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予防原則とは何か:リオ宣言原則15からISO 26000まで、不確実な時代の行動哲学 #放送大学講義録(持続可能な社会と生活第3回その5)

ーーーー講義録始めーーーー

 

予防原則——不確実な時代に求められる行動の哲学
——リオ宣言原則15からISO 26000での展開まで

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【リオ宣言「原則15」——予防原則とは何か】
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リオ原則の中から、今回は「予防原則」を取り上げたいと思います。予防原則は「予防的アプローチ(precautionary approach)」とも呼ばれます。リオ宣言の原則15には、次のように記されています。

「環境を保護するため、予防的アプローチ(precautionary approach)は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、または不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の高い対策を延期する理由として使われてはならない。」

つまり簡単に言うと、大きなリスクがある場合には、科学的な確証がまだ完全には得られていなくても、予防的な措置を先送りしてはならないという考え方です。もちろん、これは「証拠がなくても何でも規制すればよい」という意味ではありません。深刻な、または不可逆的な被害のおそれがある場合に、科学的な不確実性だけを理由にして対策を遅らせてはいけない、という考え方です。ここでの主語は「各国」であり、もともとは国の政策上の指針として書かれています。

この予防原則の意義を、気候変動を例にとって考えてみましょう。地球の気温上昇が人間活動によるものであるかどうかについては、長いあいだ科学的な検討と社会的な論争が続いてきました。しかし、気候科学の知見を集大成してきたIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change、気候変動に関する政府間パネル)の評価報告書では、時代を追うごとに人間活動の影響に関する確信度が高まっていきました。そして2021年に公表された第6次評価報告書第1作業部会報告書では、「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない」と明記されるに至りました。

ちなみにIPCCは、単に「国連の機関」と言うより、世界気象機関(World Meteorological Organization, WMO)と国連環境計画(United Nations Environment Programme, UNEP)によって1988年に設立された政府間組織と説明する方が正確です。IPCCは、世界中の研究成果を自ら新たに実験して作る機関ではなく、すでに公表された科学論文や技術的知見を体系的に評価し、政策決定に資する評価報告書を作成する組織です。報告書は、気候変動の科学的基礎、影響、適応、脆弱性、緩和策などを扱い、数年ごとに公表されます。IPCCの評価報告書やウェブサイトで公開されている情報は、気候変動に関する国際的な政策形成において、最も重要な科学的基盤の一つとして活用されています。

リオ地球サミットの当時は、現在ほど温暖化の原因に関する科学的確信度は高くありませんでした。1990年のIPCC第1次評価報告書でも、人間活動によって温室効果ガス濃度が増加していること、その増加が地球を温暖化させる可能性があることは示されていましたが、観測された温暖化を人間活動にどこまで明確に帰属できるかについては、まだ大きな不確実性が残っていました。その後、観測データ、気候モデル、古気候研究、極端現象の分析などが進み、原因解明は次第に深まっていきました。そして2021年のIPCC第6次評価報告書では、「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない」とされ、少なくとも科学的評価の場では、人間活動が近年の温暖化の主要因であることはきわめて明確になったのです。

もし、科学的知見が完全に確立されるまで待つというスタンスで各国政府や企業が温室効果ガスの排出削減策を取ってこなかったとしたら、被害はさらに大きくなっていたでしょう。ここに予防原則の重要性があります。環境問題の多くは、原因と結果の関係が複雑で、すべてが明らかになった時点では、すでに被害が深刻化している場合があります。だからこそ、深刻な被害や不可逆的な被害のおそれがあるときには、不確実性を理由にして行動を遅らせてはならないのです。

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【ISO 26000による予防原則の展開——3つのポイント】
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予防原則はその後、環境汚染、化学物質管理、生物多様性保全、気候変動対策、食品安全、人の健康への影響など、幅広い分野で参照されてきました。また、この原則の適用対象は国の政策だけではなく、企業などの組織の意思決定にも広がっていきました。実際に、United Nations Global Compact、OECD多国籍企業行動指針、GRI Standards、そして社会的責任のガイダンスであるISO 26000など、企業や組織の行動に影響を与える国際的な規範や報告基準にも、予防的アプローチの考え方が反映されています。

ただし、ここで注意したいのは、それぞれの文書がまったく同じ形で予防原則を定めているわけではないという点です。United Nations Global Compactでは、10原則のうち第7原則として「企業は環境上の課題に対して予防的アプローチを支持すべきである」と示されています。GRI Standardsでは、組織が予防原則をどのように適用しているかを説明することが求められます。OECD多国籍企業行動指針では、企業の環境管理、リスク評価、情報開示、環境パフォーマンスの改善などと結びついた形で、予防的な行動が求められています。つまり、予防原則は、国際環境法の考え方にとどまらず、企業行動や社会的責任の領域にも広がっているのです。

こうした原則というものは、生き物です。社会において引用され、活用されていくうちに、新たな解釈が加わったり、適用の範囲が広がったりしていきます。その一例を、社会的責任のガイダンスであるISO 26000における予防的アプローチの扱いに見ることができます。

ISO 26000は、すべての組織に向けた社会的責任のガイダンスです。企業だけでなく、行政機関、大学、NPO、消費者団体、業界団体など、あらゆる種類の組織が対象となります。また、ISO 26000は認証を目的としたマネジメントシステム規格ではなく、社会的責任をどのように理解し、実践していくかを示すガイダンスです。したがって、「ISO 26000認証を取得する」という性格のものではありません。ここを誤解しないことが大切です。

ISO 26000における予防的アプローチの展開には、主に3つのポイントがあります。

第1のポイントは、もともとリオ宣言原則15では、予防的アプローチの主語が「各国」だったのに対して、ISO 26000では「組織」が行動主体として示されていることです。これは非常に重要です。環境問題や社会的リスクへの対応は、もはや国家だけに任せておけばよいものではありません。企業、自治体、大学、NPO、消費者団体など、さまざまな組織が、自らの意思決定の中で予防的に行動することが求められています。

第2のポイントは、対象分野が環境に限られず、人間の健康にも広げられていることです。リオ宣言原則15は、「環境を保護するため」という文脈で書かれています。一方、ISO 26000では、環境に加えて、人間の健康を守る観点からも予防的アプローチが語られています。これは、化学物質、製品安全、食品、消費者保護、労働環境、地域社会への影響など、環境と健康が切り離せない多くの現実を踏まえたものです。ISO 26000の中では、環境の中核主題だけでなく、消費者課題、特に消費者の安全衛生の保護とも関わる重要な考え方として理解することができます。

第3のポイントは、リオ宣言での「費用対効果の高い対策(cost-effective measures)」という表現をどのように理解するかという点です。リオ宣言原則15では、完全な科学的確実性の欠如を、環境悪化を防止するための費用対効果の高い対策を延期する理由にしてはならない、とされています。しかし、ここでいう「費用対効果」を短期的なコストだけで狭く理解してしまうと、予防原則の趣旨が弱まってしまいます。ISO 26000では、予防的な措置を検討する際に、その組織にとっての短期的な費用だけでなく、長期的な費用と便益も考慮することが重要であるという考え方が示されています。これは、予防的な対策が一見コストに見えても、長期的には被害の回避、信頼の維持、社会的コストの削減、将来世代への責任という点で大きな意味を持つことを示しています。

この部分については、作業部会での議論に私自身も参加していましたので、もう少し詳しく説明しておきたいと思います。まず、積極的な予防的行動を支援するグループからは、「費用対効果の高い」という限定の文言を削除すべきだという意見が出されました。深刻な環境被害や健康被害のおそれがある場合に、短期的な費用対効果を盾にして対策を遅らせるべきではない、という問題意識があったからです。

これに対して、予防原則の拡張に慎重なグループからは、確立された国際的な重要原則に手を加えるべきではなく、リオ宣言の文言を尊重して、原文の「費用対効果の高い」という表現を維持すべきだという反対意見が出されました。国際的に合意された表現を不用意に変更すれば、かえって合意形成が難しくなったり、各主体に受け入れられにくくなったりするおそれがあるからです。

そこで、NGO、消費者、企業、政府など、複数のステークホルダーからなる検討の場で対応策が検討されました。その結果、リオ宣言の原文を尊重しつつ、「費用対効果」を短期的な費用だけで狭く理解しないように、長期的な費用及び便益も考慮するという解釈を加える方向が採られました。こうして、宣言を尊重しながらも、現代の組織行動に合う形で意味を補い、幅広い主体によりこの原則が正確に理解され、実践されることが目指されたのです。

立場の異なるさまざまなステークホルダーが対話し、予防原則のような持続可能な発展に関する重要な行動原則について再検討し、共通の解釈に関する合意を得たことの意味は大きいものがあります。予防原則は、科学、政策、企業行動、市民社会の交差点にある考え方です。だからこそ、一方的に押しつけるのではなく、異なる立場の人々が議論しながら、社会全体で使える原則へと育てていく必要があるのです。

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【法規制を待つのではなくグローバルな行動原則に基づく主体的行動を】
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気候変動をはじめとする環境問題は、今や一国の法体系の中での規制だけで解決できるものではありません。企業活動、消費、資源採取、物流、金融、情報開示、技術開発は国境を越えてつながっています。ある国の生産や消費が、別の国の環境や地域社会に影響を与えることも珍しくありません。地球規模でさまざまな主体の相互依存関係が進む中で、環境問題の責任や影響も複雑に広がっています。

さらに、環境問題の多くは、科学的な因果関係の解明に困難を伴い、長い時間を要します。化学物質の影響、生態系の変化、気候変動の地域影響、健康被害の蓄積、将来世代への影響などは、すぐに白黒をつけられるものではありません。しかし、すべての証拠が完全にそろうまで待っていては、被害が深刻化し、取り返しのつかない段階に進んでしまうことがあります。

したがって、法規制が出来上がるのを待つというのではなく、問題の本質をよく見極めながら、法律にはまだなっていなくても、事実上多くの主体の行動を導いているグローバルな価値観や行動原則に則った主体的な行動が求められます。予防原則は、そのための重要な考え方です。不確実だから動かないのではなく、不確実であっても深刻なリスクが見えているなら、被害を防ぐ方向へ動く。これが、不確実な時代に求められる行動の哲学なのです。