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記憶の司令塔「海馬」の働き #放送大学講義録(成人の発達と学習第4回その3)

ーーーー講義録始めーーーー

 

岩崎:
富永先生に脳の機能と記憶についてお話を聞いてまいりました。次に、記憶に関わる脳の部位についてもお話を伺いたく思います。

さて、私たちの頭にある脳は、感情、思考、生命維持の中枢です。この中で、記憶に関わる脳の部位としては、海馬と扁桃体を取り上げてみたいと思います。海馬は、新しい出来事や事実などの「エピソード記憶」「宣言的記憶」を形成するうえで重要な役割を担い、扁桃体は恐怖や不安など情動を伴う記憶に深く関わることが知られています。

まずは、海馬とは、海の馬と書きますが、元々の言葉の意味はタツノオトシゴのことで、この脳の部位の形状がタツノオトシゴに似ていることから海馬と呼ばれています。

海馬は、外から入ってきた情報について「長く残す価値がある」と判断された場合、その情報の要素を結び付けて一つの出来事として「記銘・固定(コンソリデーション)」を進め、大脳皮質の広い領域に長期記憶として定着させる「ハブ」のような働きをすると考えられています。
つまり、海馬は新しいエピソード記憶などの形成において「記憶の司令塔」のような働きをすると言われておりますが、海馬の働きはどのようにして明らかになってきたのでしょうか。


富永:
はい、そうですね。海馬が記憶に関係するという、この初期の研究では、H.M.という頭文字を取って、H.M.という患者さんの症例が大いに貢献しています。その症例がすごく有名になり、このようなことで、海馬と記憶の関係が一般化されたという経緯がございます。

岩崎:
H.M.という患者さんは、どのような患者さんだったんですか。

富永:
このH.M.の症例ですけれども、てんかん発作が重度だったので、彼の両側の、右と左の内側側頭葉、とくに海馬を中心とした領域を切除する手術がなされました。
手術したことで、彼の全般的な知能検査の成績には大きな変化はなかったんですね。また、短いあいだだけ情報を保持する短期記憶や、新しい運動技能を身につけるような手続き記憶のいくつかの検査では問題はありませんでしたが、一方で、新しい出来事や事実を覚える多くの記憶検査では、著しい障害が明らかになりました。

彼は、毎日でも同じ新聞を読んでも、何の違和感も感じないんですね。毎日同じ新聞を読んでも、毎回、新しい新規な新聞記事と認識しているのです。これは、手術後に新しいエピソードや事実を長期的に保持できないという「前向性健忘症」と言います。前向性とは前に行く性質で前向性と言います。今から先のことが覚えられないということになるわけですね。

今までの知識や出来事、つまり過去の多くのエピソードは、実際はかなりの範囲で残っているんですよ。ただし H.M. の場合には、手術の数年前から手術前にかけての記憶に一定の抜けがある「時間的勾配を持つ逆行性健忘」も認められていました。
一般的には、手術よりも前の記憶が失われることを逆行性健忘と表現します。その H.M. の場合は、今あったことを記憶し、保持できなくなるという前向性健忘が非常に顕著だったわけです。

海馬という部位は、外部情報が脳に入ってきた時に、その出来事に関わるさまざまな情報(いつ・どこで・何が起きたか、など)を一時的に結び付け、脳のある場所――大脳皮質の広い領域――に外部の情報を長期記憶として保持させていく「中継・統合」の役割を担っていると考えられています。
一般に、新しいエピソード記憶や多くの宣言的記憶は、海馬やその周辺を経由して脳のある場所に、その覚えた事象が定着されていく、ということを意味することになるわけです。ただし、技能学習などの手続き記憶や、条件づけの一部のように、必ずしも海馬に依存しない記憶も存在することが示されています。

岩崎:
なるほど。新しい出来事などの記憶は、基本的には海馬を経由して脳に格納されるということなんですね。

富永:
そうなんです。思い出してください、先ほどの実験を。まあ、実験していただいた短期記憶の課題で、皆さんは、まあ、5桁から8桁までの数字を覚えてもらいました。どんな──今、どんな数字でしたか。と聞かれても、しばらく時間がたつと、多くの方は、もう思い出すことはできないはずなんですよ。

岩崎:
あ、そうですね。

富永:
うん、それは、海馬を通して、脳のある場所にその情報が長期記憶として記録・固定されていないからなんですよね。短いあいだであれば、前頭葉を中心としたワーキングメモリ系で一時的に保持できますが、そこでの活動が途切れてしまうと、海馬を経由して大脳皮質に定着していない情報は、あとには残りにくいわけです。

しかし、自分の携帯の番号は、多くの方は覚えているはずですよ。やはりそれは、覚えやすいようにですね、9桁の数字を3つずつ区切って覚えるような覚え方をしているわけです。これをチャンキング(chunking)と言います。一般的に短期記憶のキャパシティー、つまり容量内で覚えるようなことを、無意識的に行っていたりします。これを心理学的にはチャンク(chunk)と表現しています。

他に、語呂合わせなどの方法、例えば、高校の時、世界史で「いいな、いいな、独立国へ」と言って、1776年アメリカの独立記念日といった語呂合わせを用いて覚えていると、思い出すことができるんですよね。簡単に言えば、海馬を通りやすいようなやり方を、人は、人間は一般的に、無意識的に、あるいは意図的に、実行しているわけです。

神経心理学的な立場から、海馬と記憶の問題を捉えてみますと、海馬の近傍と言いますか、海馬の近くの血管内のヘモグロビンによる酸素供給が例えば絶たれるとどうなるかと言いますと、一酸化炭素中毒症などの重い低酸素状態では、大脳白質や基底核に加えて、海馬の萎縮が生じ、顕著な記憶障害を起こす症例が報告されています。すごいですね。

また海馬はストレスに弱いと言われているんですね。幼少期の虐待行為などのストレスフルな体験が、後年の海馬体積の減少と関連していることも、多くの研究で報告されています。いろんなことが最近の研究からわかってきております。

岩崎:
そうですか。お話を伺ってますと、海馬はかなり繊細なもののようですね。確かに、幼児期に虐待などがあると海馬が十分に発達せず記憶機能に影響が出る、あるいはトラウマなどの衝撃的な体験を受けると海馬の体積が小さくなり記憶障害と関連する、といったことが研究でも報告されていますが、その詳しい因果関係やメカニズムについては、現在も検討が続けられているということですね。

 

補足図表:海馬と記憶・障害の関係(教育用まとめ)

項目 概要
海馬の主な役割 新しい出来事・事実などのエピソード/宣言的記憶の形成・固定
通常通る経路 海馬で統合 → 大脳皮質の広い領域に長期記憶として分散して保存
代表的症例 H.M. 両側内側側頭葉(海馬を含む)切除後、重い前向性健忘+一部逆行性健忘
CO中毒などの低酸素状態 海馬萎縮と記憶障害を伴う症例が複数報告
幼少期虐待・トラウマとの関連 虐待歴と海馬体積の減少の関連を示す研究が多数(因果は議論中)
海馬に依存しない記憶 手続き記憶・一部の条件づけなどは主に基底核・小脳などが関与