-----講義録始め------
さて、明治の次は大正です。
大正期は1912年から1926年の約15年間という短い期間です。この時期になると、いわゆる「大正デモクラシー」の影響を受け、明治民法の改正を求める動きが表面化するようになりました。左側の写真は五・一五事件のもので、右側は当時盛り上がった婦人運動、その中心となった人たちが発行した雑誌『青鞜』です。
そこで、当時の政府は、政府内に会議体を設置して明治民法の改正を検討し始めました。その結果、大正も終わりに近づいた1925年(大正14年)に、明治民法の改正案が公表されました。
その改正案の中では、例えば、明治民法によって全国一律の方式とされてしまった婚姻の成立について、「婚姻は、慣習上認められたる儀式によって成立するものとする」という案が示されました。つまり、各地の慣習を尊重する方向性が示されたのです。また、明治民法の家制度は、女性、特に妻や母にとって非常に差別的な内容でしたが、この改正案では、女性に対する差別をわずかではあるものの改善する方向性が示されました。
ところが、大正末期に発生した金融恐慌や、1931年(昭和6年)の満州事変から始まった日中戦争、その後の太平洋戦争の影響を受けて、明治民法の改正案は実現しませんでした。戦争の拡大により、明治民法の改正に向けた作業は中断されてしまいました。
しかし、長期にわたる戦争は、当時の家族に2種類の新しい紛争を生じさせました。1つ目の紛争は、軍人が戦死した場合に国から支給される各種の給付金を家族の誰が受け取るのかという争いでした。その多くは、戦死した軍人の妻とその両親との間で起こったものでした。2つ目の紛争は、夫を戦地に送り出した「留守妻」が、夫の不在中に他の男性と関係を持ったり、他の男性の子供を妊娠、出産したりするという問題が少なからず発生したことです。
戦争の影響により、それまで見られなかった新しい種類の家族間の紛争が多発したことを受けて、戦時中の1939年(昭和14年)に「人事調停法」という法律が制定されることになりました。人事調停とは、裁判所が選んだ民間人と紛争の当事者、つまり家族が裁判所で調停という名の話し合いを行い、紛争解決を図るという手続きです。この人事調停は、戦時中の特殊な状況から急遽設けられた制度でしたが、戦後になっても家庭裁判所の家事調停という形に変わり、現在に至っています。
そして、家庭裁判所の家事調停という紛争解決手続きは、現在でも家族間の紛争解決手段として非常に重要な役割を果たしています。この点については、この講義の第14回で取り上げます。