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高齢期における家族 -家族の変容と再生(高齢期の生活変動と社会的方策第4回)

虐待は他人事ではないと思う。誰もが加害者になりうるのだから。

 

世帯の構造の変化。家族の意味の。虐待や看取り。
高齢者世帯の変化。国民生活基礎調査。65歳以上の者が居る世帯。推移。昭和61年には三世代世帯が40%以上だったが激減。親と非婚の子供の世帯が2割以上。未婚だと人手が居ないので、公的サービスの重要性が。一人暮らしは女性世帯と言われてきたけれど、男性の世帯も多くなっている。家事などの生活技術が乏しいことが多い。性別分業が機能しない。介護が必要になるともっと簡単にはいかない。誰に介護されているか。6割が同居の家族が。最も多いのが配偶者。男性が34%。年齢は男女ともに60歳から69歳までが最も多い。老老介護。50代の子供が80代の親と同居して介護するのが多くなるのが推定される。これから深刻な問題に。子供の側に障害がある場合も。精神的な疾病。親が世話をしていたが、認知症で無理になることが。通院や服薬。放置されて子供の疾病が悪化する。8050問題。引き籠もりの長期化。社会の中で孤立。子供が経済的に不安定で年金をあてにするとか、経済的支援が必要。氷河期世代。
高齢期の家族。子供の虐待。高齢者虐待防止法。毎年調査。虐待調査。養護者。虐待にも色々な形が。身体的な虐待ばかりではない。5つの類型。不適切な扱い。生命などが損なわれる場合。身体的虐待。介護世話の放棄、ネグレクト。劣悪な環境に。心理的な虐待。意図的な無視など。性的虐待。経済的虐待。通帳を取り上げるなど。セルフネグレクト。ゴミ屋敷とも関連。虐待している意識がない場合も多い。あまり表にも言えない。早期発見が必要。地域組織や事業所などの関係者が知識を持ち、虐待の恐れがあれば公的機関に。地域ぐるみの取り組みを。虐待の件数。平成27年度の報告書。市町村が受理したのは2万件以上。虐待者と殆どが同居している。続柄。息子からが4割強。夫からが2割。どういう理由で?1万5千人以上の高齢者が。すぐそこにある、誰もがリスクに晒されている。50代独身男の介護奮闘記。ワンオペ介護。次第に追い詰められて母を平手打ちする。自分が壊れるときは必ず前兆がある。理性とは別に脳内に想念が広がる。爽快な気分になると誘惑が。重苦しい重圧を。悪魔の囁き。間違いなく自分。理性にもかかわらず、やったぜ、という開放感。まるで夢のような出来事。50代のシングルの息子。この先には絶望しか無い?フリーランスの科学記者。介護に時間をとられて収入が激減する。経済的にも先が見えない。追い詰められる。介護を一人で。焦燥感。すぐ隣りにある虐待。事例は様々だが、追い詰めてはいけない。窮状とは関係なく病状は進行する。掘り起こして支援しなければ。自分から助けてとは言えない。社会で見守る体制が必要。自治台でも知恵を絞っている。高齢者虐待のチェックリスト。高齢者を尋ねても合わせてもらえない。お風呂に入っているとは見えないなど。地域の取り組みが重要。DVなども含め、虐待に早期に気がつく。地域包括支援センター。一人で抱え込まないで社会的援助の道を。
終末期。最期をどこで迎えるか。昭和26年は自宅で亡くなる人が80%以上。三世代世帯で家族が介護を担い、次第に衰弱して亡くなる。今は病院が80%以上。在宅死から病院死への背景。住宅問題。小さな家に。寝たきりになった場合に確保が難しい。医療が発達し高度な治療が。治療に施されながら最期を。産業構造の変化で社会に進出し、家で面倒を見ることが出来なくなった。配偶者も高齢化して世話をすることが出来ない。変化の兆しも。親しい人に看取られたいなどの理由で在宅死を望む人も。6割程度の人が自宅死を希望。国民医療費の2割が80歳以上。若い人には不平等感も。高齢者の医療費が財政を圧迫。高齢期になると医療にかかる機会が増える。一概に批判するわけにもいかない。最高の医療を受けさせたいのも事実。質の高い最期を。人生の最終段階で。栄養補給。自分の意思をどのように表明するのか。本人の意思や子供の意思。生命とは何か。AHM。病状が分からない。若い頃と死に瀕する時の考えも違ってくる。娘が母を看取った時のblog。母を看取る時。先が短い。急に悲しくなった。デイサービスで先のことを忘れることが出来たのだろう。小さき者への愛。わかっていてもかなしい。別れの儀式を重ねながら死への準備を。別れの儀式のためにも時間が必要。笑おうとしても。死を受け入れる準備を。議論するときもそれぞれの物語を持っていることを忘れてはいけない。
高齢者の恋愛。高齢期の生活にとって家族は大きな存在。家族が第一次的なものとして政策も作られている。日本型福祉社会。高齢者施策でも自己努力を求められる。福祉的機能を家族に担わせるのは無理があるのでは。人との繋がりの中で。家族の他に。人間関係の中で。家族に近い新たな関係。施策にビルドインされているのではない。新たな家族の。
両親と老後について話したりとするが、自分が思っていた親と違うという乖離。家族ではないけれど頼れる場所を調べてみる。

 

高齢期の生活変動と社会的方策 (放送大学教材)

高齢期の生活変動と社会的方策 (放送大学教材)

 

 

敵対関係。

誰とも敵対関係に立たない人種は少なからぬ数居る。ある意味で尊敬の念を捧げられる方々であると言える。私もそうありたいと願う。けれど他の面からは八方美人とも言うことが出来る。内面にポリシーpolicyが無いと謗られてしまうこともある。そうで無くてもストレスは溜まるだろう。接触する全ての人のことを考慮しないといけないのだから。他の人との比較では分からないけれど、私は敵を作りやすい人間だったと言える。他の人の心中を把握出来ないのだからどうしようもなかった。今は違うのではと考えるが、他の人との比較ではどうなのだろうとも思う。

人手不足?

世間では人手不足とされているようだ。求人有効倍率などの統計データからも援用されて主張が為されている。ただ、職を求めている人間の属性と、職場が求める人間の属性は必ずしもマッチmatchしていない模様。この前の茨木観光?でハローワークを通りがかったが、相変わらず人出が多い様相だった。知人の職場では5月末に社員が辞めて、その補充が出来ないのが実情だと聞いた。当然ながら手を拱いている訳ではなく、ハロワなど様々な媒体に求人をだして10人以上面接をしているが、社長曰くロクな人間が来ないと。ミスマッチmismatchが甚だしいので改善の必要があると考える。勿論、様々な施策が為され様々な企業がNEEDSとして取り組んでいると思うけれど。

自然美と芸術美(美学・芸術学研究第4回)

無限性を感じ取れる人間はもっと広大なものではないかという気もする。

 

最高に素晴らしいもの。自然美。ギリシア。アテネ近くの岬。ポセイドーンの神。海の神。大地を揺さぶる地震の神。エーデ海の夕陽。素晴らしい景色。スイスの鉄道。展望台。山岳ホテル。4泊した。3泊は雪。午前2時頃に雪は止んでいて、大気中の塵芥が綺麗に洗い落とされて、クリアーな夜空が。ものすごい数の星。雪の鋭角の山々が取り囲む。鋭角の水平のところまで星が。山の線で区切られる。星の奔流。今日は素晴らしい自然美を。
ドイツ観念論のヘーゲル。美学講義。芸術美は精神から生まれたから自然美よりも高尚である。およそ精神的なものは自然より優れている。主観主義の観念論哲学を表現。人間中心主義。ヘーゲル美学によると自然美は否定される。ドイツ観念論の中にも違う人は居るが。西洋と東洋を比較。西洋は自然を征服する。東洋は自然と共存する。東洋的自然観は大事。西洋は人間が征服する対象としてしか見ていないのは、デカルト以降の話。デカルト以降の近代西洋はそうだが。人間中心主義。デカルト以前の西洋はそうではない。もっと自然を尊重していた。プラトン。自然の産物。神の技術による。自然は神が作ったものである。国家の中で三段階論。国家において自然というものは真実。イデアのミーミーシス。美のイデアをもとにして。美のイデアのミーミーシス。自然を模倣。自然よりも芸術の方がイデアから遠い。自然美の方が芸術より上。何も芸術そのものは悪ということではないが。自然と芸術とではプラトンにおいても自然美の方が上。人間が作る芸術よりも。芸術否定論ではないが。アリストテレス。実は美を語る時にも、動物などの自然物について多くを語っている。自然美との比較において芸術を語る。高度な生物学者でもあった。自然の方が格上。自然における生物の美。アリストテレス哲学において自然とは?自ら力動的に動いていく自然。デカルトの語った延長としての自然ではない。人間が切り刻むような。近代哲学の自然観の結果として、人間が切り刻んでも良いということになった。切り刻まれるモノとしてではなく、生き生きとした自ら動くもの。巨人哲学者に共通。デカルト以前の西洋。
自然美については?山岳美。山という自然をどう考えるか。東洋でも西洋でも山は神々しい。悪魔も神も、霊峰。西洋ではギリシア世界においては山というものは格の高いものとして考えられていた。ローマ世界では格の低いものだった。近づくべきでないものだった。山を嫌悪する。キリスト教の世界。高きものを嫌悪。ヨーロッパにおいてキリスト教は長らく支配的だった。信じられてきた時代は山は評価されなかった。その中にあって、ルネサンス期に。ペトラルカが山を再発見した。中世期は山を良くないと考えていたが。山の美を意識して山を登る。著しく高いところへ。山頂に辿り着く。雄大な光景。白い岩石。ルネサンスでの山岳美の再発見。アウグスティヌスの告白を手に取る。自然を驚嘆しに出かけて自分をおざなりにする。著作を読んだだけで自分自身を恥じてしまう。自己否定。キリスト教の力が強かった。もっと自分自身の内面を、宗教家として。反省するまでは山岳美の再発見をした詩人として。17世紀に変化。イギリス。無限社会の宇宙に対する美。眼前の広大な風景。自然のままの物事に対して、自分を押さえつけようとはしない。抑圧的な感情を抱くことは止める。芸術作品は大いなるものにはなれない。大いなるものはもちろん自然。トマス・グレイ。イタリアへのグランドツアー。教養の最後の段階に芸術作品に触れる。芸術作品を見に行ったが、自然に心を驚かせている。芸術は色々見たけど。ヨーロッパ人においても自然美を受け入れるように。山岳美はヨーロッパの知識人にも素晴らしいものとして評価される。
廃墟の美。廃墟は自然と人間の合作。昔の建築作品。時間が経つにつれて少しずつ崩れて廃墟になる。単にみすぼらしいものではなく、崩れても素晴らしい美を。崩れ方は自然が関与している。自然がダメージを与えて壊す。自然の営みと人間の営みの合作行為。素晴らしいもの。芸術と自然美の合体。ポセイドーン神殿。まさに廃墟。柱が残っているだけ。昔の素晴らしい芸術作品が崩れている廃墟の佇まい。廃墟の美も自然美も。
無限性の美学。無限世界との合一。自然に接する場合。自然を芸術的に見る。絵のように美しいと見る。感動の度合い。せっかく美しい自然を見ながら、芸術作品を見ているように見ている。その人のこれまでの芸術経験の枠内でしか捉えない。本当は勿体無い。芸術の枠を超える存在。自然美が芸術美より格が上、素晴らしいもの。キリスト教の伝統から抜け出れば。自然美。芸術経験の枠内で捉えるのとは違う。自然を自然的に見る。自然をその本質について捉える。自然の本質は無限性。限りがない。芸術は人間が作り、人間は有限の存在。数には限りが。神のような存在のミケランジェロでさえも、自然のような無限性は表現できない。人間としての限界。自然は限界を帯びない。自然は人間よりはるかに大きい。自然とは宇宙すべてを。宇宙は本当に無限。仮にビックバンから誕生したとしても、現在の宇宙は微小な人間の上に存在。宇宙はすごく広大にして無限。アポロンの仕事。宇宙に何もない、真っ暗闇でしか無い。大気の影響を受けずに綺麗に。何十回も地球を周りながら写真を撮る。実に驚くべきもの。ハッブルで見てみると一万個の銀河が。ほんの小さいところに存在。そのくらい宇宙は大きい。人間にとり無限と言って良い。ものすごい星の奔流、ものすごい力、宇宙の無限性を目の当たりにして。人間世界のちっぽけなものとは違う。自分と無限との直結。無限世界との合一の感動。無限世界に包まれる感動。小さな人間の世界を超えて、至福の感動を。自然美を。ドイツ観念論、自我を拡張して世界に広げるという傲慢無礼なことではない。没我の境地、没我の幸福。無限という自然美。人間的なるものを抱えるのと対照的。芸術美が人間的なものだけど、人間生活の様々なものが全て詰まっているけれど、自然美は人間的なものを超えた無限美。人間から離れることは出来ないし、人間が作り出す芸術などの事物全てにに感動することも出来るけれど。人間生活を超えたものが自分を動かす感動。芸術は素晴らしいものだけど、それに並んで自然美の素晴らしさ、至福の幸福を。
各々どちらかを否定するのではなく。人間の本質に迫る美と無限性の美。様々な場面での経験を、自然の素晴らしさを。2つの違うものとして。無限世界と合一の美。

 

美学・芸術学研究 (放送大学大学院教材)

美学・芸術学研究 (放送大学大学院教材)

 

 

儀式。

家族共同体の中でも、結婚式や葬儀などといった儀式は色々あるが、特に学校教育では色々な儀式がある。小学校に入学すると最初に入学式があり、終業式や始業式など各種ある。最後は卒業式。一般社会には多様な儀式があり、それに慣れさせることも学校教育の大事な役割である。大概は主催側の判断で形式や内容が決められるので、それを受け入れる必要もあり、忍耐力などが身に着くとも考える人も居る。私も学校教育で様々な儀式に出たが、会場に日の丸が掲げられたことは無い。要は全て左寄りの学校だったということだが、今の人間にしてみれば奇異に思われるだろう。まあそういう時代を私は生きた、ということ。

映画「葬式の名人」ロケ地。

映画「葬式の名人」の茨木での上映が終了した模様(他の土地では上映が続いているかもだけど)。ご当地映画ということで結構多くの人間が鑑賞されたようだ。分かりやすい映画だとは言えないし、ストーリーがある意味で荒唐無稽なので、賛否両論があるのは納得出来る。其の内に感想でも書こうかなと思う。

昨日は茨木で所用を終えたので、空き時間を使いロケ地の散策をした。雨宿りのシーンで使われた茨木心斎橋商店街の入口。30年前と変化はない。

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たこ焼きを食べるシーンで使用された福原商店。ここも変化無し。

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たこ焼きとドラ焼きを食す。相変わらず美味だった。店内には出演者のサインもある。

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遺体を担ぐシーンでの阪急本通商店街。

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商店街の東端は色々変わっていて、今はガストに。

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健康や病い・障害の研究デザイン(ヘルスリサーチの方法論第4回)

きちんと研究論文を読み進めていくのが必要になるのかもしれない。

 

健康や病の研究。人を対象。患者などの当事者や、家族や地域の人々。研究デザイン。研究計画。量的方法。質的方法。
個人が対象。心などが備わった。患者とは治療や看護を受けている人。ペイシェントは忍耐を語源とする。慢性疾患が主流。てんかん患者。てんかん発作を主な症状とする。薬の調整がうまくいけばコントロール可能。患者の役割はその人の一部分。家族や社会生活の役割。偏見や差別を受けやすい疾患。隠しておくことも。意識障害など、てんかんであることは少なからぬ影響を。てんかんを持つ人々などと表現する。見えやすくなったり見えづらくなったり。患者という用語の問題。実践との緊張関係がある学問。心理性とともに有用性が重視される。明らかになったことに加え、社会的意味。政策や実践における意味。短期のみでなく長期的視点からも。単なる研究者の興味や知的好奇心からでは研究は難しい。医療看護の研究では研究倫理の問題。諮問。精神的負担の。利益が上回る場合にのみ倫理的妥当性が。社会福祉の領域。歴史的なものや宗教的なものなど、多岐にわたる価値観が。問題解決志向の学問。報告書としてまとめたり、研究発表や論文著書などで社会に公開を。知見が実験に取り入れられる。他の研究者の追試も。
患者。障害を持つ人。アプローチ。疫学的アプローチ。人口集団別の特徴を把握。疾病対策を考える優先度。患者調査や死因別調査。データが公開されているので他の統計と関連性を。健康のリスクは社会経済的要因によっても異なる。健康の格差。社会経済的状況によるものは不公正。抑うつが多く要介護状態に陥りやすい。癌の罹患。経済的地位が低い人ほど罹患しやすい。癌発生要因。好ましくない健康習慣を持つ人は、経済的地位が低い人。関連性がある。がん診断後の生存率は地位が高い患者ほど高い。受診のタイミングが遅かったり、検診を受けづらかったり。正しい知識が得られづらい。かかりつけ医を持たない。アクセスの悪さなどの社会的不利。90年代なかばからは、根拠に基づく医療。看護は従来から科学的根拠に基づくことが重要視されてきたが。科学的根拠。開発された介入が患者にどのような効果が。アウトカムを重視。患者にとり意味があること。アウトカム指標を用いる。適切なエビデンスを作る。しかし研究は充分ではない。エビデンスレベル。高いものが推奨される。どのような研究デザインを用いるか。保健医療や看護の立場。望ましい保健行動に変容するのが目標。食事や運動や嗜好品など生活全般。患者にはコンプライアンスが。服薬コンプライアンスが重要。受け身の立場で。より積極的な医療への参加など。アドヒアランスという概念。言葉の選択は意識して吟味する。コンプライアンスの研究は沢山ある。薬剤を一定の血中濃度を確保するのがてんかんの症状を起こさない。飲み忘れの多い時間帯にアラームをかける対応など。行動に焦点を置くのが実際的。観察可能な客観的な指標を。修正が必要なのは行動。変えていきやすい。行動変容が上手くいかない時に、患者が無能さを認知するのが問題。てんかん患者の場合。単純な薬の飲み忘れ。ノンコンプライアンス。非意図的な場合。意図的に薬を飲まない主体的な行動には限界が。何故薬を飲みたくないのか。どのような意味を持つのか。主観的な経験はインタビューで把握できる。人前では服薬するのは憚られる。苦痛である。本当は治ったのではないかと確かめたかった、など。より深い患者の理解を。病経験。スティグマへの着目。負の烙印。精神障害などは沢山の研究が。好ましくない違い。スティグマを負わされた人が差別で対人関係が問題に。感じられたスティグマ。解雇のような明らかな偏見や差別。スティグマコーピング。他者に説明する対処。もっと一般的な病名で誤魔化したり。嘘を重ねる。常に警戒が解けず精神的苦痛が。通奏低音のように影響を。家族を対象にした研究。孤独な環境で育児を行う母親が増加。虐待予防。父親の育児参加も関心。予期せぬ妊娠で結婚。シングルマザー。経済的ゆとりがなく飛び込み出産の例も。新生児医療の高度化。命が保たれても母子分離が長くなり愛着形成に阻害を。虐待。母親が主体が多い。ネグレクトが多い。健全で安全な環境になるように支援する研究ニーズが。介護は家族が行うことが中心になる傾向が。担い手は女性が中心の時代から多様化が。同居家族介護者。80年代は息子の妻が30%以上。10年には男性が35%以上。配偶者が4割を占める。夫介護者の増加は続く。女性介護者が研究の中心だった。男性は少ないために分析できなかった。近年問題視されている介護虐待などは、男性の関与が。老夫婦間で起こる。夫が加害者に。00年には介護保険が。社会的介護の提唱はあったが、環境は改善されていない。介護は終わりのない領域に。介護の期間が長くなると、介護者の人生が考慮される必要。学問横断的に探求されるべき。地域を対象とした研究。ソーシャル・キャピタル。社会の効率性を高める。パットナム。日本でも開発学などで概念の紹介や理論的研究が。健康は最も実証されてきている。協力し合う地域では健康状態が良好に。逆も言える。地域づくりの根拠として。少子高齢化の社会において、アプローチとして期待されている。住民と専門家の協働。課題の当事者と研究者が協働で参加型研究を。従来の研究よりも実効性の高い制作づくりに。住民のエンパワーメントを高める。
データの質により、量的研究と質的研究。データが記号や数値化。インタビューや観察記録など多様なデータ。何を明らかにしたいのかで決まる。量的研究では頻度や関連の強さを。母集団への適用。重要性や優先度を考える面で有用。質的研究。より少ない対象の主観的対象を重視。深い理解が可能。プロセスの一例。量的研究。仮説と調査票の完成度が。質的研究。データを収集しながら焦点化。仮説は厳密でなくてもよい。まとめる過程が重要。研究計画の立案。倫理審査を見越した予定を。倫理委員会の承認には時間がかかることも。21世紀になって質的方法により、心理学社会学など多様な学問を貫く学際的国際的流れ。質的研究論文の高まり。個人の価値観を重視。各自の責任が強調される個人化。個人の目線に立ち、語りから追体験することで社会の本質に迫りうる。質的研究。90年代以降のナラティブ研究の急速な発展。実証的研究の多くは妥当性の確保を。量的研究には一定の蓄積を。手続的再現性を高めるのは質的研究の質の根拠に。信憑性を重視。インタビュー調査の中でもライフヒストリーの。内的一貫性により評価される。2人が全く異なることでも。データ収集からの過程を読み手に分かるように書いて透明化する。
文献の活用。学術論文は形式も重要視される。独自の規定。章の建て方など。医学用語辞典による。一般名を使う。keywordが決められている。実験動物を用いるなどの研究は倫理委員会の承認が。公的に流通させるために形式性が重視される。定式的に文献情報を書く。データベースで発見した文献を引用。整理が必要。番号で引用文献を対応。著者名はカッコ書き。APAスタイルなど。スタイルに関する規定。書き方についてはnetで調べることが出来る。

 

ヘルスリサーチの方法論―研究実践のための基本ガイド (放送大学大学院教材)

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