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ビジネスと人権の次の課題――指導原則が示す企業・政府・社会の役割 #放送大学講義録(持続可能な社会と生活第4回その7)

ーーーー講義録始めーーーー

 

指導原則の意義と企業・政府・社会の役割

■ 指導原則がもたらした3つの意義

ここまで「ビジネスと人権に関する指導原則」について、グローバルな動きを見てきました。では、この指導原則がもたらしたものは何だったのでしょうか。その意義を少し整理して考えてみたいと思います。社会の持続可能性をどうすれば実現できるのか、問題解決のあり方や具体的な方法を考えるうえで、ここからは非常に貴重な示唆が得られます。人権というと、どうしても理念や価値の話に見えがちです。しかし、持続可能な社会をつくるためには、理念を理念のまま終わらせず、制度、経営、政策、日々の取引、消費、投資の中に組み込んでいかなければなりません。国連「ビジネスと人権に関する指導原則」は、そのための共通言語を与えた文書だといえます。

【意義①】理念からアクションへ

第一の意義は、人権尊重を理念からアクションへ移したことです。人権尊重は、誰もが支持する崇高な理念です。人を差別してはいけない。強制労働や児童労働を許してはいけない。安全で健康的な環境で働く権利を守らなければならない。こうしたこと自体に正面から反対する人は多くありません。しかし、その理念を実現するために企業は何をすればよいのか、政府は何をすればよいのか、消費者や投資家は何を見ればよいのかとなると、必ずしも明確ではありませんでした。

指導原則は、この曖昧さに対して、人権尊重を実行するための具体的な考え方と手順を示しました。企業に対しては、人権方針を定めること、人権への負の影響を特定し評価すること、その結果を社内の意思決定や取引管理に統合して予防・軽減策を講じること、対応の実効性を追跡すること、外部に説明すること、そして企業が負の影響を引き起こしたり助長したりした場合には救済に関与することを求めています。これが Human Rights Due Diligence、人権デュー・デリジェンスです。

ここで大切なのは、人権デュー・デリジェンスが単なるチェックリストではないということです。企業が「この項目に丸をつけました」と言えば終わるものではありません。自社の事業やサプライチェーンのどこで、誰に、どのような人権上の影響が生じているのかを見続ける継続的なプロセスです。工場の労働者、移住労働者、子ども、女性、障害のある人々、地域住民、先住民族、消費者など、実際に影響を受ける人々の側からリスクを見る必要があります。

つまり、指導原則は、人権尊重を「よいことを言う」段階から、「どう実行し、どう検証し、どう説明し、どう救済するか」という段階へ移したのです。理念をアクションへと翻訳したこと。これが第一の意義です。

【意義②】企業の力を社会変革に活用する

第二の意義は、グローバルに社会への影響力を増している企業の力を、社会変革の方向へ向けようとしたことです。現代の企業は、単に商品やサービスを売る存在ではありません。資源を調達し、労働者を雇い、サプライヤーを組織し、物流を動かし、広告を通じて価値観にも影響を与え、時には国家を超える規模で経済活動を展開します。とくに多国籍企業のサプライチェーンは、国境を越えて広がっています。そのため、ある国の国内法だけでは十分に把握しきれない人権リスクが、取引関係の奥深くで生じることがあります。

SDGsの採択文書である「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」第67段落でも、民間企業活動、投資、イノベーションは、生産性、包摂的な経済成長、雇用創出の主要な推進力であるとされています。そして、企業に対して、創造性とイノベーションを持続可能な開発の課題解決に向けて発揮するよう求めています。同時に、労働権、環境・健康基準、そして国連「ビジネスと人権に関する指導原則」に従って事業を行うことも求めています。つまり、企業の力は期待されている。しかし、その力は人権や労働、環境の基準に沿って行使されなければならない、ということです。

特に重要なのは、企業のグローバルなサプライチェーンが社会に与えるプラスのインパクトと負のインパクトの両方に着目した点です。企業は雇用を生み、技術を広げ、生活に必要な製品やサービスを届け、地域経済を支えることができます。これは大きなプラスの力です。しかし同時に、低価格、短納期、過度なコスト削減、複雑な下請け構造、監督の弱さが重なると、労働搾取、強制労働、児童労働、危険な職場環境、土地収奪、環境破壊などの負の影響を生むこともあります。

指導原則は、企業が人権デュー・デリジェンスを実践することによって、国内法の執行が弱い場所や、国境を越える取引関係の中にある人権リスクに対しても、企業行動を方向づけようとしたものです。これは、法律が不要だという意味ではありません。むしろ、国家による法制度や監督と、企業による責任ある行動を組み合わせることで、より実効的に人権を守ろうとする考え方です。企業の力を放置するのではなく、社会を持続可能な方向に変える力として使うこと。これが第二の意義です。

【意義③】自主性vs強制力の対立を超えた第三の道

第三の意義は、企業の人権侵害を回避するために「自主的な努力を尊重すべきか」、それとも「罰則を伴う法律で強制すべきか」という長い対立に対して、新しい道を示したことです。企業の自主性だけに委ねれば、取り組む企業と取り組まない企業の差が大きくなります。人権への配慮にコストをかける企業が、そうでない企業との競争で不利になることもあります。一方で、法律だけで細かく縛ろうとしても、グローバルなサプライチェーンのすべてを一国の法律で直接管理することは容易ではありません。法制度が整っていない国や、制度はあっても執行が弱い国もあります。

この対立に対して、ラギー・フレームワークと指導原則は、強い正統性と影響力を持つ国際規範を確立し、それを政府、企業、市民社会、投資家、国際機関が共通して参照することで問題解決を進めるという道を示しました。指導原則は条約ではなく、直接の法的拘束力を持つものではありません。しかし、国連人権理事会で全会一致により支持され、各国政府の政策、企業の行動規範、投資家の評価、国際機関のガイドライン、サステナビリティ報告、公共調達、業界基準などに広く取り込まれていきました。その結果、ソフトローでありながら、企業行動を実際に方向づける力を持つようになったのです。

もっとも、現在ではこの「第三の道」が、法制度化の動きとも結びついています。各国・地域では、人権デュー・デリジェンスを企業に義務づける法律や、サプライチェーン上の強制労働を排除する規制が広がりつつあります。つまり、指導原則は「自主性か強制力か」という二分法を一度超え、共通規範をつくっただけでなく、その後のハードロー、すなわち法的拘束力を持つ制度の形成にも影響を与えているのです。社会の期待がまずソフトローとして形になり、それが企業実務を変え、やがて法制度にも反映されていく。この流れをつくったことが、第三の意義です。

■ 政府が果たすべき3つの役割

また、ビジネスと人権というと、文字通り企業の努力だけが期待されがちです。しかし、そもそも人権問題の解決は企業だけでできるものではありません。国連指導原則の第一の柱が示すように、人権を保護する一次的な義務を負うのは国家です。企業が人権を尊重する責任を負うとしても、それは国家の責任を肩代わりするものではありません。政府が人権を保護する義務をよりよく果たすことが大前提です。

政府が果たすべき役割は、大きく分けて次の3つに整理できます。

政府に求められる役割

役割① 自らが主体として人権を保護すること
・国内法、労働法、差別禁止法、環境法、消費者保護法などを整備し、実効的に執行する
・途上国の人権問題解決に向けて、外交努力、開発協力、国際援助を行う
・公共調達、補助金、輸出信用、政府系金融、開発協力など、国家と企業活動が結びつく場面に人権配慮を組み込む
・紛争影響地域や高リスク地域に関わる企業に対して、適切な情報提供と注意喚起を行う
・あらゆる政策において、人権への一貫した配慮、すなわち policy coherence を確保する
・司法的・非司法的な救済へのアクセスを整備する

役割② 企業への支援と期待の明確化
・企業に対して、国際人権基準に沿った人権尊重への期待を明確に示す
・海外進出企業に対して、進出先の人権リスク、労働慣行、紛争リスク、法制度、社会的脆弱性に関する情報を提供する
・中小企業が人権デュー・デリジェンスに取り組めるよう、ガイドライン、研修、相談窓口、業界別支援を整える
・責任ある企業行動を促すインセンティブを設計する
・企業が一社だけでは解決できないサプライチェーン上の構造的課題について、業界横断的な対話と協働を支援する

役割③ 社会全体の人権意識を高めること
・政府が中心となり、企業、市民社会組織、労働組合、メディア、教育機関、消費者団体、投資家など、あらゆる主体が参加できる対話の場をつくる
・学校教育、大学教育、社会人教育、企業研修を通じて、国際人権基準とビジネスと人権の理解を広げる
・国民への啓発活動を進め、消費、投資、働き方、地域社会の中で人権を考える土壌を育てる
・被害を受けた人が声を上げやすく、相談しやすく、報復を受けにくい社会環境を整える

日本国内においては、そもそも人権に関する国民的理解が十分ではないという課題があります。とりわけ、国際的な人権基準や、企業活動が海外の労働者・地域住民・消費者に与える影響についての理解は、まだ十分に広がっているとはいえません。経済産業省と外務省が実施した日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する調査でも、人権方針や人権デュー・デリジェンスに取り組む企業がある一方で、取り組みの深さや情報開示、サプライチェーン全体への浸透には課題が残ることが示されています。

企業の側から見ても、国内での人権に関する社会的関心の低さ、専門人材の不足、サプライチェーンの複雑さ、中小企業にとってのリソース不足、現地サプライヤーへの影響力の限界などは、取り組みを進めるうえで障壁として指摘されることがあります。だからこそ、政府の役割は単に「企業に任せる」ことではありません。国際基準を示し、企業を支援し、救済制度を整え、社会全体の理解を高めることが必要です。

■ 社会の持続可能性の実現に向けて

そもそも、世界中で解決すべき人権問題とは何なのでしょうか。なぜビジネスと人権が世界的な関心テーマになっているのでしょうか。そして、それが社会の持続可能性とどう結びつくのでしょうか。これらの点について、私たち一人一人の、そして社会全体の理解と意識を高めることがとても重要です。

人権問題は、遠い国の特別な問題ではありません。安価な衣料品、スマートフォン、食品、日用品、エネルギー、金融サービス、観光、物流、建設、介護、農業、教育、デジタルサービス。私たちの日常生活は、さまざまな企業活動とサプライチェーンによって支えられています。そのどこかで、低賃金、長時間労働、危険な職場、強制労働、児童労働、差別、ハラスメント、土地の権利侵害、環境汚染、個人情報の不適切利用などが起きているとすれば、それは私たちの暮らしとも無関係ではありません。

SDGsの根底に流れる理念は、「誰ひとり置き去りにしない」、Leave No One Behind です。この理念の実現は、人権の尊重なくして成し得ません。誰かが安く、速く、便利に暮らすために、別の誰かが危険な労働や差別や排除にさらされるなら、それは持続可能な社会ではありません。環境に配慮した商品であっても、その生産過程で労働者の権利が侵害されているなら、それは本当の意味で持続可能とはいえません。脱炭素、循環経済、デジタル化、経済成長といった取り組みも、人権を土台にして進められなければなりません。

企業には、事業活動を通じて人権への負の影響を防ぎ、軽減し、必要に応じて救済に関与する責任があります。政府には、人権を保護するための法制度、政策、監督、救済制度を整える義務があります。市民社会には、問題を可視化し、被害者の声を支え、社会に問いを投げかける役割があります。投資家には、短期的な利益だけでなく、企業が人権を尊重しているかを見極める責任があります。消費者にも、商品やサービスの背景にある労働や環境の現実に関心を持つことが求められます。そして教育機関には、人権を抽象的な道徳としてではなく、社会と経済を支える基礎として教える役割があります。

包摂的で持続可能な社会は、自然に実現するものではありません。人権を守る制度をつくり、企業活動を点検し、弱い立場にある人々の声を聞き、社会全体で学び続けることによって、少しずつ形づくられていくものです。国連「ビジネスと人権に関する指導原則」は、そのための羅針盤です。企業・政府・市民社会・一人一人がそれぞれの役割を果たしながら、誰も置き去りにしない社会に向けて歩み続けていくことが求められています。