【要約】
アントノフスキーは、ストレッサーが遍在し避けられない世界で、人がどのように適応し健康側へ向かうかを健康生成論の中心課題としました。1987年にはストレッサーを「システムにエントロピーを導入する特性」と定義し、一貫性の欠如、過小・過大負荷、意思決定への参加からの排除などを例示しています。エントロピーは健康生成論では「無秩序への傾向」を表す比喩として理解できますが、物理学の概念と人間の健康を同一視してはいけません。部屋の掃除にたとえるなら、散らかりを健康破綻側への動き、整理する働きを健康側への動きとしてイメージできます。ただし、掃除そのものが健康要因なのではなく、道具、人、お金、知識などのGRRs・SRRsと、それらを認識し利用するSOCが組み合わさって健康側への移動を支えます。SOCは「究極の健康要因」ではなく、健康生成モデルの中核となる全般的志向です。
ーーーー講義録始めーーーー
ストレッサーの位置づけとエントロピーの比喩(部屋の掃除)
(ストレッサーはモデル図の一か所だけに存在するわけではない) 健康生成モデルを見ると、stressor(ストレッサー)は一つの要素として描かれているように見えます。しかし、これは複雑な理論を一枚の図に表すための描画上の限界もあります。先ほども述べましたように、アントノフスキー自身は、人間はストレッサーが omnipresent and inevitable(遍在し、避けることのできない)環境の中で生きていると考えました。モデルの中では、ストレッサーはSOCによって評価され、tension(緊張)を生じさせ得るものとして描かれています。この理解自体は間違っていません。ただし、健康生成論を初めて学ぶときには、ストレッサーをモデル図の中にだけ存在する一つの箱として考えない方がよいでしょう。先ほど説明した「人生という川」の比喩で言えば、川そのものは私たちの人生や社会環境全体に相当し、その中に現れる急流、渦、岩や障害物などが様々なストレッサーに相当すると考えるとわかりやすいでしょう。健康生成論が問うのは、そのようなストレッサーのない世界を作ることだけではなく、ストレッサーの存在する世界の中で、人がどのような資源を利用し、どのように適応しながら健康側へ向かうことができるのか、という問題なのです。
(ストレッサーとエントロピー) また、アントノフスキーは1987年の理論展開の中で、ストレッサーを「システムに entropy(エントロピー)を導入する特性」と定義しました。ここでいうエントロピーは、健康生成論の哲学的な文脈では、秩序が崩れ、より無秩序な方向へ向かうことを表現する比喩として用いられています。アントノフスキーは具体的には、一貫性を欠いた生活経験、過小負荷や過大負荷、意思決定への参加から排除される経験などが、システムにエントロピーを導入するストレッサーになり得ると考えました。したがって、「ストレッサーはエントロピーをシステムに取り入れる」という元の説明には明確な原典上の根拠があります。ただし、物理学のエントロピーそのものを人間の心理的な乱雑さと同一視しているわけではなく、健康や適応を考えるための比喩的な概念として理解する必要があります。
(部屋の掃除でイメージしてみる) では、この少し抽象的な考え方を、部屋の掃除にたとえて考えてみましょう。ここから先はアントノフスキー自身が示した正式な比喩ではなく、健康生成論を理解しやすくするための講義上の例です。例えば、毎日生活していれば、部屋には郵便物、衣服、食器、包装、ゴミなど様々なものが入ってきます。そのまま何も整理しなければ、少しずつ物が増えて散らかり、必要な物が見つかりにくくなったり、生活しにくくなったりします。この状態を、あくまで比喩的に「エントロピーが増えている方向」と考えてみることができます。ここで大切なのは、部屋が散らかること自体が物理学の熱力学第二法則を直接示している、という意味ではありません。日常生活の中では様々な要求や問題が自然に生じ、それを放置すれば生活上の負担や混乱が増えていく、という健康生成論的なイメージを理解するための例なのです。
(整理する働きを考える) しかし、私たちは必要に応じて掃除をしたり、不要な物を捨てたり、物の置き場所を決めたりすることができます。毎日少しずつ片付ける人もいれば、週末にまとめて掃除する人もいるでしょう。また、自分一人では片付けきれなければ家族に手伝ってもらったり、収納用品を購入したり、必要なら専門のサービスを利用したりすることもできます。ここには、健康生成モデルとの対応関係を考えることができます。掃除道具や収納スペース、お金、家族からの支援などは、Generalized Resistance Resources(GRRs:汎抵抗資源)や Specific Resistance Resources(SRRs:特定抵抗資源)にたとえることができます。そして、「今どこが散らかっているのか」「何を優先して片付ければよいか」「自分にはどんな資源が使えるか」を理解し、必要なものを選んで使う基本的な方向づけは、SOCの働きをイメージする助けになります。
(無秩序と健康破綻は同じものではない) 不要なものやゴミが散乱している状態を「無秩序」、整理整頓された状態を「秩序」と呼ぶことはできます。そして講義上の比喩としては、無秩序が進む方向を dis-ease(健康破綻)側、秩序を回復・維持する方向を health ease(健康)側としてイメージすることもできます。ただし、ここでも注意してほしいのは、「無秩序=健康破綻」「秩序=健康」という物理学的・医学的な定義があるわけではないということです。アントノフスキーは、エントロピーへの傾向と健康破綻側への移動を結びつけ、反対に negative entropy(負のエントロピー、ネゲントロピー)を健康側への移動を考える比喩として用いました。つまり、これは健康生成論の世界観を理解するための比喩なのです。
(ストレッサーの遍在と健康を支える資源) 放っておくと様々な物が部屋に入ってきて散らかりやすくなるように、人間も生きている限り様々なストレッサーや要求に出会います。しかし、ストレッサーが存在すること自体が、直ちに健康破綻を意味するわけではありません。利用できる資源を見つけ、適切に使い、緊張をうまく処理できれば、健康状態を維持したり、健康側へ向かったりすることができます。したがって、この比喩の中で「健康要因」を考えるなら、掃除という一つの行為だけを健康要因と考えるのではなく、掃除道具、人手、時間、知識、判断力、習慣など、整理された状態を保つために利用できる様々な資源や働きの組み合わせとして考える方が、健康生成モデルに近い理解になります。
(SOCは「究極の健康要因」ではなく中核概念) その中でも Sense of Coherence(SOC:首尾一貫感覚)は、健康生成モデルの中核をなす非常に重要な概念です。しかし、「究極の健康要因」としてSOCだけを特別な単一要因と考えるのは正確ではありません。SOCは、人生で出会う出来事を理解可能なものとして捉え、利用できる資源があると感じ、それらの要求に取り組む意味を見いだす global orientation(グローバル・オリエンテーション、全般的志向)です。先ほどの掃除の例で言えば、SOCは「部屋を片付ける力そのもの」というより、部屋の状態を把握し、使える道具や支援を見つけ、どの方法で整理すればよいかを判断し、片付けることに意味を見いだして行動するための基本的な方向づけに相当します。健康生成モデルでは、このSOCと、GRRs・SRRsなどの利用可能な資源が組み合わさりながら、健康―健康破綻の連続体上で健康側への移動を支えると考えるのが適切です。
