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現代的な経験論の源流(経験論から言語哲学へ第8回)

マッハの哲学?は突き詰めていくと面白いかもしれない。

 

経験論がどのように受け継がれたのか?結節点は?現代的な経験論はドイツ語圏から。現代的な経験論の源流、ブレンターノとマッハ。
ブレンターノ。アリストテレス研究から出発。心理学的方法を。自然科学の方法で。心的現象と物理的現象を区別、志向性。心にまつわる現象を志向性として特徴づける。何かを知覚したりして生活している。対象を志向する、という心的現象。対象は内在的なもの。現象学という一大潮流に繋がる。ドイツやフランスで主流に。英米哲学にも影響を。ラッセルの議論の中に。現象学の父フッサールにも。フロイトもブレンターノの講義を受けて感銘を受ける。
マッハの哲学。ブレンターノと同年代。流体に関する実験に因んで。空気が衝撃波に。写真を撮影する。光電や電子誘導などの物理的研究など、自然科学者として幅広く運動。最も顕著なのは自然哲学の分野。83年には「マッハ力学」。86年には「感覚の分析」。科学理論を統一的観点で位置づけるのが主な関心。哲学とは形而上学と考えていた。経験を超えた要素は科学理論から駆除されるべきもの。世界は感覚の内に。知りうることは感覚の内に現れる。自然法則や数学的真理ですら相対的なもの。経験的な探求で見出されたものなので。今後は無効になり得る。感覚は個人的影響から解放されうる。感覚は個人のものではない?誰のものでもない感覚が存在する?それを仮定する、それがマッハの思考の要。形而上学の駆除の意図は、ニュートン力学。均一に流れる時間、絶対空間と絶対時間が前提。その上での物質の運動の理解を。それに対して、マッハは絶対空間と絶対時間が存在しないと説いた。あくまで空想の産物。相対的運動に過ぎない。マッハによる経験論の徹底、物質というものも形而上学的実在では有り得ない。全ては感覚、感性的なもの。物も安定した集まりに過ぎない。音などの感性的要素を離れては有り得ない。安定度の違いに過ぎない。世界は感覚の集まり。感性的要素に還元されるもの。要素還元主義的主張。しかし世界は寄せ集めと言っている訳ではない。全体は部分の寄せ集めではない。一個一個の音を聞いて集めているのではなく、はじめから一連のメロディーとして聞いている。先ずは全体が把握できて初めて部分を分析しうる。自然というものは要素として始まったものではない。全体から目をそらしてはならない。全体への眼差しが最初にある。複合体の全体が重要。要素と全体、要素同士の連関、関数的連関。xyzで現れる関数F。関数全体が与えられていて初めて、xyzを考えることが出来る。
マッハの経験論。形而上学は駆除されるべきもの。知りうることは全て感覚の内に現れる。全ては感性的要素の集まり。しかし要素還元主義は唱えない。端的に全体が与えられているから。私という存在、知覚する自我、それが外部に存在することが暗黙の前提になっているのではないか?自我というものも感覚的要素に。一層連関し合っているだけ。世界で最も根源的なものは感性的要素。それが自我を形作る。先ず感覚が世界に存在する。連関して比較的強いものが自我。感覚は誰かのものではない。むしろその誰か、も感性的要素の集まり。極端な経験論は中性的一元論とも呼ばれる。唯物論を唱える訳ではない。観念論を唱える訳でもない。ニュートラルなもの。誰のものではない感覚、は存在すると言えるのか?という疑問。主体なしに感覚が存在するのは奇妙ではないか?思考の節約の原理に訴える。事実を最も簡単に表現するものが科学。連関として自我を表現するのが思考節約になる。分子や原子といった実在を基にするよりも科学理論として優れている?徹底した経験論になっている。主客未分の。

 

経験論から言語哲学へ (放送大学教材)

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