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ラナ・プラザ後の世界――国連「ビジネスと人権に関する指導原則」と企業責任の新常識 #放送大学講義録(持続可能な社会と生活第4回その6)

ーーーー講義録始めーーーー

 

国連「ビジネスと人権に関する指導原則」の確立とラナ・プラザ崩落事故が変えた世界

■ ラギー・フレームワークと指導原則の誕生

こうした国際的な人権・労働の規範をベースとしつつ、企業活動と人権の関係を考えるうえで、新たな国際規範として確立した極めて重要な文書が、「国連ビジネスと人権に関する指導原則」です。英語では、Guiding Principles on Business and Human Rights: Implementing the United Nations “Protect, Respect and Remedy” Framework といいます。この指導原則は、2011年に国連人権理事会で全会一致により支持されました。条約ではないため、国際法として直接の法的拘束力を持つものではありません。しかし、国連人権理事会によって支持され、政府、企業、市民社会、投資家、国際機関の間で広く参照されるようになり、ビジネスと人権の分野で最も重要な国際的ソフトローの一つとなっています。

ハーバード大学のジョン・ラギー、John Ruggie 教授は、2005年に「人権と多国籍企業その他の企業」に関する国連事務総長特別代表に任命されました。企業活動が世界中に広がる中で、サプライチェーンの奥深くで起こる労働搾取、強制労働、児童労働、土地収奪、環境破壊、地域住民の権利侵害などに、国際社会がどう向き合うのかが問われていました。従来の国際人権法は、主として国家の義務を中心に発展してきました。しかし、グローバル企業の影響力が大きくなるにつれて、国家だけでなく企業も人権に対してどのような責任を負うのかを明確にする必要が出てきたのです。

ラギー氏は、2008年に “Protect, Respect and Remedy” Framework、すなわち「保護・尊重・救済」フレームワークを示しました。これが、一般にラギー・フレームワークと呼ばれるものです。その後、この考え方を発展させ、より具体的な行動指針としてまとめられたのが、2011年の国連「ビジネスと人権に関する指導原則」です。

指導原則の中核は、三本柱からなる考え方の枠組みです。

ラギー・フレームワーク(三本柱)
第一の柱:人権を保護する国家の義務
第二の柱:人権を尊重する企業の責任
第三の柱:救済へのアクセス
    人権侵害が生じた際の司法的・非司法的な救済手段の実効化

ここで重要なのは、国家と企業の役割を混同しないことです。人権を保護する一次的な義務を負うのは国家です。国家は、法律、政策、司法制度、行政監督などを通じて、人々の人権が侵害されないように保護する義務を負います。一方で、企業は国家と同じ意味で国際人権法上の義務主体になるわけではありませんが、人権を尊重する責任を負います。これは、企業が自らの事業活動によって人権への負の影響を引き起こしたり、助長したり、あるいは取引関係を通じて負の影響と直接結びついたりしないようにする責任です。

これは、企業の責任を免じるものではありません。むしろ、企業が「法律に違反していなければよい」と考えるだけでは不十分であることを明確にしたものです。ある国の国内法が弱かったり、執行が不十分だったり、労働者や住民が声を上げにくかったりする場合でも、企業には国際的に認められた人権を尊重する責任があります。社会的な責任を果たすことは、形式的な法令遵守を超えて、社会からの正当な要請・期待に応えることであり、そのための仕組みと能力を日頃から高めておくことを意味します。

■ 人権デュー・デリジェンスとは

また指導原則では、企業が取るべき具体的な行動として、人権デュー・デリジェンス、Human Rights Due Diligence を中心に位置づけています。人権デュー・デリジェンスとは、企業が自らの事業活動、製品、サービス、取引関係に関連して生じる人権への負の影響を特定し、防止し、軽減し、どのように対処したかを説明するための継続的なプロセスです。ここでいう due diligence は、単なる事前調査という意味にとどまりません。相当な注意を払い、リスクを見つけ、実際に対応し、結果を確認し、外部に説明する一連の経営プロセスを指します。

指導原則に即して整理すると、企業の人権尊重責任を実行するために必要なのは、主に次の要素です。

企業の人権尊重責任を実行する仕組み
① 人権方針によるコミットメント
② 人権への実際の、または潜在的な負の影響の特定・評価
③ 評価結果を社内プロセスに統合し、予防・軽減措置を実施すること
④ 対応の実効性を追跡評価すること
⑤ どのように対処したかを外部に説明・コミュニケーションすること
⑥ 企業が負の影響を引き起こした、または助長した場合に、救済に協力すること

講義の中では、これをわかりやすくPDCAサイクルに重ねて説明することもできます。ただし、厳密には、人権デュー・デリジェンスは単なる社内管理のPDCAではありません。人権リスクは、企業のリスクではなく、まず人々に対するリスクとして捉える必要があります。企業にとって評判が悪くなるかどうか、訴訟リスクがあるかどうかだけを見るのではなく、労働者、地域住民、消費者、先住民族、子ども、移住労働者、女性、障害のある人々など、実際に影響を受ける人々にどのような被害が及ぶのかを見なければなりません。

そのため、人権デュー・デリジェンスには、机上のチェックリストだけでなく、影響を受けるステークホルダーとの対話が不可欠です。サプライヤーにアンケートを送るだけでは、工場の現場で労働者が本当に声を上げられているかはわかりません。監査の当日だけ職場が整えられていても、普段の長時間労働、賃金未払い、ハラスメント、組合活動への妨害、技能実習生や移住労働者への搾取が隠れていることもあります。だからこそ、人権尊重はお題目でも精神論でもなく、企業のマネジメントに組み込み、現場の声を聞き、継続的に改善していくべきテーマなのです。

また、人権侵害が発生した場合に、速やかに救済手段を講じられるよう、苦情処理と是正の仕組みを構築しておくことも必要です。救済へのアクセス、access to remedy は、指導原則の第三の柱です。救済には、裁判所による司法的救済だけでなく、行政機関、労働委員会、国家人権機関、OECD多国籍企業行動指針の各国連絡窓口、企業内の苦情処理制度、業界団体の仕組みなど、さまざまな非司法的救済も含まれます。大切なのは、被害を受けた人が声を上げられること、報復を受けないこと、実際に問題が是正されることです。

■ なぜ「ソフトロー」が世界の規範となったのか

指導原則は、条約でも国内法でもありません。そのため、企業に対して直接に刑罰や行政処分を科す文書ではありません。しかし、「法的拘束力がないから重要ではない」と考えるのは誤りです。指導原則は、国連人権理事会で全会一致により支持され、その後、各国政府の政策、企業の行動規範、投資家の評価基準、国際機関のガイドライン、業界団体の基準、サステナビリティ報告の枠組みなどに組み込まれていきました。その結果、条約ではないにもかかわらず、企業行動を強く方向づけるソフトローとして機能するようになりました。

その背景には、ラギー氏が採った現実的で包摂的なプロセスがあります。ラギー氏は、検討段階において、膨大な量の実態調査を行い、コンサルテーションと呼ばれる様々なステークホルダーとの協議を繰り返しました。資料では、指導原則の形成過程で、5大陸における約50回の国際協議、多数の現地訪問、企業や地域社会でのパイロットプロジェクトが行われたと説明されています。政府、企業、労働組合、NGO、先住民族、投資家、法律家、国際機関など、立場の異なる人々の意見を聞きながら、理想論だけでも、企業の自主性だけでもない、実行可能な共通基準がつくられていったのです。

このようなプロセスを経たため、取りまとめられた指導原則は、実社会の現実や様々な関係者の意見が反映された、比較的受け入れやすい内容となりました。政府にとっては、人権保護義務を再確認しながら、企業に対してどのような政策をとるべきかを示す文書となりました。企業にとっては、何をすれば人権を尊重していると言えるのかを示す実務上の基準となりました。市民社会にとっては、企業に説明責任を求めるための共通言語となりました。

こうして指導原則は、条約でも国内法でもないにもかかわらず、国際社会の共通規範となりました。現在では、各国の人権デュー・デリジェンス法制、サプライチェーン規制、公共調達、投資家のESG評価、企業のサステナビリティ報告、人権方針の策定などに大きな影響を与えています。ソフトローは、ハードロー、つまり法的拘束力のある法律や条約と対立するものではありません。むしろ、社会の期待を先に形にし、その後の法制度や企業実務の発展を促す役割を果たすことがあります。ビジネスと人権に関する指導原則は、その代表的な例だといえます。

■ ラナ・プラザ崩落事故が世界を変えた

「ビジネスと人権」は、G7やG20といった国際会議でも、政治リーダーが議論する政策アジェンダになっていきました。こうした動きの大きなきっかけの一つとなった出来事が、2013年にバングラデシュで発生した「ラナ・プラザ崩落事故」です。

ラナ・プラザは、バングラデシュの首都ダッカ郊外、サバールにあった商業ビルです。そこには複数の縫製工場が入り、欧米を含む世界のアパレルブランド向けの衣料品が生産されていました。2013年4月24日の朝、このビルが突然崩落しました。中で働いていた労働者のうち、少なくとも1,132人、資料によっては1,134人が死亡し、2,500人以上が負傷するという、縫製産業史上最悪規模の大惨事となりました。

この建物は8階建てで、違法な増築が行われていたとされ、崩落前日には壁の亀裂が確認されていました。銀行や店舗など一部の施設は危険を察知して閉鎖された一方で、縫製工場の労働者たちは出勤を求められたと報じられています。労働者は、仕事を失うこと、賃金を失うこと、上司に逆らうことを恐れ、危険を知りながら建物に入らざるを得ませんでした。その直後にビルは崩落し、多くの人々が瓦礫の下敷きになって命を落としました。

この事故は、単なる建物の安全管理の失敗ではありませんでした。低価格・短納期を求めるグローバルなアパレル産業の構造、弱い労働者保護、劣悪な労働環境、複雑で不透明なサプライチェーン、現地行政の監督不全、発注企業の責任の曖昧さが重なって起きた事故でした。現場で働いていた労働者の多くは、低賃金で働く女性たちでした。私たちが安価な服を手に取るとき、その価格の裏側で、誰がどのような条件で働いているのかが問われるようになったのです。

ニュースは世界中を駆け巡り、グローバル企業のサプライチェーンにおける労働の実態に多くの人が目を向けることとなりました。この事故を契機として、バングラデシュでは Accord on Fire and Building Safety in Bangladesh など、工場の建物安全や火災安全を改善するための国際的な枠組みが作られました。また、アパレルブランドに対して、自社だけでなく委託先工場、さらにその下請け先まで含めて責任を果たすべきだという声が強まりました。

この事故に触発されて製作されたドキュメンタリー映画として、The True Cost があります。監督は Andrew Morgan です。この映画は、安価な服が大量生産・大量消費される時代の裏側にある、労働、人権、環境、消費文化の問題を描きました。映画の制作動機について、ラナ・プラザ事故のニュースに衝撃を受けたことが紹介されています。ただし、元の講義録にある監督の発言については、今回確認できた主要資料では同じ文言を直接確認できなかったため、ここでは直接引用ではなく、制作の背景として説明するにとどめます。

■ G7・各国政府の動きと日本の行動計画

2015年にドイツで開催されたG7エルマウ・サミットでも、責任あるサプライチェーンの問題が取り上げられました。首脳宣言では、政府と企業が持続可能なサプライチェーンを育てる共同責任を認識し、サプライチェーンの透明性と説明責任を高めるために、企業がデュー・デリジェンス手続を実施することを奨励するとされています。また、苦情処理メカニズムの強化や、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」への支持も示されました。これは、ラナ・プラザのような事故を一国の問題としてではなく、グローバル経済全体の責任として受け止める流れを強めるものでした。

その後、各国がビジネスと人権に関する国別行動計画、National Action Plan: NAP を策定する動きが広がっていきました。NAPは、国連指導原則を各国の政策に落とし込むための文書です。政府がどのように人権を保護するのか、企業にどのような人権尊重の取り組みを期待するのか、救済へのアクセスをどう整備するのかを示す役割を持ちます。「ビジネスと人権」は、もはやCSRの一分野にとどまらず、貿易、投資、公共調達、開発協力、労働政策、消費者政策、金融政策にも関わる世界共通の政策アジェンダとなっていきました。

日本政府も、2020年10月に「ビジネスと人権」に関する行動計画、すなわち National Action Plan on Business and Human Rights (2020-2025) を策定しました。そのポイントは、次のように整理できます。

日本の「ビジネスと人権」に関する行動計画のポイント
① 国連「ビジネスと人権に関する指導原則」を踏まえて策定されたこと
② 政府として、関連する法律・政策・今後の施策を整理し、省庁間の連携を促進すること
③ 企業に対して、人権デュー・デリジェンスの導入促進への期待を示していること
④ 救済へのアクセス、公共調達、開発協力、労働、消費者、投資など幅広い政策領域に関わること
⑤ 日本企業の国際競争力の向上と、SDGs達成への貢献につながることが期待されていること

日本ではその後、経済産業省が「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」を策定するなど、企業に対する実務的な要請も強まっていきました。企業もすでに動き出しています。サプライヤーへの要請と指導を行う、工場への立ち入り監査を行う、労働者への聞き取りを行う、児童労働や強制労働のリスクを確認する、苦情処理窓口を整備する、外国人労働者や技能実習生の処遇を点検する、調達基準を見直す、といった取り組みが広がっています。

また、業界全体でグッドプラクティス事例を共有するなど、1社だけでは解決が難しい課題に共同で取り組む動きもあります。サプライチェーンの人権リスクは、ある企業だけが努力しても解決できないことがあります。発注価格が低すぎる、納期が短すぎる、下請け構造が複雑である、労働組合が弱い、行政監督が不十分である、といった構造的な要因があるからです。そのため、企業、業界団体、政府、労働組合、市民社会、投資家が連携して取り組む必要があります。

人権デュー・デリジェンスの実施状況を、サステナビリティ報告書、統合報告書、人権報告書、現代奴隷声明などで情報開示する企業も増えてきています。情報開示は、単に企業のイメージをよくするためのものではありません。どのような人権リスクを特定し、どのように対応し、どの程度改善できたのかを、社会に対して説明するためのものです。説明できない取り組みは、外から検証することができません。だからこそ、透明性は人権尊重の重要な条件なのです。

■ ユニリーバとマークス・アンド・スペンサーの先進事例

他社に先駆けて2015年に、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」に基づく UN Guiding Principles Reporting Framework を包括的に用いた人権レポート、Human Rights Report を発行した企業の一つが、英国に本社を置くユニリーバ、Unilever でした。同社は、食品、洗剤、パーソナルケア製品などを扱う世界的な消費財企業であり、サステナビリティを経営に早くから取り入れてきた企業として知られています。ユニリーバは、それまでにもサステナビリティ・レポートを発行していましたが、2015年には人権に特化した独立の報告書を発行しました。

ユニリーバの2015年の人権レポートは、同社にとって初の人権報告書であり、UN Guiding Principles Reporting Framework を包括的に用いた初の報告書とされています。報告書では、差別、公正な賃金、強制労働、結社の自由、ハラスメント、健康と安全、土地の権利、労働時間など、同社にとって重要な人権課題が取り上げられています。これは、企業が自分に都合のよい成果だけを語るのではなく、自社の事業やサプライチェーンにどのような人権リスクがあるのかを正面から説明しようとする取り組みでした。

また、食品や衣料などを扱う英国の小売チェーンである Marks & Spencer、マークス・アンド・スペンサーも、2016年に初の独立した人権レポートを発行しました。同社は、国連「ビジネスと人権に関する指導原則」やOECD多国籍企業行動指針などを基礎に、人権尊重の取り組みを進めていると説明しています。M&Sの取り組みでは、サプライチェーンにおける労働権、強制労働、現代奴隷、児童労働リスク、移住労働者、取引先への基準、苦情処理、デュー・デリジェンスなどが重要なテーマになっています。

元の講義録には、M&Sが刑務所からの出所者を毎年一定数雇用する取り組みを報告している、という記述があります。社会的に就労困難な人々を雇用する取り組みは、人権尊重や包摂の観点から重要です。ただし、今回確認できたM&Sの人権レポート関連資料からは、この記述を同社の2016年人権レポートの主要事例として十分に裏取りすることができませんでした。そのため、ここでは確認できる範囲に基づき、サプライチェーンにおける労働権や現代奴隷、児童労働リスクへの取り組みとして整理します。

ユニリーバとM&Sの事例からわかるのは、人権尊重とは単に「人権侵害を起こさない」と宣言することではないということです。自社の事業活動とサプライチェーンの中で、どこに深刻な人権リスクがあるのかを特定し、影響を受ける人々の声を聞き、対策を講じ、進捗を確認し、外部に説明することが必要です。さらに、労働者の生活向上、小規模農家の支援、女性のエンパワーメント、移住労働者の保護、苦情処理制度の整備など、積極的に人権尊重を進める取り組みも重要です。

人権侵害を起こさないというネガティブ・インパクトの回避は、企業にとって最低限の責任です。しかし、持続可能な社会を考えるなら、それだけでは十分ではありません。企業は、自らの事業を通じて、働く人々の尊厳を守り、地域社会の生活を支え、弱い立場にある人々が排除されない仕組みをつくることにも関わることができます。もちろん、企業の取り組みを過大評価して、国家の責任や法制度の必要性を忘れてはいけません。けれども、企業がグローバル経済の中で大きな影響力を持つ以上、人権尊重を経営の中心に置くことは、もはや任意の善意ではなく、社会から求められる基本的責任になっているのです。

ラナ・プラザの崩落事故は、私たちに厳しい問いを投げかけました。安い商品、早い納期、便利な消費の裏側で、誰かの命や健康や尊厳が犠牲になっていないか。企業は、自社の見える範囲だけを管理すればよいのか。消費者は、価格だけを見て買い続けてよいのか。政府は、国境を越えるサプライチェーンに対してどこまで責任を持つべきなのか。国連「ビジネスと人権に関する指導原則」は、これらの問いに対して、国家、企業、社会が共通して参照できる土台を与えました。持続可能な社会をつくるためには、環境だけでなく、人権と労働の尊厳をサプライチェーンの隅々にまで届かせる必要があるのです。