこむ。しかし他の人も自分と同様に考える、故に誰も何もしない。どちらか片方で傍観者効果が説明できると言う訳ではない。そのステップの異なるところで。意思決定のプロセス。緊急事態での傍観者。5段階。緊急事態への注意。何かが起こったことに気づく。煙などの異変のシステム、特定しようとする。緊急事態だという解釈。火災が発生したという解釈。個人的責任の程度を決定。警備員が居れば助ける必要がない?自分の子供が居れば助けなければと思う。援助の方法を決定。消火器を探して消火、119番通報する。決定した方法を実行に移す段階。消火器を利用。障害を乗り越えなければならない。第1段階の前から。別に集中することがあればそれも障害となる。酔っぱらいなのか病気なのか分からない。ただの揉め事と思うことも。集合的無知。援助行動を移すにも。周りの目を気にするなど。助けることの損失が大きいと思ってしまうことも。それぞれの段階には障害があり、乗り越えてようやく援助行動に移せる。楽な方向にどんどん圧力がかかる、知覚すら歪む。緊急事態ではないと思いこむことも。罪悪感が無くなる。知覚の歪みが生じる。「冷淡な傍観者」以降。多くの研究で支持される。傍観者効果が起こりにくい状況について。メタ分析。傍観者効果の研究をまとめる。フィッシャーらは全体としての分析を、メタ分析。傍観者効果が多様な局面で起こる。犠牲者が男性であっても女性であっても、面識があってもなくても。近くに居ても遠くにいても。ただし、傍観者効果が弱くなることも。緊急事態の危険性が高い場合。インターフォンを通して話をしていると怒鳴り込まれる。女性にハラスメント。自分以外を援助資源としてアカウント出来る場合。傍観者効果があっても相対的に弱くなる。何故?そもそも何故助ける。覚醒水準が高まる。意識がはっきりする。自分が近いほど覚醒水準が高まる。抑えるよう動機づけられる。介入して自ら援助する。援助をすると損失も出る。報酬もある。起こりづらい場合。ナイフを持った人に誰かが襲われている場合。助けなければ殺されてしまう。自分自身に危険がある場合には緊急事態が強く認識される。被害者がとても危険だと援助行動が起こりやすくなる。1人で助けるよりも複数人で助ける方が確率が高くなる。モデルが複雑?もっと単純に説明できない?落ち着いた状態に戻りたいという利己的動機では不十分?人が人を助ける時の利他性。共感的配慮。人の為の行為をしよう、援助行動。傍観者効果が抑制されるのは、相手を思いやる力も強くなるから。何故人は他者を助けるのか。利他的動機や利己的動機。決着はついていない。面白い問題。援助行動についての面白い研究は多い。
「冷淡な傍観者」の実験の面白さは?状況の影響をはっきりと特定できた点。直感では分かりづらい結論が導かれる。様々な憶測を覆す。手続も細やか。集合的無知は分かりづらい概念。けれど面白い。自体が曖昧な状況で起こりやすい。何故?最初からはっきり分かることは少ない。曖昧さや不確実性。けれど適切に判断しようとする。手っ取り早いのは他の人を観察すること。自分がとる行動を推測する。集合的無知が起こりやすい。

 

社会心理学 (放送大学教授)

社会心理学 (放送大学教授)

 

 

破廉恥。

性的に破廉恥な行為に及ばない人間は居ないが、殆ど表には出ないのが普通。女性の場合は知らないが、男性のごく親しい人間の間では「武勇伝」が語られる。時には一緒に行為に及んだりも。まあ相手の自由意思によるのなら問題は少ない。けれど社会関係からして、強いられた合意の下にするケースは多い。仮にも紳士と自認するのなら、してはならない行為。ましてや合意がないのは論外。私のいた大学のアメフトの部員がその種の行為をしたのが問題になった。学生だからといって容認はされない。

受水槽の動画。

マンションの受水槽に入って動画を流す人間が居る。飲料水用の水が入っているのは、幾ら馬鹿でも分かるだろう。住民が飲むだろうという想像力が悲しいほど欠けている。どうやって入ったのかが気になる。通常は入れないようになっている筈。ビルメンテナンスの会社の人間として入ったのだろうか。だとしたら、ロクでもない奴を雇ったのは労務マネジメントの失敗だろう。仮にそうなら、私が管理会社の担当なら会社を変える。クビにしたとしても、まともな人間が来るとは思えないから。こういう行為が流布すると、そうでなくても高くないビルメンの人間の立場が無くなりかねない。元従業員としてとても悲しいことだが。

語用論(3)-日本語の語用論-(新しい言語学第11回)

他の言語はよく分からないが、少なくとも日本語で会話するのは極めてややこしいと感じた。

 

語用論の考え方。理論の側から。今回は言葉の側から。どのようなものが語用論の問題になるのか。言葉の使い方や選び方。社会言語学でも言葉の使い分けがテーマに。年齢や男女の違い。場面による違いも。いろんなレベルで言葉を使い分ける。無意識の内にでもあるし、意識して使い分けする場合も。無意識な方が社会言語学。意識的なのが語用論。ある意図と結びつく言葉が。ランチは食堂でなく、何処か外に出るというニュアンス。選択を変えるとニュアンスが異なる。ニュアンスを違わせる為に言葉を選ぶ。ニュアンスと言葉の相互作用。
収録をおととい思い出して、すっぽかしそうになった。過去形が好き?収録は明後日、というのは変かもしれない。13回の担当について「でした」も変な使い方?「言ってよろしかった」というのも変な過去形。今回のテーマが乗り移った。過去が現在に憑依?当たらずといえども遠からず。絶対な時間の物差しでは未来系だが、「た」を使うのは?そこに至るまでのプロセスに何かがあった?以前は収録の日を覚えていた、スケジュールに入っていたが、記憶から落ちてしまったのを思い出して。今気がついた、という意味だけを。今初めて気がついた、という構造。一々選ぶのは面倒くさそうに聞こえるが、あることについての認識を、既に得ていた、と言いたいか?だいぶ基本的な捉え方?バスを待っている人。「バスが来た」「バスが来る」。別の意味では認識と関わりが。バスが来るという出来事の捉え方自体が微妙に違う。「バスが来る」。僕のバスが来ちゃう。「バスが来た」。2つの状態が比べられている。来るかどうか分からないという状態と、バスが来る心構えをしている場合と。もうすぐ来るんだ、と心づもりをしている。もうすぐバスに乗れる、という認識。ある認識が自分の中に生じた。認識という言葉からしてそうだが、認知言語学的。意味解釈については充分に説明可能。認識の表明。車を出そうと思っても動かない。あれこれ点検してみてもわからないでふとみれば、足がブレーキを踏んでいた。「踏んでいた」と「踏んでいる」。言う人が限られる。後部座席に座っている人。「踏んでいた」と言うとツッコまれる。「踏んでいる」は誰でも言える。全体の解釈を得ているというニュアンス。運転者に焦点を。どちらでも言える。2つの言い方の選択が語用論的問題。「あ、ブレーキ踏んでる」「全然気が付かなかった」。「あ、ブレーキ踏んでた」。「た」の語用論。「過去形」は止めた方が良い?英語の過去形を導入した。在る認識を得た、得ている、という意味。邪魔な人を早く追い出したい「さあ、帰った帰った」。
最初の方で「過去形が好き」。「た」も気になる。認識を得た?丁寧さの「た」。対人配慮の「た」。ポライトネス。「何々だと思いました」は遠慮深く聞こえる。そのまま言葉にすると不遜な感じに、態度が大きい、上から目線。「た」の形にすると丁寧な感じが出せる。「計画は再検討する方が良いと思いました」。押しの強さが和らぐ。「問題な日本語」。いろんな点で気になる、問題とされる表現を。どうしてそう表現したくなるか。「ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」。名古屋でお土産を。キョトンとなる。聞き流すことが出来なかった。この言い方は何となく定着してしまった。東京では広がりを見せていない?方言の一つとして北海道から北東北で使われていたという説。「誰それはちょっと出かけてました」。「た」は過去形でなく現在不在なのを丁寧に言っている。認識を得たのが大本になる。ちょっと相手に丁寧に。「お部屋は305号でした」。仙台でも使われている。南東北も?ここ1年で大増殖中。「お席でのお会計でしたのでそのままお待ち下さい」。もう払ったの、と思ってしまう。面白がってワーイワーイと思う。言葉は難しい。語用論の問題として面白い。何でも「です」「ます」ではなく「でした」。語用論的な選択。理論的に言うといまここにあることを、わざと外す、過去のことの素振りをする。相手に突き詰めて言ってしまうことを避ける。聞いた人は耳が点になる。伝達能率が悪い。支障になる。伝達効率を犠牲にして対人考慮に振り向ける。
グライスの協調の原理と4つの原則。仮定しないと会話にならない?実際は逸脱している。わざと逸脱することでコミュニケーションを。レトリック。ニュアンスが伝わる。丁寧さの「た」。原則からの逸脱を含む。質の原則の違反。伝達効率も落ちる。敢えて使うのは直接性を避ける。表現を間接化させる。日本語は丁寧な方に偏る?仲良しの友人に丁寧語を使うのも違う。びっくりされてしまう。心理的な対人距離も小さい。直接的な話し方がふさわしい。遠い関係に遠い言葉、近い関係に近い言葉。敬語は遠い言葉。「ご子息におかれましては」。随分と回りくどい。持って回った表現、敬語らしい。敬語は距離を置くもの。夫婦喧嘩で突然敬語が登場することも。敬意なんてない。丁寧度が最高になってしまう。距離のバリア。最も直接的な言い方と比べて。最大の距離、バリアを置く。直接的な方は相手にそのまま言葉をぶつける。当然のように実行している?社会言語学的なことにならないか?決まりきっているのなら社会言語学になる。話し手が人間関係を作ったり調整したり出来るなら、その部分を語用論として扱えない?重なる部分は多いが。敬語とタメ語の距離感。敬語系でない言葉。遠い言葉近い言葉、内容面の及ぶ。喜怒哀楽などの感情。気持ちや欲求。相手の自我に心で触れる。日本語には上下関係を軸として上から下への重力。下からはそれで制約される。部下が「社長、コーヒー飲みたいですか?」は変。下手に敬語にしても変。上位者の気持ちに触れると失礼になるという日本語の特質。制約があるとして、聞かなければならないことはある。「コーヒーお飲みになりますか?」行動に直接に。「コーヒーいかがですか」「コーヒーが入りました」。相手にも自分にも触れること無く。社長との距離感も違ってくる。重力がなくなれば問題はなくなる。プレゼントで「こういうセーターほしかったでしょう?」相手に踏み込む表現も出来る。
語用論の原理や原則に逸脱する、対人配慮。

 

新しい言語学―心理と社会から見る人間の学 (放送大学教材)

新しい言語学―心理と社会から見る人間の学 (放送大学教材)

 

 

詐欺。

以前にも書いたが、主に高齢者に対する詐欺が横行している。恐らく学校の同窓の名簿などが流出していて、それを見て電話をかけるのだろう。最近では暴力団の収益源となっていると指摘されている。悪の組織の生息できる範囲は狭められているのかもしれない。20年前には高校野球のトトカルチョが至る所で展開されていたが、近頃は聞かない。結局は詐欺に走るしかないのだろう。世間も暴力団に寛容では無くなっている。関係がある芸能人が抹殺されたりしているのが現状。ますます闇に逃れているだけかもしれないが。