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グリーフケアと継続する絆モデル(グリーフサポートと死生学第1回) #放送大学講義録

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個人に対して強い愛着や思慕を抱き続けることは決して異常ではありません。したがって、それらを断ち切ったり克服したりする必要はなく、残された者が個人との絆を心の内で感じ続けながら生きていくというグリーフの捉え方は、継続する絆モデルと呼ばれています。テキスト第1項第3節と第12章「宗教とグリーフサポート」の第2節第3項「墓や仏壇」のところでこのモデルを解説していますが、日本社会で物質的な供養になじんでいる人々にとって、継続する絆モデルの考え方はイメージしやすいと思います。仏壇に日々お供え物をして手を合わせ、故人と対話をしたり、1周忌、3回忌、7回忌といった年忌法要を長年にわたって実施して、その都度ゆかりの人々とともに故人の思い出話をして、故人とのつながりを再確認したり。こうした行為は、まさに死別後も故人との絆を継続するという考え方がその根底にあります。

ただ、グリーフは故人との絆の証であるとは言っても、深い悲しみなどの苦難を伴うものであることは変わりません。では、グリーフがもたらす苦難を解消しないと、人は故人のいない新しい生活に適応することはできないのでしょうか。通常、悲嘆を経験する多くの人は、グリーフのもたらす苦しみを抱えながらも、例えば故人が担っていた家事を担うといった生活の変化に適応せざるを得なくなったりします。また、故人が地域社会で担っていた役割を自分が担うようになって、地域における新たな関係性ができたりもします。それでも、時々どうしようもなく泣けてきて、気分が落ち込んだりすることもあるでしょう。

テキストでも紹介した二重過程モデルが示しているように、グリーフを抱える人は、喪失志向と回復志向の間を行きつ戻りつ揺らぎながら、物理的には故人がいなくなってしまった世界にだんだんと適応していき、心理的、精神的には、自分の生活の中にいつかグリーフに居場所を与えて、グリーフと折り合いをつけていくのです。

 

 

 

グリーフサポートの重要性と実践(グリーフサポートと死生学第1回) #放送大学講義録

朗読の部分はあるが、あくまで大意であるのに注意されたい。

 

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では、グリーフを抱える人々を、私たちはどのようにサポートしていけばよいのでしょうか。サポートのあり方は、そのサポートを必要とする人々が抱えるグリーフをサポートする側がどのようなものだと考えているかによって変わってきます。

死別体験者にグリーフがもたらす苦難を想像するとき、一刻も早くその苦難から解放されることを願って、その人にグリーフを乗り越えてほしい、克服してほしいと思うことはないでしょうか。そのように思うとき、私たちはグリーフを克服し、解消すべきものと考えており、死別体験者自身もそうした考え方を内面化していることがあり、早く悲しみを乗り越えなければならないと口にすることがあります。

基本的にグリーフは克服し解消すべきものという考え方は、テキスト第1項第3節で紹介したグリーフをプロセスとして捉えるいくつかのモデルのうち、フロイトの喪の作業の考え方をベースとしたグリーフワークモデル、それからボウルビィやキューブラー・ロスの段階モデル、位相モデル、そしてウォーデンの課題モデルなどに見られます。

ただ、グリーフを抱える当事者からすると、「この世にあの人はもういない」と頭では分かっていても、まだまだ心や体が同じようにその事実を受け止められないということが多いのではないでしょうか。また、グリーフは苦しいけれど、グリーフがあるからこそ故人との繋がりや絆を今でも感じられると考える方もおられるのではないでしょうか。

仏教哲学者であり、民芸運動の創始者である柳宗悦は、30代で最愛の妹を失いました。その体験を基に「妹の死」と題する小論を書きました。この小論は日本民芸館監修の『ちくま学芸文庫 柳宗悦コレクション3』に収められています。ここで、その一節の朗読をお聞きください(なお大意であることに注意)。

おお悲しみよ、我らに降りかかりし寂しさよ。今にして私はその意味を解き得たのである。おお、悲しみよ。悲しみがなかったなら、こうも私は妹を思わないであろう。愛を思い、生命を思わないであろう。悲しみにおいて妹に会えるならば、せめても私は悲しみを傍ら近くに呼ぼう。悲しみこそは愛の絆である。おお、死の悲哀よ。悲しみよりより強く生命の我を燃やすものがどこにあろう。悲しみのみが悲しみを慰めてくれる。寂しさのみが寂しさを癒してくれる。涙よ、尊き涙よ、御身に感謝する。我をして再び妹に会わせてくれるものは御身の力である。

悲しみ、寂しさ、涙といったグリーフがあるからこそ、柳は故人となった妹と今でも、そしてこれからも共にいられる、繋がっていられると言います。柳にとってグリーフは、自分が妹をどれだけ深く愛しているのかを気づかせてくれる証であり、妹との絆であって、乗り越え、解消すべき対象ではありません。

 

 

 

喪失体験とグリーフサポートの重要性(グリーフサポートと死生学第1回) #放送大学講義録

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さて、お気づきの方もおられるでしょうが、ここまで私はグリーフサポートの対象者を喪失体験者と呼んできました。皆さんの中には、なぜ死別体験者ではなく喪失体験者なのだろうと疑問に思った方もおられるかもしれません。

日本ではグリーフを死別悲嘆と訳すこともしばしばあり、グリーフを抱えるのは死別体験者のみであると前提してしまうことが多いように思います。しかし、テキスト第1節第1項で説明したように、グリーフは死別だけでなく、あらゆる喪失体験によって生じ得る反応です。例えば、テキスト第8項「曖昧な喪失とグリーフ」では、行方不明による離別や、コロナ禍で学校に行けない、友達と会えないという機会喪失の体験がグリーフをもたらす例が挙げられています。

死別体験は、こうした多様な喪失体験の1つでしかないのですが、グリーフをもたらす主要な喪失体験であるとは言えるでしょう。ただ、死別体験者という表現は、馴染みのある日本語とは言えません。これは英語で死別で残されたものを意味する「ザ・ビリーブド」(bereaved)という単語の訳語の1つで、他にも死別経験者とか、単に死別者とか、あるいは遺族といった訳語もありますが、今のところ定訳がありません。

死別とは、死によって自分と関わりのある存在を失う経験のことですから、死別喪失の経験者を意味する死別経験者という訳語は適切であると思います。ただ、大切な人と死別した方々から私がお話を伺う中で、自分と同じ状況になってみないとわからない、つまり、大切な人との死別を身をもって経験してみないと理解できるものではないという趣旨の発言を耳にすることがしばしばありました。この死別を身をもって経験するというニュアンスをしっかりと伝えるには、死別体験者の方がより的確かと考えて、個人的には、死別経験者という訳語よりも適していると思います。

なお、グリーフサポートについて書く際には、以前は死別者という表記をしばしば採用していました。この死別者という表記は、人口統計学で配偶者と死別した状態にある夫や妻を指して使われることがあります。ただ、一般の方々に対して死別者という言葉を使った時に、それが死別を体験した当人ではなく、死別させた側を指していると誤解されてしまうことが時々ありました。そのようなわけで、個人的に死別者という表記は現在ほとんど使っていません。

ザ・ビリーブドの訳語として、皆さんにとって最も馴染みのある表現は、やはり遺族でしょう。一般的な用語ですし、医療でもその内容を具体的に知らなくても、遺族ケアという言葉は広く認知されていると思います。本科目でも第10回講義で、グリーフへの専門的対応の1つとして、国内のいくつかの医療機関で開設されている遺族外来を紹介しています。しかし、この遺族という言葉は、ザ・ビリーブドの訳語としては実は適切ではありません。なぜなら、遺族は死別により残された者を親族に限定しているのに対して、ザ・ビリーブドは死別で残された者一般を指す言葉であり、そうした限定をしていないからです。

遺族ケアや遺族外来を字義通り厳密に捉えると、グリーフを抱えてたとえどんなに大きな苦難に直面していても、その人が親族でなければケアや支援を受けられません。ただ、引用文献に挙げた2022年出版の遺族ケアガイドラインでは、遺族ケアを死別に直面した人々への援助や支援と説明しています。また、遺族についても、重要な他者と呼ばれるような人を失った恋人や友人、知人なども深い悲嘆を経験するため、死別を経験するのは遺族だけではないと注意書きが付されています。

ですので、実際には遺族ケアの対象を親族に限定しない柔軟な運営がなされているのかもしれません。とは言っても、法的に認められた親族こそが個人と最も親密な関係にあり、従って死別によるグリーフの影響が最も大きいという前提を、遺族という言葉から拭い去ることは難しいのではないでしょうか。

いずれにしても、グリーフサポートの対象は、遺族に限定されないあらゆる死別体験者ないし喪失体験者であることを、私たちは明確に認識する必要があります。

 

 

 

グリーフケアとグリーフサポートの違い(グリーフサポートと死生学第1回) #放送大学講義録

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では、グリーフという用語を使う理由は分かったとして、なぜグリーフケアではなくグリーフサポートなのでしょうか?テキスト第2節第1項「グリーフケアを包含するグリーフサポート」でも解説したように、日本ではグリーフケアという表記の方が一般的に普及しています。それにも関わらず、本科目でグリーフサポートという表記を採用した理由は、ケアを包括する大きな概念としてサポートを捉えているからです。

グリーフがその体験者にもたらす苦難に対して、カウンセリングによる心のケアや薬の処方による身体的不調のケアだけで十分かと言えば、そうではないことはもう皆さんお分かりだと思います。こうしたいわゆる医療的ケアだけでは、グリーフによる孤立や引きこもりといった社会的な苦しみや、生きる意味の喪失や信仰心の揺らぎといったスピリチュアルな苦しみ、いわゆるスピリチュアルペインに対応できず、社会的サポートや第12回講義で解説する宗教的サポートが必要です。

また、ケアとは単に他者を気遣う、世話する、介護する、看護するという行為を指し、その担い手は専門職に限定されるものでは本来ありませんが、現代日本ではケアの担い手イコール医療・福祉の専門職という連想がされやすいように思われます。しかし、グリーフがもたらす苦難への対応は専門職しかできないものではなく、かえってケアの専門的な知識や経験のない当事者の方が、当事者同士であるが故に、より適切に対応できる場合も多々あります。そして、この場合の対応は第13回講義で紹介するセルフヘルプグループがそうであるように、当事者同士で語り合い、苦しみを分かち合い、助け合うといった、互いをケアするというよりも支えるといったサポートが中心になっています。

テキスト第1節第4項にある通り、グリーフは基本的に、人間であれば誰もがいつかは直面する喪失体験に伴って生じる自然な反応であって、大方の人はセルフケアや周囲からのサポート、あるいはセルフヘルプグループやサポートグループによるサポートで、苦しいながらも社会生活を続けていくことができます。ただ、中には社会生活が立ち行かなくなるような、グリーフ第5回講義で紹介する複雑性悲嘆を抱えてしまい、医療専門職による治療的介入といった医療的ケアが必要になる人もいます。ですが、大多数の喪失体験者は、そうした専門的介入やケアを必須とせず、多様なサポートを活用しながら生きています。

以上のことから、グリーフへの対応を総合的に捉える大枠としては、グリーフケアよりもグリーフサポートという名称の方が適切なのではないかと私たちは考えました。しかし、だからといってグリーフケアという捉え方が不要であると考えているわけではありません。そもそもグリーフケアは医療的ケアに限定されるものではありませんし、苦しんでいるあなたを大切に思い、お世話したいというケアの精神がベースにあるからこそ、重いグリーフに打ちのめされて苦しんでいる人に手を差し伸べ、自分の足で再び立ち上がり歩いていこうとする喪失体験者に寄り添いながらサポートできるのではないでしょうか。要するに、グリーフケアはグリーフサポートの基盤であり、両者は喪失体験者の苦難に応じる上で、ともに重要で不可分な関係にあると言えます。

 

 

 

 

 

グリーフサポートとは何か(グリーフサポートと死生学第1回) #放送大学講義録

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初回である今回は、テキスト第1章のタイトルにある通り、グリーフサポートとは何かについて解説します。皆さんはこの科目を受講する前からグリーフサポートという言葉をご存知でしたでしょうか。今回初めて知ったという方もおそらくいらっしゃると思います。中にはグリーフサポートではなくグリーフケアなら知っているという方もおられるかもしれません。

グリーフサポートという用語は、英語の「グリーフ」と「サポート」という2つの単語からなり、漢字の日本語に訳せばそれぞれ「悲嘆」と「支援」になります。ならば、なぜ「悲嘆支援」と言わずにグリーフサポートというカタカナ外来語をわざわざ使うのでしょうか。

その理由は、グリーフという語の定義の仕方にあります。テキスト第1章第1節第1項「喪失体験に起因する多様な反応の総体」に記したように、グリーフとは大切な人や物を喪失することで起きる様々な情動的反応であると定義されます。中心的な反応は悲嘆といった心理的反応ですが、それに限定されるわけではありません。例えば、大切な人との死別後に悲しみも怒りも何も感じなくなる無感覚といった心理的反応や、食欲が極端に減ってしまうといった身体的反応、また、がむしゃらに仕事に打ち込むなどのいわゆる過活動状態になるといった社会的反応、さらに、生きる意味が見出せなくなってしまうといったスピリチュアルな反応もグリーフに含まれます。つまり、悲嘆という特定の心理的反応に限定されない多様性があることが、グリーフという用語には含意されています。

このようなわけで、日本では特に研究者、臨床家、実践家を中心に、悲嘆と訳さずにグリーフという英語をそのまま使うことが多くなっています。

 

 

 

高齢者の心理支援と回想法(発達心理学特論第14回)#放送大学講義録

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さて、回想法(レミニッセンス)やライフレビューは、アメリカの精神科医ロバート・バトラーによって創出された心理療法の一つです。バトラーは老年期の特性に特に着目しました。

老年期において、過去にしがみついていると否定的に捉えられることがありますが、バトラーは語ることを通して自分の人生を回想し、振り返り、再整理することで、抑うつ状態を解消できるとしました。

回想法やライフレビューは、回想や振り返りの行為を通して自分の過去体験の意味付けを捉え直すことにより、それまで否定的であった人生を肯定的に捉え直すことを目指します。これは、老年期において自分の過去の人生を否定的に捉え、絶望していた人が、自分の人生を肯定的に捉え、統合に進む支援を行うことでもあります。

回想法は、黒川由紀子らによって日本に導入されました。その際、主に認知症高齢者への支援技法として取り入れられました。認知症高齢者に対する回想法は、集団療法で実施されることが多く、メンバーと実施回数を固定した形が多く見られます。

その中で、初期と軽度の認知症患者を対象に精神科物忘れ外来で実施された集団回想法では、5名前後の患者に心理専門職が3名(リーダー、コリーダー、記録者)が入り、1回のセッションが約60分、全5回の構成で実施されていました。その心理的援助の意義は、病識の持てる軽度認知症の人という制約がありますが、疾患に伴う不安や喪失体験について、集団の中での回想を通じて語り合い、疾患を外在化し、自分らしさの喪失感やそれに伴う被害を参加者同士で共有できる場を提供し、疾患を抱える自分と向き合うことを支援するものでした。

ライフレビューは、主に個人療法として用いられます。ライフレビューの定型化した手法も提示されています。ライフレビューを用いた援助面接として、林智一は、末期の60歳の女性と、10年前に夫を亡くした69歳の女性のライフレビューによる個人心理療法を紹介しています。前者は、不安神経症と診断された悪性腫瘍による末期でした。週1回のベッドサイド面接が1年余り実施され、ライフレビューの過程で神経症状は増悪せず、安らかに息を引き取りました。後者は、クライアント自身が嫁姑問題を主訴として面接を受けましたが、約4年の面接経過で、10年間棚上げにしてきた夫の死に対する心の整理をライフレビューを通して行うことができ、再統合を促進しました。

林は、統合という課題は、ライフレビューの潜在的推進力であり、ライフレビューが究極的に目指すものであると述べ、ライフレビューは、自己の人生の肯定的側面と否定的側面の両面を踏まえて、自己の唯一のライフサイクルを受け入れていくことを可能にするとともに、ライフサイクルの連続性の中に自己を定義する機能も有すると指摘しています。回想法やライフレビューの心理療法に見られるように、集団援助や個人援助として、認知症に限らず、人生の統合期における高齢者への心理支援の必要性はさらに増してくるため、その知識と技能を磨くことが重要であると言えるでしょう。

 

 

 

老年期支援と認知症予防(発達心理学特論第14回)#放送大学講義録

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さて、ここまでは老年期の発達課題を概観してきました。老年期の心身の老化に対する支援としては、認知機能の低下に対応する認知リハビリテーションが挙げられます。また、エリクソンによる老年期の発達課題である統合対絶望、喪失体験とそれに伴う抑うつなどの老年期のメンタルヘルスに対しては、心理療法としての回想法が挙げられます。ここでは、この2つを取り上げて、心理職が行う老年期支援の役割を考えてみたいと思います。

老年期の認知機能の低下は、老化に伴う正常な老化と認知症に至る病的な老化が関係します。先に述べたフレイルは身体機能の低下に伴うものですが、フレイルと認知機能障害は共通の要因を有するとの指摘があります。老年期の機能障害の代表は認知症と言えるでしょう。

認知症という用語は、厚生労働省から通達された行政用語です。その前は痴呆と呼称されていました。英語ではデメンティアと表記されます。しかし、DSM-5からはデメンティアという呼称からニューロコグニティブディスオーダー(神経認知障害群)に変更されました。その診断基準は、認知領域において以前の行為水準からの有意な認知の低下があり、日常生活において認知欠損が自立を阻害することです。認知領域の障害は、複雑性注意、遂行機能、学習や記憶、社会的認知などが障害されることであり、それによって日常生活、社会生活に支障をきたし、他者の支援が必要になる状態です。

また、認知症の診断基準は満たしていないが、認知機能が正常とは言えない状態にあるものを軽度認知障害(MCI)と言います。MCIは認知症に移行する危険位置とされていますが、MCIの状態によっては30から40パーセントが認知機能が正常領域に改善、復帰しています。認知症の発症率は4パーセントから20パーセントで、認知症予防のための認知機能低下予防及び改善の取り組みの重要性が指摘されています。

認知症予防としての認知的介入による支援は、健常高齢者への介入の場合、近年、国立長寿医療研究センターが開発した運動と認知課題(計算や距離など)を組み合わせたコグニサイズがあります。効果については、MCI高齢者に対し、6か月間、週2回、1回90分、計40回の介入を実施し、対象群との介入前後の認知機能の変化を検討した結果、介入群で認知機能の低下を抑制する可能性が示唆されました。この評価には、ウェクスラー記憶検査が使用されていました。

認知症予防の介入は、例えばアメリカの健常高齢者への介入のように、ランダム化比較試験(RCT)により大規模かつ長期的な介入研究が求められています。それは、認知症予防の効果評価の難しさにも関連すると言えます。認知症予防における心理専門職の役割はまだこれからと言えます。研究面では、効果評価は認知機能や記憶機能を評価する心理検査によるので、その実施者としての役割が生じます。一方、これまで個人援助面接が中心であった心理専門職にとって、健康な高齢者の集団に関わる支援には、個別支援とは異なる技能と経験が必要になると言えるでしょう。