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東アジアの近代(現代東アジアの政治と社会第2回)

日本と中国朝鮮の帰結を分けたものは何だったのかは明確にしておく必要があるかもしれない。

 

家近亮子。東アジアの近代。学び舎としての日本。西洋の衝撃と東アジア。東アジアの近代は西洋の衝撃により。近代資本主義を非ヨーロッパに流しこむ。精力的に。帝国主義の時代。多くの国が植民地に。東アジア諸国は開国に。いわゆる中華世界はイギリスに変容を迫られる。近代的外交関係を求めて。中産階級が財力を持つようになり、資本家階級の家でも紅茶を。アフタヌーンティー。中国との貿易が必須に。中国は無関心だったので銀の流出は深刻。貿易赤字の解消のためにアヘンの密貿易を。銀の逆入現象が。密輸量は急増。1839年の欽差大臣に任命された林則徐。2万箱のアヘンを海中に。40年にアヘン戦争が。42年の南京条約。清朝が不平等条約を。領事裁判権と関税自主権の喪失。民族資本の成長を阻害。賠償の支払いのために増税がなされ農村が疲弊。太平天国の乱に。アヘン戦争の情報を詳細に日本に。44年までの間に19件が残される。ほぼ正確に。江戸の学者たちは原因を分析。清朝の支配層が情報に疎く西洋諸国を無視した。西洋の武器が強力。いたずらに西洋と争うべきでなく技術に学ぶべき。内政の改革も。開国論の根拠に。外国の情報に熱心だったのは重要な意味を。東アジアのグローバル化は進んでいく。42年に外国船に燃料や食糧を。46年に浦賀に来航。53年にぺりーを使節として来校させ開国を迫る。黒船で再来航して。日米和親条約。鎖国政策の終焉。58年には日米通商航海条約が。関税自主権の喪失や領事裁判権が入った不平等条約。井伊直弼の暗殺。桜田門外の変。内戦、戊辰戦争が。大政奉還を申し出て王政復古の大号令が。徳川家の支配は幕を閉じる。明治政府の発足。新政府は政治経済などを全て新しく。明治維新の語源。明治憲法は15歳という若さ。68年に五箇条の御誓文を。最初には広く会議を興し万事口論に徹すべき。グローバルな価値観を共有。方向性を決定。明治政府は三大改革に。学制の改革など。73年に徴兵令。軍国の基礎に。文明ならしめる。72年に学校建設に着手し義務教育制度を。休息に実行できたのは教育重視からの識字率の高さ。73年に地租改正条例を。税制改革。金納に。近代的租税体系。産業の振興に力を。産業革命はスムーズに。ひたむきにヨーロッパを模倣しそれが近代の証に。近代化の模範に。中国でも朝鮮でも日本を模倣することに。
19世紀後半は帝国主義の成熟期。世界分割。列強による勢力拡大。中国朝鮮の次は日本。両国に改革を迫る。興和論。中国と韓国との違いをアピールする。脱亜論。福澤諭吉。35年産まれ。幕末の混乱で蘭学を身に着けようと長崎でオランダ語を。独学で英語を。咸臨丸で渡米。ヨーロッパ各地を回り再び渡米。万国公法はあるが国家間は平等ではないことを。最大の関心事は如何にして日本を文明化するか。その方法を学問に。72年の「学問のすゝめ」。ベストセラーになり近代化論者の代表に。明るい明治を。暗い昭和に繋がる。アジア蔑視に。ここでは教育論と国家論。同書は72年から全17篇で。人の上に人を作らず人の下に人を作らず。自ら語ったというのは誤解。真実ではなく、人は様々。差は学ぶと学ばざるとによると。学問は出世のための唯一の必要条件。人の上に立つために学問に。学問をしない人は人の下に。この論理を国家関係にも。国際的に先進国に肩を並べるのに学問を。怠ると劣等国の道を。帝国主義の論理に。興亜論者だった。慶應義塾に81年から朝鮮からの留学生を受け入れ近代化教育を。82年に朝鮮の日本公使団が襲撃される。朝鮮の謝罪で収まったが、2人は福澤と交流したが、日本のような近代化を目指すように、帰国後に近代化を民衆に広めようとする。危機を感じた清朝は3000名の兵士を進駐。2大派閥に分裂。金玉均らは甲申政変を。このクーデタは清朝の介入で失敗する。福澤は新聞で朝鮮独立党の処刑という記事を書き清朝などを攻撃。脱亜論。既に朝鮮中国の独自の改革に見切りを。脱亜の二字あるのみ。日本は西洋の文明に。近隣に中国と朝鮮。旧態依然のまま。このままでは亡国に。最後に日本は文明国と進退をともにすることを。脱亜入欧の宣言。金玉均は94年に暗殺される。遺体は朝鮮で晒し者に。
中国の近代化。洋務運動。重税下で農民が苦しく。太平天国の乱。洪秀全。南京を占領する。正規軍だけではなく漢民族の軍隊を。洋務運動の指導者が出てくる。鎮圧の功績で発言権を。外国から技術の導入を。中体西用。西洋の技術の導入で補完維持。重工業中心の近代的工場などが建てられる。しかし民衆への増税に繋がる。諸外国からの借款で賄おうとしたので外国が干渉を。84年のフランスとの戦争と日清戦争で破綻。ベトナムと朝鮮の独立を争う。清仏戦争に敗北。日清戦争。60年に創始された新興宗教。独自の競技を持つ。東学党の乱。農民反乱。時代党は清朝の出兵を要請したが、日本にとり口実に。出兵を閣議決定。94年に日本は清朝に最終文書を朝鮮政府に。王宮を武力制圧。8月1日に清朝に宣戦布告。95年3月に李鴻章が来日して交渉。下関で。伊藤博文など。清朝と朝鮮の相続関係の解消。賠償金。2億テール。日本の国家歳入の2年分。下関条約。朝鮮を植民地する基本条件に。金本位制に切り替えることが出来る。軍事大国への足がかりに。台湾については台湾総督府を。97年から民政に切り替えられ後藤新平がインフラ整備などを。日清戦争後の清朝。康有為。日本化による近代化。日本の変法、制度改革。上書はなかなか取り上げられず。中国は列強に分割される可能性があるので資本主義を。教育の充実を。光緒帝。わずか4歳で皇帝に。西太后が実権を。自ら政治を行うべく上書を採用。科挙の廃止。学校の創設。新聞の発行など。日本の明治維新を模倣。しかし限界もあった。光緒帝の改革に対していわゆる守旧派はクーデタを起こす。康有為らは日本に逃れる。変法派は壊滅的打撃を。戊戌の政変。百日維新。西太后と側近グループに政策変更を余儀なくさせたのは義和団事件。98年に天災が頻発し流人が大量に。キリスト教会を襲うように。扶清滅洋をスローガンにして排外運動に。天津北京を占領。八カ国連合軍が連合して出兵。西太后は一気に外国勢力を駆逐しようと宣戦布告。日本は主力に。列強の仲間入りを。中国における権益と地位を得ようとして駐留。八カ国連合軍は北京を占領。01年の北京議定書。合計11カ国と。賠償や外国軍の常駐。天文学的数字。数年分。清朝の財政を壊滅的に。中国を植民地以下に。西太后らは初めて改革の必要性を。光緒帝の開学案の殆どを復活。立憲君主制を。科挙の廃止を。立憲の準備を。留学ブーム。05年は日露戦争の勝利。多くの学生が日本に。清朝も積極的に推進。渡航費が安いので人員を増やせる。漢字文化圏で学習しやすい。清朝が05年に科挙を廃止して私費留学生も一挙に増える。06年には1万7千人に。蒋介石なども留学した。留学生を受け入れ近代的教育を受けさせ中国の近代化を期待する。

 

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