F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

弊店の営業再開。

マスコミでも大々的に報道されているからご存知の方も多いだろうけど、大阪府に発出されている緊急事態宣言が今月20日まで延長になり、百貨店などの商業施設に対す要請内容も変更になった。具体的には土日の営業を休止するよう要請されることに(「生活必需品」なるcategoryに入るとされるものは別)。なので私が働く百貨店も平日は営業することになり、弊店も営業を再開した。先に書いた通り土日は営業できないが、それでも売上が出るのは嬉しいものがある。もちろんお客様が多く来店されると張り合いが違う。まあレジやお問い合わせで忙しくもなるけど、暇を持て余すよりマシである。営業再開のアナウンスannounceもなかなか出来なかったので、客足が鈍いのではと考えていたけど、予想が外れるのはもちろん良いこと。まあ人の流れが増えるから感染拡大に繋がらないかは不安でもあるけれど。

編集者漱石(1)編集者子規(放送大学特別講義)

正岡子規の作品は俳句でも短歌でも触れる機会が殆どないけれど、様々な人間に決定的な影響を与えたのだろうと言える。

 

長谷川郁夫。作家と読者を繋ぐ。見えない読者に向けて制作している。どう読んでもらいたいか、どのように意図を。具体的に行動として示した最大の文学者が漱石。その側面から夏目漱石の足跡を。慶応3年の生まれ。明治と同じ。正岡子規との出会いが。同じ慶応3年。松山で生まれる。共に明治17年に東京大学予備門予科に。同窓になっていた。長いこと互いが言葉を交わすことがなかった。二人が交流を始めたのは明治22年。この年の5月に正岡子規は喀血する。見舞いに行ったりもする。少し前に正岡子規は漢詩文集を。同好の士を発見したと作品に感心する。回覧雑誌は手書きで一冊しか無い。巻末に批評を求めて紙を。漱石は感想を書く。それを読んで正岡子規は漱石の才能に感心する。感想文のところに漱石という名が。比喩的に誕生したと言える。漱石は七草集に感動した。単に内容だけに感心したのかと言えばそうではないと。人に作品を見せるために手間を掛けた行為に感銘を受けた。仮に紙切れに自分の作品を書いただけではなく、和綴じにしたことに。この年の8月に漱石は房総半島を旅行する。南房総から北上。漢文で記して9月に木屑録という作品にして同じように仕立てて感想を求める白紙をつけて子規に見てもらう。子規は激賞する感想を書く。決定的な才能を認め合う形で友人関係に。漱石全集に書簡集があるが、他の人は入らないくらいに。2人の競争するところを。大変な書き魔。書いていなくてはいられない。筆任せに子規は日記というか随筆と言うか。漢文の素質がある。子規は手ほどきを受け厳しい訓練を。漢詩の美しさに11歳から。漱石も予科の前の教養は漢文による。2人には志士的な気質が共通していた。明治維新というか、絶えざる革新を求める。その点で志士を思わせる気質が。端々に出てくる。独特なユーモア感覚が共通している。人を引きつける人間的魅力を。子規の場合。早熟な少年。初山学校から松山中学に。12歳から16歳の間に。松山雑誌など8種の回覧雑誌を。友人たちに見せる。全部の記事を書いたようなものも。原稿を自分で筆写して閉じあわせて雑誌を。感想用の白紙も。子規の場合は社長や書記長などを兼務。今で言う小学校6年制のとき、2つ上の少年の経験。子規が書いているのを窓から見ていた。聞いたことや見たことを面白いかどうかを判断して文章にして回覧する。かなり少年編集者ぶりを。立派な?そういう少年。子規の場合は哲学科から国文科に。25年に退学。陸羯南の「日本」を活躍の場に。革新を目指して。明治24年には漱石に俳句を伝授して互いに励む。明治30年にホトトギスを発刊。33年には写生文の。文章には山が必要と、学生時代に漱石は子規と一緒に関西旅行に。松山にも寄る。漱石については。横浜の英字新聞を志望して応募するが不採用に。送った英文の記事が送り返されたことに腹を立てた。癇癪持ち。漱石の水先案内人のように。実は松山中学校に漱石は就職する。嘱託講師に。やがて五高の教授に。それにも。勿論松山には喜んで。子規が育った風土に関心が。なかなか上手く松山という土地に馴染めなくて五高に。子規と同宿。漱石はお見合いのために上京。子規も東京に居た。子規の家で森鴎外に2人で会う。漱石も俳句づくりに励む。漢文趣味。和製の漢文趣味。明治の新しい表現。脱却を図る。俳句を共にやったのは良いこと。漢詩もそうだが俳句も省略の文学。良いステップに。子規は俳句の革新に運動として。漱石は散文へ。この段階では小説家であるというわけではない。書簡は文学論などを。小説の入り口には居ないが。五高のときも俳句に。教え子とも親しい関係に。寺田寅彦など。
明治33年に東京を出て10月にロンドンに。ビクトリア女王の最後の時期。ロンドン時代の書簡には愚痴ばかり。文部省からの金が少なくてほしい本も買えないなど。オックスフォードにもケンブリッジにも見学しかしない。自宅に籠城。古本も新刊もロンドン。大学に聞きに行くよりも書籍を読んだほうが早道。下宿籠城主義。ロンドンの滞在は大きな意義が。アール・ヌーヴォーとの接触。葬式の手帳。芝居を見に行き。エリオットの家などを見る。モリスの書籍も何冊か読む。漱石の蔵書として。漱石は元々美術好き。大変大きな影響を。アーサー王伝説を下敷きにしたものも。最盛期にロンドンで過ごしたのは大きい。漱石はロンドン時代に文学論を構想する。一種の文学について自分の考えを。英文学を学んだこととして。日本人として文学を研究するには。漱石の卒論にあたるもの。ロンドンでの暮らし。正岡子規の死の影の下にあった。感動的なのは明治34年の1月の日記に。ホトトギスが来て子規は健在と。子規は子規の手紙で互いに二度と会うことはないことを確認している。自分のロンドン滞在中に子規は死ぬことはわかっていた。喜びであると同時に生きているかどうかを考えていた。高浜虚子と約束して倫敦消息という記事をホトトギスに。慰めるつもりで。子規を読者として想定する。35年の12月付の高浜虚子への手紙。出発の当時より生きて面接することはないと。今更驚きはない。ただ気の毒と。早く往生するのが幸せ。子規の訃報に接して。正岡子規は明治35年の9月に亡くなる。その前に大きな仕事を。場合により口述筆記を。墨汁一滴や仰臥漫録を。病状録爵位を。漱石は子規にあてて手紙で教師をやめて文学的生活を。文学三昧に。実はホトトギスに関して。漱石は高浜虚子に。明治32年。ロンドンに行く前。12月11日の虚子あてに。愚見を。同人間の雑誌ならともかく。天下を相手にする限りは予定通りに。慰み半分になってしまう。頗る無責任としか。楽屋落ちの話も天下を相手にするにはどうか。品格が下がってしまうと苦言を。
子規の存在が漱石には大きかった。木屑録を。体裁から何から子規のマネを。それをしながら漱石の作家としての形成を。Londonから帰って作家として。文学者漱石が作家になってからの。正岡子規との出会い。Londonに行ったこと。迫りくる子規の死の影で。漱石と子規の関係は厳しいもの。子規が俳句や短歌の革新に苦しんでいたのかは漱石が1番知っていた。子規の苦しみを知るので自分も厳しく英文学に。子規は大きく成長し大きな仕事を。漱石はまだ作家になっていない。だからといって何もしなかったわけではない。子規と同等のものを経験していた。漱石の文学論という仕事が卒論であった。命懸けの仕事であった。子規と同様に。漱石は既にして小説を書く前に完成した小説家になっていた。成熟した文学者であったと思う。たまたま留学が終わる前に子規は亡くなるが、漱石も完成した作家に。Londonの経験は不幸な面はあるが、苦しまなければならなかった。次回は作家編集者として独り立ちした漱石が、子規のその後を漱石は生きたと。漱石信者には叱られそうだが。裏書きした資料も幾つかある。

 

編集者 漱石

編集者 漱石

  • 作者:長谷川 郁夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/06/29
  • メディア: 単行本
 

 

教訓。

私の出身高校の先輩(と言っても旧制中学ということになるが)に経済評論家の長谷川慶太郎先生が居る。既に鬼籍に入られたけど。先生は旧制中学の在学時に日本の敗戦を経験して、なぜ破れたのかを元軍人に何人も聞きに行き、その経験が経済評論家の基盤を作ることになったと語っている。明治維新からの日本の歴史では戦争を何度も経験して、結局は対米戦争に至り国土が焼け野原になってしまった。それから様々な教訓を引き出すことが出来るはずでありしなければならない。まあ正反対の教訓が導き出されることがあるけれど。様々な書籍があるが勧められる2冊を末尾に挙げておきたい。それにしてもオリパラに突き進む指導者層は、まともに歴史を学べていないのだろうか疑問を抱く。

 

 

 

 

新築工事に際しての氏名の掲示。

昨日も触れたが、ある一軒家と思しきところで「誰々家解体工事」などと表示がされているのを見つけた。もしかしたら解体した場所に新たな一軒家を建てるのかもしれない(もしくは他の用途の建物かも)。別の場所では御夫婦と思しき二人の名前が提示されているのも見かける。氏名を掲げるにあたっては、工事業者は本人に確認を取った上で行なっているのだろう。しかし恩に着せるような形だと断りづらいのでは。後は公然と氏名を掲示すると、他の業者がコピペしてダイレクトメールがどんどん届くのではないかと思う。それで済めば良いが、悪徳業者にロックオンされる可能性もある(実際に何度か襲われたことがある)。まあ一軒家を建てるのは一生に一度のことであるから自分の氏名を掲げたいのは分かるような気もするけれど。

私、あきらめない!~車いす女優・萩生田千津子の原点~(放送大学特別講義)

元々からしてpositiveな女優さんだったのではないかと思う。まあ俳優というものはpositiveでないと務まらないのは高校の同級生を見ても思うけれど。

 

車椅子女優の萩生田千鶴子。原点。萩生田千鶴子さんの朗読。民話。雨ニモマケズ。宮沢賢治。いつも静かに笑っている。あらゆることを自分を勘定に入れずによく考え忘れず。47年生まれ。山形県出身。両親とも学校の先生を。兄と妹が。何でも出来て当たり前という雰囲気で。女優を目指す。小さい頃は?目立ちたいと言うよりも鬼金棒だった割に人に出ると引っ込み思案。歌ったり踊ったりするのが苦手。小3の頃の学芸会で緊張のあまり気絶する。間違ってはいけないと何処かで思う。笑われるかもしれないという脅迫観念。先生の子供は出来て当たり前と言われて間違ってはいけないという目の中で大人になった。女優になりたいと。恥ずかし屋や照れ屋を克服したいと。劇団があって学校に来て実演してくれた。初めてこういう世界があるんだと。きれいで歌が上手で踊りが上手くて。はたと気がついて。どういう人達なのだろうと。楽屋に行ったら普通の人たち。何故違う人に見えた?色んなものを身につければ違う人になれると気づく。変身願望がムクムクと湧いてきた。家族や友人に話せば笑われた。当時は東北の片田舎でTVも無い時代にまだ閉鎖的な感覚もあったしマスメディアも浸透していない。友達たちは褒められるが。医者になりたいとか看護婦とか。役者になりたいと言うと変に言われて落ち込む。持ち上がったら凹んでしまったが中学校まで頑張る。東京に行き役者になると言ったら、何故と聞かれ、自分を表現したいと。才能があると自分で思っているなら高校に行っても遅くはないと。高校だけは行くことに。その代わり演劇部の活動な学校を選ぶ。とりあえず。
地元の高校を卒業後、文学座附属研究所を。翌年に再挑戦。30倍をくぐり抜け第7期生に。5年の養成機関を経て68年に文学座に入団。試験は?筆記試験。文学的な常識的な。作品やアクセント。飴と雨の違い。音感テストや朗読。パントマイム。これらが一次試験。見事に落ちる。聞きに行った。30年以上が受かるのに。研究所の管理している先生に。言葉に訛りがあるから問題。粘ったけどだめ。言葉を直してからと言われる。訛っていては大抵は無理だと言われたが、矯正する専門の学校に1年間通う。親や友達とも話すなと言われる。翌年訛りを取って合格する。女優になったつもりに。入っただけで大きな舞台に立てると。杉村春子という有名な女優が文学座の中心に。あまりにも身近に居るのが不思議な感じがした。存在感。オーラ。結局後で4年付き人をすることに。人間をよく見ている。そこを叩き込まれる。失敗して諭される。いつもあることはきょうあるとはかぎらない。いつもないことがきょうもないとはかぎらない。東北の方言を大切にした作品も今は。入ってからは訛りが注目を。長岡輝子の宮沢賢治の朗読の授業。永訣の朝という詩を。トシコの言う言葉。セリフがある。読み終えたら褒められた。朗読が上手いと?訛りは何処で覚えてきたの?と言われる。それは大事な財産で宝物。無くしては駄目よと。今度は無くすなと。何これ?と戸惑うが、今の仕事に活かされている。小学校3年生の時のわらび座の舞台から。女優になったとき、どのように変身願望を実現して演じる醍醐味を?私の中に無いと出来ない。自分自身から引っ張り出す。自分の新しい面を見出す。普段では言わないことが舞台なら出来る。しかし自分の中にないと出来ない。ダブルキャスト。全く違うものになる。それぞれの中のものは同じではない。凄い世界と。役者によっては全く違うものに。いろいろな役をやったが、ロミオとジュリエットのナースの役を最初に。おばあさんじゃないからおばあさんの役をやりたいと。主役をやりたくないとは言わないが、全く自分ではない存在の役をやりたいと。やりたい役が来て嬉しかった。24歳の頃。遊んでくれと言われる。アトリエ公演から。お客様が声を聞いてまさか姥をやってた人とびっくりされる。それが面白いと。普段が稽古の場。20キロを片手に担いで。無人の客席にありがとうと。魂をそこに置くくらいでやれと。以降も様々な作品に出演。一方でTVや映画にも。キャリアを積み重ねる。詩を。「涙」。悲しくても面白くても苦しくてもおかしくても出る。悔しくても。なんで一つ一つ違うのか。塩辛さが違うのだろう。涙は私の親友。生きていることのご褒美。味。
私生活では28歳で結婚。2人の娘を。しかし34歳で離婚。一人で育てることを。文学座を休んで子育てに多忙に。3年間は3歳までには一緒に。育児休座を。一人と二人とで違う。初めて大変なのは育児なのだと。片手間には出来ないと。不慮の事故が襲う。夏に車で山形に帰省。戻る際に心臓発作に。82年8月21日。疲れていると思っていたが、子供の幼稚園の母の会の会長をしているので花火大会の一日前に帰りたいと。その時に上手くいっていた子どもたちが夜中に起きてくる。疲労のピークに。夜中の運転。一緒に走り回る。子供は元気で。身体にかなり無理が来ていた。走っているうちにそれが災いして心臓の発作が。エアコンが妙に冷たく感じて冷や汗が出てきて。子供は寒くないと。そこまではゆらゆらとして記憶があったが、側におこうとすると記憶がなくなる。証言でわかったが、目の前のトラックに追い越しをかけてトラックの目の前に出て。かなりスピードがあったのでスピンして3回転して終わり。2人の子供は無事だったが、中枢神経を痛める。肩から下は感覚がない状態。血を流していても分からない。医師が感覚があるなしを判定するが分からない。境目を知りたかったらしい。感覚がない感覚は分からない。歯医者で麻酔をしたようなことが前進に。正座でしびれる前の状態が全身に。目を覚ましたら一生寝たきりと。そんな馬鹿なと思ったが。絶望感というのは全く無かった。そんなことは起こり得ないと。感覚がなくなるとか想像もしていない。いつか戻るだろうと思っていた。寝たきりだと言われても落胆は?先に悪いことを言っていて、良くなったら医師の力と言う?首の骨を折る。屈折しているので取るのは無理と。まだ実感としてなかった。手首から先はブラブラ。一生歩けないと言われて。威勢の良い患者が入ったから看護師に見てこいと。大抵の患者は茫然自失になるか泣き伏すかに。本当に歩いて帰ると思っていた。舞台に戻ることを諦めなかった。

 

教育。

昨年の春からのコロナ禍は様々に大きな影響を社会に与えているが、それは教育分野に於いても同様である。昨春の2月の遅い時期に、3月から学校を休校にするという指示が出て、教育現場は大混乱に陥った。一口にオンライン教育というが様々な準備が必要である。私の出身高校では最終的にはGoogle Classroomというプラットフォームplatformを導入している。勿論オンライン教育は初めてなので試行錯誤したと思われる。結局は6月になると対面授業の形式に戻っている。しかしながら体育祭が中止になるなど影響は小さくない。というか体育祭が行なわれないのは驚天動地の事態である。今年は行なわれるのを願うしか無い。

宅地のネタ2つ。

時々しか通らない道というのは自宅の近辺に於いてもある。昨日にそんな道を通りがかると、宅地の整地をしたらしき場所が。

f:id:F-name:20210530060253j:image

一軒家が6軒ほど建てられそうである。少し奥に入ると低くなるが、元々そういう土地なのだろう。まあ業者としては勝負をかけているのかもしれない。

更に違う場所を通ると、家屋の解体工事をしている。それは珍しく無いのだが、「誰々家解体工事」と書かれている(流石に写真は撮れなかったが)。この種の工事で表示がされているのは初めて見る。続けて新しい一軒家でも建てるのだろうか。