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健康生成論と「負のエントロピー」とは?アントノフスキーの健康観を花粉症の例からわかりやすく解説 #放送大学講義録(健康への力の探究第2回その5)

【要約】

 

アントノフスキーは、生命が無秩序化への傾向に抗して秩序を維持するという negative entropy(負のエントロピー)の発想を、健康生成論を理解する比喩として用いました。ただし、物理学のエントロピーと健康が同じものという意味ではありません。健康生成論では、人は常にストレッサーにさらされますが、ストレッサーが直ちに健康破綻を生むわけではなく、まず tension(緊張)が生じ、その処理の仕方が重要になります。GRRsやSOCなどの資源をうまく活用できれば、健康を維持し健康側へ動くことも可能です。花粉症も、診断があるだけで「不健康」と決まるわけではありません。薬物療法、曝露回避、アレルゲン免疫療法などによって症状をコントロールし、日常生活を維持できれば、健康生成論では比較的健康側に位置して生活していると捉えることができます。なお、現在はスギ花粉症に対する舌下・皮下アレルゲン免疫療法があり、長期寛解や治癒が期待できる場合もあるため、「花粉症は完全には治せない」と一律に断定することはできません。

 

ーーーー講義録始めーーーー

 

負のエントロピーという考え方/慢性疾患と健康生成論(花粉症の例)

(負のエントロピーという発想) アントノフスキーは、この健康の連続体モデルを考えるうえで、negative entropy(ネガティブ・エントロピー、負のエントロピー)という考え方を参考にしました。エントロピーという言葉は、物理で勉強された方も多くいると思います。entropy(エントロピー)は熱力学第二法則に関係する重要な概念で、熱力学では一つの状態量として定義されます。入門的な説明では、「乱雑さ」や「無秩序さ」の度合いとして説明されることもあります。ただし、これは理解を助けるための比喩的な説明であって、エントロピーそのものを単純に「無秩序」と同一視するのは正確ではありません。熱力学第二法則が示す重要な点は、孤立した系では、自発的な変化によって全体のエントロピーが減少することはなく、増加するか一定に保たれるということです。 negative entropy あるいは negentropy(ネゲントロピー)という考え方はアントノフスキー独自の造語ではなく、生命がどのように秩序を維持するのかを考える議論の中で以前から用いられてきたものです。アントノフスキーはこの発想を健康生成論に取り入れ、無秩序化の方向に対抗して秩序を維持する働きを考えるための比喩として用いました。

(生命は秩序を維持する開放系) つまり、熱力学的に考えれば、孤立した系ではエントロピーが増大する方向へ変化していきます。しかし、「自然界そのものが無秩序である」と考えるのは少し違います。人間を含む生命体は、周囲からエネルギーや物質を取り込み、不要な熱や物質を外へ排出する open system(オープン・システム、開放系)です。そのため、自分の内部では高い秩序を保ちながら生き続けることができます。人間の身体を考えても、細胞、組織、臓器、神経系、免疫系などが絶えず働き、一定の秩序を維持しています。また、人間は社会や環境との関係の中で生活しています。アントノフスキーは、こうした生体内から社会・文化的環境、さらには細胞レベルに至るまで、人間が無秩序化への傾向に対抗しながら生きているという発想を、健康生成論を考える一つの理論的イメージとして取り入れました。

(秩序と健康を結びつける比喩) つまり、イメージとしては、秩序と無秩序という二つの方向があり、放っておけばより無秩序な方向へ向かう力が働く一方で、それに対抗して秩序を維持する働きも存在すると考えることができます。アントノフスキーは、この考え方を健康について考える際の比喩として用いました。健康生成論の ease/dis-ease continuum(イーズ/ディス・イーズ連続体、健康―健康破綻の連続体)に当てはめれば、秩序を維持し、より良好に機能している方向を健康側、秩序が損なわれていく方向を健康破綻側としてイメージすることができます。ただし、ここは大切なところですが、物理学上のエントロピーと人間の健康状態が完全に同じものだという意味ではありません。あくまで、健康生成論を理解するための理論的な比喩として捉える必要があります。

(ストレッサーは必ず健康を壊すわけではない) 健康生成論では、生体内から人間社会システムに至るまで、人は常に様々な stressors(ストレッサー、心身に要求を生じさせる刺激や条件)にさらされていると考えます。ただし、ストレッサーを単純に「健康から健康破綻へ押し流す目に見えない圧力」と考えるのは正確ではありません。アントノフスキーの健康生成モデルでは、ストレッサーに直面すると、まず tension(テンション、緊張)が生じます。そして、この緊張をうまく処理できるかどうかが重要になります。利用できる資源を動員して緊張をうまく処理できれば、必ずしも健康破綻には向かいません。反対に、緊張の処理がうまくいかず、それが stress(ストレス状態)へ発展すると、健康破綻側へ動く可能性が高まります。つまり、ストレッサーそのものが必ず病気を生み出すのではなく、ストレッサーにどう対処するのか、その過程が重要だということです。

(負のエントロピーと健康を支える資源) では、ストレッサーが存在することを前提としながら、どうすれば健康破綻側へ一方的に流されず、健康を維持したり、より健康な方向へ動いたりできるのでしょうか。そこで重要になるのが、アントノフスキーが「負のエントロピーの源」と結びつけて考えた様々な資源です。健康生成論では、その代表的な概念として Generalized Resistance Resources(GRRs:汎抵抗資源)があります。社会的支援、知識、経済的資源、文化的安定性など、人がストレッサーに対処するために利用できる様々な資源が含まれます。そして、それらの資源を適切に認識し、動員するうえで重要になるのが Sense of Coherence(SOC:首尾一貫感覚)です。したがって、「負のエントロピーそのものが健康要因である」というより、「エントロピーへの傾向に対抗して健康を維持する資源や働きを説明する比喩として、負のエントロピーという発想が使われた」と理解するとよいでしょう。

(健康生成論の健康観) 健康生成論での健康の定義は、「病気になった」「病気が治った」という二分法的な健康観に比べると、最初は少しわかりにくいかもしれません。しかし、慢性的な病気や障害とともに生活する人が増えている社会を考えると、この健康観には大きな意味があります。健康生成論では、病気があるかないかだけでその人を健康か不健康かに分けるのではなく、病気を抱えていても、その人がどの程度よく生活し、環境に適応し、健康―健康破綻の連続体上のどの位置にいるのか、そしてどちらの方向へ動いているのかを考えます。疾病生成的な視点と健康生成的な視点は、どちらか一方を選ぶものではなく、病気を治療することと、その人がより良く生きられる条件を考えることを補い合うものです。

(花粉症を例に考える) 例えば、花粉症を考えてみましょう。花粉症は、スギ、ヒノキなどの花粉に対するアレルギー反応によって、くしゃみ、鼻水、鼻づまり、目のかゆみなどの症状が起こる疾患です。スギ花粉症の場合、花粉の飛散時期になると症状が現れたり悪化したりする人が多くいます。対策としては、マスクや眼鏡の使用、衣服や室内への花粉の持ち込みを減らす工夫などによって、花粉への exposure(エクスポージャー、曝露)を少なくすることが重要です。また、抗ヒスタミン薬、点鼻ステロイド薬などによる薬物療法によって症状を抑えることもできます。ここで以前は「花粉症を完全に治すことはできない」と説明されることもありましたが、現在は少し事情が違います。一般的な薬物療法の多くは症状を抑える対症療法ですが、スギ花粉症には allergen immunotherapy(アレルゲン免疫療法)があり、日本では sublingual immunotherapy(SLIT:舌下免疫療法)や subcutaneous immunotherapy(SCIT:皮下免疫療法)が行われています。これらは数年間の治療を必要としますが、病気の自然経過そのものを変化させ、治療終了後にも効果が持続することがあり、長期寛解や、患者によっては治癒が期待できる治療法です。ただし、すべての人が完全に治るわけではありません。

(病気があっても健康に暮らすということ) つまり、花粉症がある人を考えたとき、「花粉症という診断があるのだから、その人はずっと疾病状態にある」と単純に考える必要はありません。症状のない季節には問題なく生活している人もいますし、花粉飛散期でも、薬を適切に使用したり、マスクや眼鏡などで花粉への曝露を減らしたり、必要に応じてアレルゲン免疫療法を受けたりすることで、症状をかなり抑えながら日常生活を送る人もいます。疾病生成的な視点から見れば、「花粉に対するアレルギー疾患が存在する」ということになります。しかし健康生成的な視点では、それだけで健康状態を決めるのではなく、その人が利用できる資源を使いながら症状をどの程度コントロールし、日常生活をどの程度維持できているのかを見ます。病気があるということと、健康―健康破綻の連続体の中で比較的健康な側に位置して生活できるということは、必ずしも矛盾しないわけです。