【要約】
アントノフスキーの研究では、ナチス強制収容所経験者の29%が良好な emotional health(情緒的健康)を示し、比較群では51%でした。彼が注目したのは、経験者の状態が悪いことだけではなく、極端な逆境を経験しても比較的よく適応している人が存在することでした。そこから、「なぜ病気になるのか」を問う pathogenesis(疾病生成)だけでなく、「何が人を健康な方向へ動かすのか」を問う salutogenesis(健康生成)へと視点を広げていきます。疾病生成的医学では疾患の原因や risk factors(危険因子)を明らかにし、予防・治療につなげますが、健康生成論はそれを否定せず、健康を促進する要因への問いを補います。がんの危険因子には、喫煙、飲酒、身体活動不足、肥満、食事、感染、放射線、発がん性物質、遺伝的素因などがあり、多様な要因が複合して発症に関係します。
ーーーー講義録始めーーーー
更年期女性調査の結果/疾病生成論とリスクファクター
(強制収容所経験者に見られた29%という数字) その結果、強制収容所からの生還者群は、強制収容所を経験していない比較群と比べて、全体として健康や適応の状態が良くない傾向を示していました。しかし、ここで注意しておきたいのが、よく紹介される「29%」という数字の意味です。これは「心身の健康全般が良好だった人が29%だった」という意味ではありません。アントノフスキーが後に健康生成論を考える契機として取り上げたのは、強制収容所経験者のうち29%が良好な emotional health(情緒的健康)を示していたのに対し、強制収容所経験のない比較群では51%であった、という結果でした。一方で身体的健康についても別の評価が行われており、強制収容所経験者の40%が、医師によって年齢相応にみて非常に良好、あるいはかなり良好な身体的健康状態にあると評価されています。したがって、この研究結果を単純に「良好29%、不良71%」という心身全体の二分法で捉えるのは正確ではありません。
(アントノフスキーが29%に注目した理由) 強制収容所経験者の健康や適応状態が比較群より悪かったという結果だけを見るのであれば、そこには過酷な強制収容所経験がその後の生活に長期的な影響を及ぼした可能性を見ることができます。しかし、アントノフスキーが特に強い関心を示したのは、それとは少し違うところでした。比較群では良好な情緒的健康を示した女性が51%であったのに対し、強制収容所経験者では29%でした。普通に比較すれば、「51%に対して29%なのだから、やはり強制収容所の経験は健康に大きな悪影響を残している」という方向に関心が向きます。ところがアントノフスキーは、「それほどまでに過酷な経験をしたにもかかわらず、なぜ29%もの人が良好な情緒的健康を保っているのだろうか」という、もう一方の問いに注目しました。1971年の研究では、こうした女性たちについて、もともと持っていた強さ、戦後に満足でき意味のある生活を再構築できるような環境、そして後のストレスを比較的落ち着いて受け止めることを可能にする過程などが考えられています。ただし、「強制収容所での経験そのものを人間的成長や成熟の糧にした」とまで、この研究から断定することはできません。重要なのは、極めて大きなストレッサーにさらされても、なぜ比較的良好な健康や適応を保つ人がいるのかという問いが生まれたことです。
(問いの方向を変える) そこでアントノフスキーは、従来とは少し異なる方向から健康を考える必要があるのではないか、と考えるようになりました。もちろん、それまでの医学や疾病研究を否定したわけではありません。病気の原因を明らかにし、病気を予防し、診断し、治療することは非常に重要です。そのうえで、「なぜ病気になるのか」という問いだけではなく、「様々なストレスや危険因子にさらされながらも、なぜ人は健康な方向へ進むことができるのか」という問いを加える必要があるのではないかと考えたわけです。これが、後に salutogenesis(サルートジェネシス、健康生成)と呼ばれる考え方へつながっていきます。
(医学と疾病生成的な問い) つまり、人間の生命や健康に関わる医学では、長い間、「なぜこの病気が起こるのか」「どのような要因が病気になる可能性を高めるのか」という問いが非常に重要な役割を果たしてきました。その中で、疾患そのものや、その発症する可能性を高める risk factor(リスクファクター、危険因子)を明らかにし、それを可能な範囲で低減・除去するための研究や実践が行われています。例えば喫煙は肺がんをはじめとする多くのがんの重要な危険因子ですから、禁煙や受動喫煙の防止はがん予防の重要な手段になります。また医学的治療では、薬物療法などによって病態の原因や進行機序に働きかける場合もあれば、外科手術によって腫瘍や病変を切除する場合もあります。ただし、外科手術そのものを単純に「リスクファクターを取り去る行為」と考えるのは正確ではありません。病変の切除は病気そのものに対する治療であり、危険因子の除去とは区別して考える必要があります。
(パソジェネシスとは何か) こうした、「病気はどこから生じるのか」「何が病気を引き起こし、あるいは発症する可能性を高めるのか」という方向から健康問題を理解する考え方を、アントノフスキーは pathogenesis(パソジェネシス、疾病生成)あるいは pathogenic orientation(パソジェニック・オリエンテーション、疾病生成的志向)として捉えました。疾病生成的な考え方では、特定の疾患や診断、その原因、危険因子などに焦点を当てます。一方、健康生成的な考え方では、病気につながる risk factors(危険因子)だけではなく、人を健康の方向へ動かす salutary factors(健康を促進する要因)にも目を向けます。したがって、疾病生成論とは単に「リスクファクターを探して取り去る学問」というより、「病気や障害がなぜ生じるのかを明らかにし、それを予防・治療しようとする基本的な医学的志向」と理解する方が正確でしょう。
(疾病生成と健康生成は対立するものではない) 疾病生成的な研究は、医学の領域で長い間、極めて重要な役割を果たしてきました。病原体、生活習慣、環境曝露、遺伝的要因など、疾患に関係する様々な要因について膨大な知識が蓄積され、その知識が予防や治療に結びついています。ここで注意しておきたいのは、アントノフスキーが疾病生成的な医学を不要だと考えていたわけではない、ということです。健康生成論は疾病生成論を置き換えるものというより、疾病生成的な問いだけでは見えにくかった「健康を支え、健康の方向へ人を動かすもの」にも目を向けるための補完的な視点として構想されました。さて、ここで出てきた危険因子、つまり risk factor(リスクファクター)とは何でしょうか。一般には、ある疾病が発生する可能性や危険性を高めることと関連する特徴、行動、環境への曝露などを指します。したがって、「危険因子があれば必ず病気になる」という意味ではありませんし、すべての危険因子が単独で直接病気を引き起こすという意味でもありません。
(がんの危険因子を考える) 例えば、がんの危険因子にはどのようなものがあるかわかりますか。肺がんをはじめとする多くのがんで非常に重要な危険因子となるのが喫煙ですね。それ以外にも、がんの種類によって様々な危険因子があります。日本人について科学的根拠が確認されている予防可能な要因としては、喫煙や受動喫煙、飲酒、身体活動不足、肥満ややせ、野菜・果物の不足、塩蔵食品の過剰摂取などがあります。さらに、Human papillomavirus(HPV:ヒトパピローマウイルス)、hepatitis virus(肝炎ウイルス)、Helicobacter pylori(ヘリコバクター・ピロリ)などの感染も、特定のがんの重要な危険因子です。また、ionizing radiation(電離放射線)や特定の発がん性化学物質への曝露ががんの発生に関係することもあります。こうした生活習慣や環境の要因だけではなく、加齢や遺伝的な体質も関係します。がんは、正常な細胞の遺伝子に様々な原因で変異が蓄積し、細胞の増殖を正常に制御できなくなることによって生じます。その遺伝子変異には、生まれつき受け継いだものが関係する場合もあれば、加齢や喫煙、感染、化学物質、放射線などによって生涯の途中で生じるものもあります。つまり、がんは一つだけの原因から単純に発生するのではなく、遺伝的要因、環境要因、生活習慣、感染、加齢など様々な要因が複雑に関係して生じる病気なのです。
