ーーーー講義録始めーーーー
人間の安全保障の特徴と意義(その1)——補完・保護と能力強化・下降リスク・予防的対応
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ここからは、人間の安全保障の特徴と意義について考えてみましょう。人間の安全保障は、単に「困っている人を助けましょう」という道徳的な呼びかけではありません。安全保障、開発、人権、福祉、防災、保健、教育、環境といった分野を、人間の生存、生活、尊厳という視点からつなぎ直す考え方です。重要なポイントをまとめると、次の通りとなります。
【ポイント①】伝統的な国家安全保障を補完する概念
人間の安全保障は、基本的に伝統的な国家安全保障を補完するものであって、否定したり、完全に代替したりするものではありません。国家安全保障は、国家の独立、領土、主権、国民の生命と財産を守るために不可欠です。外部からの侵略、武力攻撃、国際テロ、大規模な治安上の脅威に備えることは、国家の重要な責務です。しかし、国家が安全であるように見えても、その中で暮らす一人ひとりが、貧困、飢餓、感染症、災害、暴力、差別、失業、社会的排除に苦しんでいるなら、その社会を本当に安全だと言えるでしょうか。人間の安全保障は、まさにその問いを投げかけます。
つまり、人間の安全保障は、安全保障の概念を拡張し、「人間中心」という新たな視点をもたらすことで、安全保障をより深みのあるものにする考え方です。従来の国家安全保障では見逃されがちな、一人ひとりの人間に対する脅威に目を向けさせてくれる点が、とりわけ重要です。国家を守ることと人間を守ることは、対立するものではありません。むしろ、長期的に見れば、人々の生活が安定し、社会への信頼が保たれ、尊厳を持って生きられることが、国家や社会全体の安定の基盤になるのです。
【ポイント②】保護と能力強化の総合的な推進
人間の安全保障の実現に取り組む上で重要とされるのが、「保護」と「能力強化」です。ここでいう保護とは、人々が深刻な脅威にさらされているときに、その生命、生活、尊厳を守るための制度や支援を整えることです。たとえば、紛争下の民間人保護、難民への緊急支援、災害時の避難所、食料・水・医療の提供、社会保障、法的保護、暴力からの保護などが含まれます。一方、能力強化とは、人々自身が自分の生活を立て直し、社会に参加し、将来を選び取る力を高めることです。教育、職業訓練、保健、情報へのアクセス、地域社会への参加、就労支援、意思決定への参加などが、ここに含まれます。
重要なのは、保護と能力強化のどちらか一方だけでは不十分だということです。例えば難民支援では、保護のために食料、水、医療、住まいなどの人道上の緊急支援が不可欠です。命を守る段階で、「自立してください」とだけ言うことはできません。しかし長期的に見れば、避難先の社会で暮らしていけるように、語学教育、職業訓練、就労支援、子どもの教育、法的地位の安定、地域社会との関係づくりなどが必要となります。緊急支援だけでは、人々はいつまでも受け身の存在に置かれてしまいます。逆に、自立支援だけを強調して保護を弱めれば、最も脆弱な人々が取り残されます。だからこそ、保護と能力強化を組み合わせることが大切なのです。
また一般的に言って、さまざまな脅威に対するレジリエンスを高める上で、教育が果たす役割は非常に大きいと考えられます。教育は、知識や技能を与えるだけではありません。自分の権利を理解する力、健康情報を読み取る力、災害時に適切に行動する力、仕事を得る力、社会に参加する力を育てます。特に、女子教育や初等教育は、貧困の連鎖を断ち、健康状態を改善し、家族や地域社会全体の安定に貢献する重要な柱の一つです。ただし、女性への教育や初等教育だけで十分という意味ではありません。中等教育、職業教育、生涯学習、安全な学校環境、保健サービス、ジェンダー平等を支える制度とあわせて進めることで、教育は人間の安全保障を支える力になります。
【ポイント③】下降リスク(ダウンサイドリスク)への着目
人間の安全保障の重要な特徴の一つは、下降リスク、つまりダウンサイドリスクに注目することです。人間開発という考え方は、人々の選択肢を広げ、健康、教育、所得、生活の質を高めていくことを重視します。その意味で、人間開発はしばしば上昇、改善、拡大という方向で語られます。もちろん、それは極めて大切です。貧困を減らし、教育を広げ、健康寿命を延ばし、人々の可能性を広げることは、持続可能な社会にとって欠かせません。
しかし、社会は常に右肩上がりに進むわけではありません。感染症の流行、紛争、自然災害、経済危機、気候変動、食料価格の高騰、失業、社会的分断、デジタル技術の悪用などによって、これまで積み上げてきた成果が一気に失われることがあります。人間の安全保障は、まさにそこに目を向けます。上昇傾向を実現するだけでなく、人々の生活が突然崩れ落ちるリスク、つまり下降リスクをどう抑えるかを重視するのです。
例えば、平時における社会全体の保健医療水準を一歩一歩高める取り組みと、危機的な状況におけるパンデミックへの対応とは、重なる部分はありますが、まったく同じではありません。平時には、予防接種、母子保健、生活習慣病対策、医療人材の育成、医療保険制度の整備などが重要です。しかしパンデミック時には、検査体制、感染拡大の監視、医療提供体制の急速な拡充、ワクチン供給、リスクコミュニケーション、学校や職場への対応、生活困窮者への支援など、危機対応としての別の仕組みが必要になります。普段の開発政策だけでは、急激な危機に十分対応できないことがあります。だからこそ、日常の改善と危機への備えを両方考える必要があります。
この点で、人間の安全保障は、人間開発を補う役割を持っています。人間開発が「人々の可能性を広げる」視点だとすれば、人間の安全保障は「その可能性が脅威によって奪われないようにする」視点だと言うことができます。成長や改善だけを見るのではなく、後退、喪失、脆弱性、取り残される人々にも目を向ける。ここに、人間の安全保障の大きな意義があります。
【ポイント④】予防的対応の重要性
予防的対応も、人間の安全保障において非常に重要です。危機が起きてから対応することももちろん必要ですが、人間の安全保障は、できる限り危機の発生を防ぎ、被害が拡大する前に手を打つことを重視します。これは、国連総会決議でも示されている「予防志向」の考え方です。人々の生活を脅かす危機は、突然現れるように見えても、実際にはその前に兆候があることが少なくありません。貧困の深刻化、社会的孤立、地域の分断、感染症の小さな流行、災害リスクの高まり、環境悪化、教育機会の喪失、暴力の増加などは、将来の大きな危機につながるサインになりえます。
例えば気候変動への対応では、様子を見ながら影響が現れたら対処するという事後的な対応だけでは間に合いません。温暖化そのものを抑えるためには、温室効果ガスの排出削減、再生可能エネルギーの導入、省エネルギー、森林保全などの緩和策が必要です。同時に、すでに進みつつある温暖化の悪影響に備えるためには、洪水対策、熱中症対策、農業の適応、水資源管理、防災インフラ、早期警報システム、脆弱な人々への支援などの適応策が必要です。緩和策と適応策は、どちらか一方だけでは不十分です。温暖化を抑える努力と、避けられない影響に備える努力を、同時に進める必要があります。
この予防的対応の重要性は、気候変動だけに限られません。感染症、災害、貧困、紛争、食料不安、孤立、虐待、失業、教育機会の喪失など、さまざまな人間を取り巻く脅威に当てはまります。危機が起きてから対処する方が、しばしば費用も大きく、人々の苦しみも深くなります。逆に、早い段階で脆弱性を把握し、社会の支えを厚くし、情報を共有し、人々の参加を促し、必要な制度を整えておけば、危機が起きても被害を小さくすることができます。
したがって、人間の安全保障は、社会のレジリエンスを高めるための考え方でもあります。レジリエンスとは、単に元に戻る力ではありません。危機に耐え、必要に応じて仕組みを変え、より安全で公正な社会へと進んでいく力です。人間の安全保障が教えてくれるのは、危機のたびにその場しのぎで対応するのではなく、普段から人々の生活を支え、脆弱な部分を見つけ、予防的に備えておくことの大切さです。
