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市民自治の思考法(1)(市民自治の知識と実践第2回)

ウェーバーの2つの著作は紐解いてみたいと思う。絶望的に遅いかもしれないけれど。

 

市民自治をどうやってやるべきか、技術論の前にどのように考えていくのか。社会科学とはどのようなものか。学問と実践の関係。根源的な問題。社会科学が市民自治という実践とどういう関係を持つのか。主知主義。主意主義と対比。知識というものを中心として。意志というものを中心として。大学で学ぶ人は多かれ少なかれ主知主義的。ソクラテス。知識を持っていてもそれを実行するという意志が無ければ。意志の弱さが問題、乗り越える必要が。現実ではこの2つが混ざり合う。主知主義へのコミットメント。先ずは知識の重要性を認める。同様に意志の問題も。市民の自発的な参加。意志を持って。しかし知識に照らされていなければならない。でないと意志が暴走する。学問的知識によって照らされているべき。学問と実践の関係。古典を。ウェーバー。「職業としての学問」「職業としての政治」。岩波文庫。学問とは?学問の倫理とは?政治という実践をどのように考えるべきか?この2つをどのように総合するか?
「職業としての学問」。20世紀初頭。学問を職業とする者は、専門家というものが不可避。全体的に語ることは学問のテーマではない。仔細のような学問に集中、諸学との連関を絶つ。世界、世間からの断絶。社会の複雑化で事象を研究するには。学問は学問の為にある。どんな価値がある?トルストイ。現実では無意味な存在。前提とされた価値に基づいて事実説明をする。価値そのものを評価することは出来ない。政策を扱う。教育の場において政策というものは論じられるべきではない。政策は価値を前提とするから。政策を扱っても良いが、相対的にしか論じられない。どのような政策ならうまくいくのか、ということが。大学であれ高校であれ、自らの制作を押し付けることは許されない。では、学問は実践に役立たない?3つの点で学問は実践に貢献できる。予測可能性を、因果関係を法則的に説明できる。自然科学とパラレル。思考力。思考する力が高まる。明晰化。実践そのものを明確化する。自らを反省できる。何を目標とし何を手段とするのかを自己理解出来る。自己反省。時代判断。神々の闘争の時代。究極的な価値が複数あり、互いにぶつかりあっている。各個人がそれぞれの持つ価値、それが衝突する。同じ価値を持つならともかく。在る目的を達成するために手段を採用する場合、別の目的が阻害されるかもしれない。価値の対立。豊かな生活。原子力発電が必要。しかし、核のゴミを何万年か残す、後の世代の負担になる、という価値を損なう。安全か自由か。監視カメラがあった方が良いか悪いか。学問をする。仕える神は皆同じではない。暴露する。各々の価値にコミットメントしていることを。政治家は都合の良いことしか言わないが、政治学者は都合の悪いことも言わなければならない。暴露することが学問。価値の多元主義が前提となる世界では、学問は一定の距離を取ることが必要。実践から距離を。
「職業としての政治」。神々の闘争という条件。共通の前提。価値の多元主義。仕事に専心。政治家の仕事の前提。価値の衝突の中で選択せざるをえない、それが政治。理想状態の政治ではない。大抵の政治家はそれを期待できない。犠牲を生むことを覚悟しなければならない。どのような資質が?権力勘定、効用化。権力を握っている高揚感。未知のものが必要。情熱と責任感と判断力。確固たる決意。無根拠の決断ではなくて根拠のある判断。政治家の理想像。心情倫理と責任倫理。心情倫理は心の底から正しいことをする。責任倫理。自分の行うことの責任により注意をする。動機の正しさに対し、結果に着目する、結果の正しさに。政治家は両方あるが、特に責任倫理が重要。政治の本質、権力、とりわけ暴力。選択は犠牲を伴う。良い目的を実現するためには、道徳的にいかがわしい行為も必要なことを自覚すること、それが政治家に要求される。心情倫理だけだと、正しいことしかしたくないということになり、政治家として失格。ダーティーハンド。悪しき手段を取るのも政治家に必要。引き受ける決意を。リアリズム。政治家は自らの行為に責任を持たなければならない。結果が悪いと選択の失敗として引き受けなければならない。事件が政治家の選択が下で、「仕方がなかった」「予想外」。この言い訳は政治家として言ってはいけない。できるだけの予測を。選択についての責任感を。政治家の資質。結果を考慮しない政治は極めて危険。動機が正しいのなら結果はどうでもいいのは無責任。それでも政治家には心情倫理も必要。統合されるところにこそ理想の政治家。結果責任をギリギリまで遂行して、計り知れない感動を。冷血な計算だけでなく、価値へのコミットメントも必要。
市民自治に戻り、どのような統合が?責任倫理と学問の知識の結びつき。結果について責任を持つためには、今何をしたらどうなるかという予測をしなければならない。責任のある決断があるけれど、学問による知識に照らされていなければならない。正しい動機で集まった人々が、予測なしに突っ走るのは無責任。学問と実践は、目的手段について合理性を持つことが出来る。学問の力で点検出来る。限界はあるが、努力はしないといけない。責任倫理のみでなく心情倫理も必要。学問は合理性をもたらすが、人間の実践においては非合理的なものも重要。ウェーバーは大衆と官僚制の問題で、デマゴーグを。民主制を乱す者として扱われるが、カリスマ、人間的魅力の重要性を認める。カリスマやレトリックが重要、政治家にも必要。政治家は自己の課題を社会に人々に承認させる技術も必要。学問のもたらす合理性だけでは人は動かない。学問と社会科学、責任ある自治の拡大。市民が自治をする、形式だけでなく、内容も重要。世の中の仕組みを理解する。目的手段関係の合理性を問う。責任のある自治。結果が重要?市民自治というものの転換点は、市民自治が政治化されること。結果の意識が。だからといって結果が全てでもない。公共的な事柄に参加する、しばしば失敗に終わるが、市民自治そのものに価値があると考える観点もある。市民にする教育。市民自治。未来において成功するには経験が必要。結果だけではなくて過程も。デモを行っても変わらなければ無意味なのではない。参加した経験が残る。じゃあ参加すればそれで良い、だと無責任になってしまう。責任倫理の重要性。市民自治そのものの価値はあるが、結果はどうでもよい、というのではない。2つの倫理を考えるのが重要。学問も。必要な知識と共に、何をやっているのかの反省を。デマゴーグ。実践は人々を動かすことが必要。レトリックやコミュニケーション。学問と実践はそもそも別なもの。2つを共同で遂行することが出来る。しかし常にうまくいくわけではない。自覚的でありながら学問と実践を。
専門知と実践知。どう結びつけるか?専門家と普通の市民の関係性。市民が専門性を持つのが手っ取り早いが。専門化が学問の流れ。極めることは難しい。プロフェッショナルと一般市民が共同する必要がある。環境問題の事例。専門知識の活用。自治体のローカルな文脈で実現するには、統治より自治の方がうまくいく。上から下への流れでは、専門家がプロセスに入ることが難しい。在る種の意見の多様性が在る方が、専門知識が活かされる場合が多い。

 

市民自治の知識と実践 (放送大学教材)

市民自治の知識と実践 (放送大学教材)