【要約】
Havighurstは、身体的成熟、社会文化的要請、個人の価値から、生涯の各時期に発達課題が生じると考えた。ただし、具体的課題には20世紀中頃のアメリカ社会の規範が反映されている。Eriksonは、人の生涯を八段階に分け、各時期に信頼と不信、自律性と恥・疑惑、主導性と罪悪感、勤勉性と劣等感、アイデンティティと役割混乱、親密性と孤立、世代性と停滞、自我統合と絶望という心理社会的危機があるとした。目標は否定的側面を消すことではなく、両極を統合して希望、意志、目的、適格性、忠誠、愛、世話、英知を形成することである。各課題は一度で完結せず、生涯を通して再び問われる。
ーーーー講義録始めーーーー
発達段階説への視点――ハヴィガーストとエリクソンの心理社会的発達理論
発達の各時期には、その時期に比較的特徴的な能力、行動、葛藤、社会的役割などが見られます。こうした質的に異なる特徴を一定の順序に沿って整理したものを、発達段階と呼んでいるわけです。
ただし、発達段階とは、ある年齢になった瞬間に、すべての人が一斉に別の状態へ切り替わるという意味ではありません。段階の年齢区分は理論上の目安であり、実際の発達には個人差、文化差、領域差があります。同じ人の中でも、ある領域では新しい段階の特徴が見られ、別の領域では以前の特徴が残ることがあります。
FreudにしてもPiagetにしても、その理論には、発達が一定の成熟した状態へ向かって進むという方向性があります。Freudの心理性的発達理論では思春期以降の性器期が成熟した段階として位置づけられ、Piagetの認知発達理論では、具体的操作期を経て、仮説的・抽象的な推論が可能になる形式的操作期が示されています。
この意味では、両者の理論には、成熟した成人の状態を発達の到達点として捉える傾向があるといえます。ただし、FreudとPiagetの理論を、単に「大人になることだけを目指す理論」と捉えるのは適切ではありません。Freudは無意識的な欲動や葛藤、人格形成を問題にし、Piagetは、人が環境へ働きかけながら知識の構造を組み替えていく過程を問題にしました。それぞれが扱っている発達の仕組みには、大きな違いがあります。
また、人の発達は、身体が成熟し、子どもから大人になることだけではありません。成人期や老年期にも、仕事、家族、対人関係、社会参加、自分の人生の意味づけなどに関する新たな課題が現れます。ある課題を達成する一方で、別の役割を失ったり、環境の変化に合わせて自分の生き方を組み替えたりすることもあります。
人生の各時期に現れる発達課題を理論化した論者として、Robert J. Havighurstが知られています。Havighurstは1900年に生まれ、1991年に亡くなったアメリカの教育学者・発達研究者です。Havighurstは、発達課題、英語ではdevelopmental taskという考え方を提示しました。
発達課題とは、人生のある時期に生じる課題であり、それに適切に取り組むことが、その時期の満足や、その後に現れる課題への適応に関係すると考えられるものです。Havighurstは、乳幼児期、児童期、青年期、成人初期、中年期、老年期という、生涯にわたる複数の時期に発達課題を設定しました。
Havighurstによれば、発達課題には主に三つの源泉があります。一つは、歩くこと、言葉を話すこと、身体の変化に適応することなど、身体的成熟から生じるものです。二つ目は、教育を受けること、職業を選ぶこと、市民として社会に参加することなど、社会や文化から期待されるものです。三つ目は、その人自身の価値観、願望、目標などから生じるものです。
したがって、Havighurstの発達課題論は、単に当時のアメリカが求めた理想的市民の一覧を作ったものではありません。身体的成熟、社会文化的要請、個人の価値や願望を結びつけながら、生涯にわたる課題を捉えようとした理論です。
一方で、Havighurstが具体的に挙げた課題には、20世紀中頃のアメリカ社会における家族観、職業観、市民像、男女の役割分担などが反映されています。例えば、結婚、家庭形成、職業生活、市民的責任などについて、当時の多数派の生活経路が標準として想定されている部分があります。
そのため、Havighurstの発達課題を、時代や文化を超えて、すべての人が同じように達成しなければならない普遍的な一覧として扱うことはできません。結婚するかどうか、子どもを持つかどうか、どのような働き方を選ぶか、家族や地域とどのように関わるかは、人によって異なります。
Havighurstの理論の意義は、人生の各時期に、身体、社会、個人の価値観の相互作用から生じる課題があると示した点にあります。ただし、具体的な課題の内容については、その人が生きる時代、社会、文化、家族形態、生活条件に合わせて捉え直す必要があります。
そのように、生涯の各時期に異なる課題があると考えるとき、人の生涯発達を理論化した代表的な人物の一人としてErik H. Eriksonを挙げることができます。Eriksonは1902年にドイツのフランクフルトで生まれ、1994年に亡くなった精神分析家・発達理論家です。
Eriksonは、ViennaでAnna Freudらと関わり、精神分析の訓練を受けました。そのため、Eriksonの理論はFreudの精神分析から大きな影響を受けています。しかし、Freudの理論をそのまま引き継いだわけではありません。
Freudが心理性的発達を中心に論じたのに対して、Eriksonは、個人の内面的な欲求や自我の発達と、家族、学校、職業、地域、文化、歴史的時代からの社会的要請との相互作用を重視しました。このため、Eriksonの理論は心理社会的発達理論、英語ではtheory of psychosocial developmentと呼ばれています。
心理社会的という言葉は、発達が個人の心の中だけで起こるのでも、外側の社会から一方的に決められるのでもないことを表しています。身体的成熟、内面的な欲求、自我の働き、養育者との関係、社会制度、文化的価値、歴史的状況などが相互に関係しながら、発達が進むと考えます。
Eriksonは、人の生涯を、乳児期から老年期に至る八つの段階に分けました。そして、それぞれの発達時期に、二つの極からなる心理社会的危機、英語ではpsychosocial crisisがあると考えて理論を構成しました。
ここでいう危機とは、必ずしも病気や破綻を意味するものではありません。それまでの自分のあり方と、その時期に新たに求められることとの間で、発達の方向が問われる転換点を意味します。
また、二つの極のうち、肯定的な側だけを獲得し、否定的な側を完全になくすことが目標なのではありません。例えば、信頼だけがあり、不信がまったくなければ、危険な状況や信頼できない相手を見分けられないかもしれません。適度な不信を持ちながらも、基本的には世界や他者を信頼できるというように、二つの側面が統合され、肯定的な側が相対的に優位になることが重要です。
Eriksonは、各段階の危機がある程度適切に統合されることで、基本的な心理的・社会的な力が形成されると考えました。八つの段階に対応する力は、希望、意志、目的、適格性または有能感、忠誠、愛、世話、英知です。
さらにEriksonは、発達が一定の順序に沿って進み、それぞれの課題が特定の時期に中心的な問題として前景化するという漸成原理、英語ではepigenetic principleを示しました。ただし、一つの課題が一度解決されれば、その後は二度と問題にならないという意味ではありません。
乳児期に形成された信頼は、後の友情やパートナー関係の中でも改めて問われます。青年期のアイデンティティも、就職、転職、結婚、離婚、子育て、病気、退職などを経験する中で変化します。各段階には中心的な時期がありますが、すべての課題は生涯を通して形を変えながら現れうると考える必要があります。
乳児期の課題は、基本的信頼対基本的不信、英語ではbasic trust versus basic mistrustです。この時期には、主要な養育者との関係を通して、人や世界に対する基本的な信頼感が形成されると考えられます。
乳児は、食事、体温の調節、清潔、安全、身体的な接触など、多くの面で養育者に依存しています。泣いたときに養育者が応じ、空腹や不快がある程度一貫して和らげられ、抱かれたり声をかけられたりする経験を重ねることで、世界はおおむね予測可能であり、自分の必要は誰かに伝わりうるという感覚が形成されます。
これは、単に人を疑わず、何でもひたすら信じる力を身につけるということではありません。現実には、必要がすぐには満たされない場合もありますし、他者が常に期待どおりに行動するわけでもありません。適度な不信や警戒は、自分を守るために必要です。
例えば、乳児が空腹で泣いていても、養育者が事情によってすぐに応じられないことがあります。しかし、少し待った後に必要が満たされ、関係が回復するという経験を繰り返すことによって、欲求不満があっても、世界や養育者との関係が完全に壊れてしまうわけではないと感じられるようになります。
ここで養育者を母親だけに限定する必要はありません。父親、祖父母、里親、保育者など、継続して乳児の生活を支える人々が含まれます。Eriksonの理論では、基本的信頼と基本的不信が適切に統合されることによって、将来が不確実であっても、必要なものが得られる可能性を信じられる希望、英語ではhopeが形成されると考えられています。
幼児期初期の課題は、自律性対恥・疑惑、英語ではautonomy versus shame and doubtです。この時期には、歩く、食べる、服を着る、排泄を調整する、物を選ぶなど、自分で行えることが増えていきます。
子どもには、自分でやってみたい、自分で決めたいという気持ちが現れます。何でも自分でやろうとしますが、まだ身体の動きや感情、行動を十分に調整できないため、失敗することもあります。
ただし、失敗したこと自体が、必ず恥や疑惑につながるわけではありません。養育者が子どもの試みを認め、必要なところだけを助け、失敗してもやり直せるように関われば、子どもは自分の行動を調整する力を少しずつ身につけます。
反対に、子どもの試みを過度に制限したり、失敗を嘲笑したり、何でも大人が代わりに行ったりすると、自分の身体や行動をうまく統制できないのではないかという自己への疑いが強くなる場合があります。ここでいう疑惑は、他人を疑うという意味ではなく、自分にできるのかという疑いです。
恥も、失敗したことから自動的に生じるものではありません。自分の行動や身体が他者から否定的に見られていると感じることなどによって生じます。自律性と恥・疑惑が適切に統合されることで、自分で選び、行動を調整しようとする意志、英語ではwillが形成されるとEriksonは考えました。
幼児期後半の課題は、主導性対罪悪感、英語ではinitiative versus guiltです。「積極性対罪悪感」と訳されることもありますが、initiativeは、単に活発で積極的であることだけでなく、自分から活動を始め、目的を決め、計画し、他者へ働きかけることを意味します。
この時期は、しばしば「なぜなぜ期」と呼ばれます。子どもが盛んに質問し、さまざまな物事に関心を持つことは、主導性の一つの表れです。しかし、主導性は質問することだけではありません。
子どもは、遊びの内容を考える、役割を決める、新しいことを試す、大人の活動をまねる、友達を誘うなど、自分から目的を持って行動するようになります。想像の中で大きな計画を立てたり、自分が中心となって遊びを進めたりすることもあります。
一方、自分の行動が他者を困らせたり、規則に反したりすることに気づくと、罪悪感を経験することがあります。罪悪感は、すべてなくすべきものではありません。他者への配慮や、自分の行動に責任を持つことにもつながります。
しかし、子どもの好奇心や試みが過度に禁止され、行動を起こすこと自体が悪いと感じるようになると、強すぎる罪悪感によって主導性が抑えられる場合があります。主導性と罪悪感が適切に統合されることで、自分の行動に方向を与える目的、英語ではpurposeが形成されると考えられています。
児童期の課題は、勤勉性対劣等感、英語ではindustry versus inferiorityです。この時期には、学校生活をはじめとする集団の中で、知識や技能を身につけ、課題を完成させ、自分の能力を社会的に意味のある活動へ用いることが求められるようになります。
勤勉性とは、単に一生懸命に勉強するという意味ではありません。読む、書く、計算する、道具を使う、作品を作る、スポーツをする、友達と協力する、役割を果たすなど、自分の技能を用いて何かを成し遂げられるという感覚を含みます。
子どもは、知識や技能を獲得しようと努力しますが、同時に、自分にできることとできないことも見えるようになります。学校や集団の中では、ほかの子どもと比較される機会も増えます。
課題に取り組んだことが認められ、努力と結果との関係を経験できれば、自分には物事を成し遂げる力があるという感覚が育ちます。反対に、失敗だけを強調されたり、常に他者より劣っていると評価されたりすると、劣等感が強まることがあります。
ただし、自分の限界に気づくこと自体が問題なのではありません。現実的に自分の得意不得意を理解することは必要です。勤勉性と劣等感が適切に統合されることで、自分の技能を用いて課題を成し遂げられるという適格性または有能感、英語ではcompetenceが形成されると考えられています。
Eriksonの理論を代表する主題の一つが、青年期のアイデンティティ形成です。Eriksonはアイデンティティという概念について多くの研究と著作を残し、青年期を、子ども期のさまざまな同一化を組み替え、成人としての生き方を模索する重要な転換期として捉えました。
ただし、青年期だけを八段階の中で最も重要な段階と断定する必要はありません。Eriksonの理論では、乳児期の信頼から老年期の自我統合まで、それぞれの段階が後の発達に関係します。その中でも、アイデンティティがErikson理論を象徴する中心的概念の一つである、と理解するのが適切です。
青年期の課題は、アイデンティティ対役割混乱、英語ではidentity versus role confusionです。「アイデンティティの混乱」と表現されることもありますが、八段階の名称としてはrole confusion、すなわち役割混乱が広く用いられています。
アイデンティティとは、自分が何者なのかということです。ただし、IDカードのように、身分や氏名を外部へ証明するという意味ではありません。時間が経過し、置かれた場面や役割が変わっても、自分が自分であり続けるという連続性と、社会の中で自分がどのような位置を占め、どのような方向へ進もうとしているかについての感覚です。
アイデンティティには、職業、学業、価値観、信念、政治的・宗教的立場、文化的所属、ジェンダー、家族関係、友人関係、将来像など、さまざまな側面が関わります。青年は、それまで親や周囲から与えられてきた価値観や役割をそのまま受け入れるのではなく、自分にとって何が重要なのかを問い直します。
青年期には、自分が何者なのか、将来何をしたいのかを考えます。しかし、複数の可能性の間で迷い、どの役割や価値観を選べばよいのかわからなくなることもあります。これが役割混乱です。
役割を試し、考え、時には撤回するための時間を、Eriksonは心理社会的モラトリアム、英語ではpsychosocial moratoriumという概念によって説明しました。モラトリアムは単なる無責任な先延ばしではありません。最終的な役割を確定する前に、職業、価値観、人間関係、社会的立場などを探索するための、社会的にある程度認められた猶予期間です。
青年が将来の職業や社会的役割を試行的に経験することは、将来の課題を先取りして試すことだといえます。一方、以前の発達段階で十分に取り組めなかった課題がある場合には、その課題が後の時期へ持ち越され、青年期や成人期に改めて取り組まれる場合があります。「先取りすること」と「持ち越された課題に再び取り組むこと」は区別する必要があります。
アイデンティティと役割混乱が適切に統合されることで、自分が選んだ価値や人との関係に、矛盾や不確実性があっても関与し続ける忠誠、英語ではfidelityが形成されるとEriksonは考えました。
ただし、アイデンティティは青年期に一度完成し、その後は変わらないものではありません。進学、就職、転職、結婚、離婚、子育て、移住、病気、退職などを経験する中で、人は自分が何者なのかを繰り返し問い直します。青年期はアイデンティティ形成が特に前景化する時期ですが、アイデンティティの発達は成人期以降も続きます。
その次の段階である成人初期の課題は、親密性対孤立、英語ではintimacy versus isolationです。Eriksonは、ある程度安定したアイデンティティを持つことが、他者との親密な関係の基盤になると考えました。
自分が何者なのかについて一定の感覚を持っていれば、他者と深く関わっても、自分自身を完全に失わずにいられます。その意味で、アイデンティティは親密性に関係します。
ただし、アイデンティティを完全に確立した人だけが、初めて他者と本当の意味で出会えるということではありません。親密な友情やパートナー関係を経験する中で、自分の価値観やアイデンティティが形成され、変化することもあります。アイデンティティと親密性は、相互に影響し合います。
親密性には、人生のパートナーとの関係だけでなく、生涯にわたる親友関係、相互の信頼と責任を伴う深い関係などが含まれます。親密であるためには、相手と同じ人間になる必要はありません。違いを保ちながら、互いに関与し、相手の必要や感情を尊重することが求められます。
その一方で、他者と深く関わることで自分を失うのではないかと恐れたり、傷つくことを避けるために親密な関係から退いたりすることがあります。これが孤立の側面です。
孤立とは、自分と同じ人間が二人といないことに気づき、実存的に一人であると感じることだけを意味しません。また、一人で過ごすこと自体が孤立なのでもありません。自分で選んだ一人の時間と、他者との相互的な関係を築けず、望まない孤独に陥ることは区別する必要があります。
親密性と孤立が適切に統合されることによって、自分自身を保ちながら、他者との相互的な関係へ関与する愛、英語ではloveが形成されると考えられています。
成人期、特に中年期の中心的な課題は、generativity versus stagnationです。日本語では「生殖性対停滞」と訳されてきましたが、generativityは実子を生み育てることだけを意味しません。そのため、「世代性」「生成性」「次世代育成性」などと訳されることもあります。
generativityとは、次の世代や、将来自分がいなくなった後にも続く社会、文化、仕事などに関心を向け、それらを育て、支え、引き継ぐことです。
親として子どもを育てることは、その一つです。しかし、それだけではありません。教師として生徒を育てること、職場で後輩を指導すること、専門的な知識や技術を伝えること、地域活動に参加すること、作品や制度を残すこと、誰かをケアすることなども含まれます。
したがって、子どもを持たない人であっても、generativityを発揮することができます。また、直接誰かを教育する立場にいなくても、仕事、文化、地域、環境などを将来へつなぐ活動を通して、次の世代に関与することができます。
育て、引き継いでいくということは、自分が生きてきた人生の経験、知識、価値を、自分一人の中だけに閉じ込めず、誰かや社会の未来へ手渡していくことです。
これに対する停滞は、単にうまく引き継げず、自分の人生が止まってしまったように感じることだけではありません。次の世代や社会への関心を失い、自分自身の快適さ、欲求、評価だけに閉じこもる状態も含みます。
ただし、誰もが常に社会へ大きな貢献をしなければならないという意味ではありません。日常の中で誰かを支えたり、知識を分かち合ったり、次に使う人のために仕事を整えたりすることも、generativityの表れになりえます。
generativityと停滞が適切に統合されることによって、次の世代や他者の成長に継続的な関心を向ける世話・配慮、英語ではcareが形成されるとEriksonは考えました。
最後の老年期の課題は、自我統合対絶望、英語ではego integrity versus despairです。自我統合とは、自分の人生を振り返り、成功したことだけでなく、失敗、後悔、喪失、選ばなかった可能性なども含めて、「これが自分の一度きりの人生だった」と受け入れることです。
これは、自分の人生には失敗がなかったと思い込むことでも、すべての出来事に肯定的な意味があったと美化することでもありません。変えることのできない過去を含め、自分の人生全体を自分のものとして引き受けることです。
老年期には、もう自分の人生は失敗だったのではないか、別の生き方ができたのではないか、やり残したことが多すぎるのではないかと思うことがあります。人生をやり直す時間が残されていないという感覚や、死に対する恐怖が強まることもあります。こうした感覚は絶望につながる場合があります。
しかし、老年期に入ったからといって、「自分個人としての人生は終わった」と考える必要はありません。老年期にも、新しい知識を得ること、人と出会うこと、関係を結び直すこと、誰かを支えること、社会に参加することなどが可能です。
自我統合とは、現在の生活を終わったものとすることではなく、自分の人生が有限であることを意識しながら、過去、現在、未来を一つの生涯として受け入れることです。
自分が生きたことが、家族、友人、仕事、地域、文化、人類の連続性の中で何らかの形で受け継がれていると感じることは、自我統合を支えることがあります。ただし、家族を持つことや、目に見える業績を残すことが統合の条件ではありません。
社会的に大きな成果がなくても、自分が関わった人や、自分が行ってきた小さな活動を含めて、自分の人生を引き受けることができます。自我統合と絶望が適切に統合されることによって、人生の有限性と矛盾を受け入れながら、人生そのものへ関心を向ける英知、英語ではwisdomが形成されると考えられています。
以上のように、発達に関する理論を、Freud、Piaget、Havighurst、Eriksonを中心に見てきました。Freudは幼児期の欲動と無意識的葛藤、Piagetは認知構造の質的変化、Havighurstは人生の各時期に現れる発達課題、Eriksonは自我と社会との関係から生じる心理社会的危機を重視しました。
なかでもEriksonは、乳児期から老年期までを八つの段階として示し、成人期と老年期にも固有の心理的発達課題があることを明確にした点で、生涯発達の理論に大きな影響を与えました。
ただし、生涯にわたる発達を理論化したのはEriksonだけではありません。Havighurstも乳幼児期から老年期までの発達課題を示しています。また、その後の生涯発達心理学では、発達が獲得と喪失を含み、多方向的であり、個人の可塑性、歴史的時代、文化的環境と深く関係することが論じられています。
Eriksonの理論にも限界があります。八つの段階の年齢や順序が、すべての人に同じように当てはまるとは限りません。進学、就職、結婚、子育て、退職などの時期や意味は、社会、文化、時代、ジェンダー、経済状況、家族形態によって異なります。
また、各段階の危機が具体的にどのような過程によって統合されるのか、八つの段階が厳密に順番どおり進むのかについては、実証的に検証することが難しい面があります。段階の名称を用いて、人の発達を固定的に評価することも避ける必要があります。
それでもEriksonの理論は、人間が子どもから大人になれば発達を終えるのではなく、成人期、老年期にも新たな葛藤、役割、可能性があることを示しました。また、発達を個人の心だけでなく、他者、社会、文化、歴史との関係の中で考える視点を提示しました。
Eriksonだけでなく、ほかのさまざまな発達理論を通じても、人の発達について理解を深めることができます。一つの理論だけで人間の生涯をすべて説明することはできません。それぞれの理論が、発達のどの側面に光を当て、どのような時代的・文化的前提を持ち、何を十分に説明できていないのかを比べながら学ぶことが重要だといえます。
