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日中戦争への道(現代東アジアの政治と社会第5回)

日本と中国(朝鮮半島や満蒙も含めて)の情勢はリンクしており、それは今に至るまで変わらない。100%信を持つか持たないかの態度は避けるべきと思う。

 

家近亮子。日中戦争への道。日中戦争までの日本と中国の変動や国際関係から多角的に。第一次大戦後。アメリカはハーディング大統領はモンロー主義に。支配的地位の確立に成功。世界の金がアメリカに集中。米ドルが基軸通貨に。富の40%に。石油は70%、自動車は85%。日本も中国も対米依存に。南京国民政府の蒋介石はアメリカから援助を引き出す活動を。ウィルソンの軍縮会議。21年から22年にかけてワシントン会議が。四カ国条約。九カ国条約。海軍軍備制限条約。ワシントン体制。軍縮に関して保有トン数の制限が。10年間の主力艦や航空母艦の新規の禁止。海洋国家の日本の海軍に不満が。九カ国条約は中国の主権を尊重し門戸解放を。日本の影響力を阻止。日本の侵略の非合法性の根拠に。戦争特需で経済発展したのはアメリカだけではなく日本も。海運業などが盛んに。好景気を背景に大正デモクラシーが。12年から大正時代に。東大教授の吉野作造が提唱した民本主義が。イデオローグに。民主主義。普通選挙制を。男子普通選挙が実現。女性解放運動も。平塚らいてう。男性中心の家族制度に反対。看護婦などの職業婦人。モダンガールが増えて社会進出が活発に。吉野作造は五四運動に共感。石橋湛山は植民地支配に反対し小日本主義を。軍部は第一次大戦後のワシントン体制の中で危機感を強め復権を伺う。欧米諸国が進出して日本は不景気に。米騒動やストライキが多発。20年の国際連盟の常任理事国に。24年に加藤高明内閣の重原喜重郎のもとに国際協調外交を。不戦条約。国際協調の時代は外面上は続くが。国内は不安定に。関東大震災。甚大な被害が。日本経済は壊滅状態に。それに世界大恐慌が。イギリスやフランスはブロック経済の保護経済化。失業率は15%に。娘の身売りが。失業対策として東北部への進出を望む声が。立憲政友会や軍部や実業家は中国進出を。
27年に成立した南京国民政府。南北に分裂していたのを統一して三民主義による。北京政府の打倒を。張作霖。田中義一に救われたことが。陸軍士官学校の卒業者を登用。満州への影響力の強化を。蒋介石は軍事にも封じ込まれかける。政治的引退をせざるを得なくなる。その間に日本訪問を。孫文時代からの中国革命の支持者と。対日政策に大きな影響を。田中義一と非公式ながら会談を。北伐に理解を要請する。一定の理解を得た?大きく裏切られる。蒋介石は北伐を再開させ統一を目指す。日本人とその居留地の安全を約束していたが。日本人に対する虐殺なども横行。あくまでも居留人保護の名目で出兵を。済南へ到着させる。済南事件。蒋介石は全面的な衝突を避け迂回して北京を。五四運動の記念日と重なり国恥記念日と。中国の中央日報などでも報道。当時の新聞世論の影響。上海では日貨排斥運動が再開。28年には全国から大会が。中国商品を買う運動。北京学生連合会が排日運動を。対日経済絶好宣言。反日運動は下火に。極めて冷静な報道もあったが組織的な運動は抗日運動の母体になる。
満州事変。最終的に張作霖は奉天に。列車は奉天近くで爆破され張作霖が亡くなる。十字に交差。後に日本の関東軍が起こしたものと判明。満州某重大事件。昭和天皇にも報告され田中義一は首相を辞任。天安門には青天白日満地紅旗がはためく。張学良は満州で三民主義へ。蒋介石は全国統一を完成させる。満蒙支配の危機と日本にはうつり軍部の活動が。奉天郊外で満鉄の列車が爆破。中国の仕業として軍事行動を。奉天などを占領。板垣征四郎など関東軍の参謀の一部が。満州事変。国内における最大の敵の共産党に力を入れるため全面戦争はせず。軍事行動は突発的と。満蒙は日本の支配下に。31年3月に溥儀を担ぎ出して満州国を建国。しかし国際社会で孤立。対日不信感を持つ国際連盟はリットン調査団を。32年10月の報告書で満州国の正当性が否定。国際連盟を脱退する。
朝鮮独立支援活動。蒋介石による。日本の統治下で朝鮮社会が大きく変わる。近代化が。インフラの整備。日本文化が急速に普及。朝鮮独立運動は主に海外で。IPR。25年にホノルルで民間国民外交の為の。朝鮮独立承認の場として利用する動き。朝鮮IPR。独立運動を展開。蒋介石も重視。政治介入を。第4回IPRは中国で開催が予定。日本との矛盾を解消する場として開催を決断。大韓民国臨時政府の承認の場として。中国国内で活動。孫文を引き継いで。蒋介石は各民族が三民主義に合致する民主政治を。同時に暴動を起こす計画に対し説得を。33年12月に正式に班が設立され韓国人学生が軍事教育を。40年に重慶に定着して中国とともに宣戦布告。国際活動を活発に。中国は全面的に支援。東アジアを考える上で日本の満蒙支配は大きな意味を。27万人の日本からの移民。五族協和。日本の関東軍が実験を。失業対策と影響力強化やソ連からの防衛のために移民団を。特に長野県が多かった。満州に行けば大地主になれると農家の二男三男が。45年のソ連の侵攻は虐殺や逃避行の中で日本人残留遺児の問題が。開拓民は殆ど取り残される。オーラルヒストリーを長野県で保存。
日本の軍国化。ワシントン体制下の軍縮ムードは一変。犬養毅が首相に。孫文や蒋介石の支援者でもあった。しかし五一五事件。背景に政友会がロンドン条約に調印したことを不満に。政党政治の終了。蒋介石は犬養毅を評価していた。済南事件からの関係の改善を。軍部の独走に危惧を。対話路線の相手を失う。言論の統制が日本では厳しく。
明治憲法は解釈の可能性を。天皇機関説事件。二・二六事件。首相官邸などを襲撃して高橋是清蔵相などを暗殺して昭和維新を画策。しかし失敗。天皇を神格化する傾向が。現人神が定着。皇民化運動。蒋介石は衝撃を受ける。侵略は激しさを増すと。他の中国人も。共産党は抗日運動を。西安事件。36年12月。日中関係史にも重要。攻撃の対象となったのは蒋介石。中国共産党と抗日運動をする意図を。蒋介石は共産党の根拠地を壊滅させようとした。張学良。28年の張作霖爆殺事件から急接近。日本軍が挑発しようが努めて衝突を避けるべきと。満州を失うことは東北軍の部下を奪うこと。無抵抗は辛い選択。35年に蒋介石は西安で成立した総司令部の総司令に。西安に於いては張学良が指揮を。中国では全国的な抗日ナショナリズムが。中国共産党の周恩来と会談。西安事件とは張学良軍が蒋介石を捕らえ抗日民族前線を。中国共産党員は歓迎したが。コミンテルンは蒋介石の中国国民党に託そうとした。周恩来は即時停戦を要求し蒋介石は承諾。全国の軍隊の指揮は?南京で張学良は軟禁される。国民党内部での対立は宋美齢の思いが。武力侵攻に対して権力を奪おうとしていると宋美齢が。和平交渉にも影響を。事件解決後に欧米派が権力を。中国空軍の充実のために顧問を。フライングタイガーの創設。対米依存には宋美齢の影響が。中国の世論は抗日に傾く。37年になると中国各地で破壊活動が。盧溝橋事件。学生の集団が日本租界を取り囲むなど。日本の既得権益保護に傾く。

 

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