F-nameのブログ

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つ。#類語新辞典

数助詞として使用される。幼い頃には物の数え方で最初に教わるのではないか。一つ、二つ、三つ、という要領である。日本語の数詞については、「個」「冊」など多様である。

後は日本一駅名が少ない津(つ)駅なるシロモノもある。近鉄やJRもあるが、伊勢鉄道という第三セクターの駅でもある。元々は国鉄の伊勢線なのが第三セクターとなったものである。過去に伊勢線が開通していない時には、亀岡駅まで遠回りをしなければならなかった。今は伊勢鉄道があるので、9キロショートカットされている。

 

そう言えば高校の先輩にも「つ」先輩がいらっしゃた。

胆汁質(の人)。#アラン定義集

この類の人間は、性格としては短気なお方と考えられる。短気なヒトと言うのは、大抵は貴方の身の廻りにいるだろう。中には「瞬間湯沸かし器」の如く急にキレる同僚も、もしかしたら居るかもしれない。以前の私の職場にも、そんな同僚が働いていた。ただ仕事は出来る方なので、ヒラから係長に昇格することになった。その同僚は周囲から諭されたのか、怒りを我慢できるようになった。要するに自力で性格を変えようとされているので、職場で密かに褒め称えたことも。こういう成功事例もある。ただ、殆どの「瞬間湯沸かし器」は、周囲から指摘されてもなかなか改まら無いことが多い。換言すれば、そんな自覚が無いのが大抵である。人間関係は難しい。ううみゅ。

今日は五山送り火。それとオマケの直前情報。

今日8月16日は、京都市で五山送り火が執り行われる。通常モードで行なわれるのは3年振りである(今年は3年振りが多い年である)。地元の方々は、色々とコネを駆使して綺麗に見ることが出来るスポットを探したりする模様である。なお「大文字焼き」と話すと怒る人間もいるので注意。

私は高槻市在住だが、淀川の堤防から送り火が見えるということを聞いたので実行したことがある。ただ小さいのか障害物があるのかで眺めることは出来なかった。立ち並ぶ高層マンションの屋上に上がれば見えるかもしれないが、一般的に立入禁止にしているのが通常だろう(ビルメンの仕事なら業務で上がることはあるが)。

なお今年はNHKの衛星放送(BSプレミアム)で晩の7時から中継が行なわれるので、視聴すると面白いかもしれない。

ち。#類語新辞典

指示代名詞の後ろにくっつけて方角や場所、時間などの意味を示す。例えば「此方(こち)」。古くからある言葉である。同じ表記で「こちら」や「こなた」などと読んだりもした。今は音変化で「こっち」とも普通に使われる。後は「ちーちゃん家」なる4コマ漫画が以前から聖教新聞で毎朝掲載されている。それにしても新聞各紙は必ず社会面(要するにTV欄の前)に4コマ漫画を載せる。他の国はどうなっているのだろうか。

 

なお子供時代に「○○っち」と話したことがある方もいると思うが、要するに誰々の家のこと。私の時代はTVゲームを目当てにすることが多かったと記憶する。

好意・親切。#アラン定義集

昨年の11月のentryに「親切」という題名のものを書いた。

親切。 - F-nameのブログ

要するに外国人と言えども社会の反応は一様では無い、という話である。肌の色などで扱い方が違うことはある(そう言う状態を良しとは考えないが)。今年の2月にウクライナは軍事侵攻を受け多くのウクライナ人が国外に脱出したが、たまたま肌の色が黒いからと、ウクライナ人に見えず助けが借りれないなんてこともあった。日本でも多くの避難民を受け入れている。しかしながら、今後は周囲にある人々が飢えている国から、難民が大量に出る可能性がある。果たして日本は事態に対応出来るのだろうか。周囲の国にとり経済的に大きな負担になるのは、ウクライナの件で明らかである。

 

お盆に先祖を想う。

日本列島ではこのところお盆の期間とされる場所が多い(ただ地域により期間が異なるけど)。3年ぶりに行動制限が呼び掛けられていないので、故郷にUターンされている方々も多数いらっしゃるかと思われる。高速道路や新幹線などのラッシュも発生するのは当然だろう。移動すすのも大変だが、出迎えるのも同様に大変である。住まいの何処かに夜は休んでもらわないとならないし、ご馳走も必要。子供の頃、私の家では福井県の若狭地方に向かうのが恒例になっていたが、お土産に頭を捻っていたのを覚えている。それから御先祖への墓参りもする。しみじみと感じる事柄は色々とある。私が産まれたのは偶然の産物ではない。

た。#類語新辞典

日本語の文法では助動詞「たり」の連体形「たる」の音変化で「た」が頻繁に使用される。それで用法としては、「昨日出張から帰ってきた」や「原稿をやっと書いた」となる。要するに動作が過去だったり完了したりと言う意味である。それはそれで良いのではあるが、過去のことだから文末を「た」で揃えると一本調子というか、「〇〇が起こり、今は違う所にいる」と読む側は感じてしまう。つまり臨場感が無くなってしまう。もちろん、過去のことなので全く使用しない訳にもいかず、難しい。

 

日本語には助詞の「た」があるから単調になるけど、英語はどうなのだろうか。