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私、あきらめない!~車いす女優・萩生田千津子の原点~(放送大学特別講義)

元々からしてpositiveな女優さんだったのではないかと思う。まあ俳優というものはpositiveでないと務まらないのは高校の同級生を見ても思うけれど。

 

車椅子女優の萩生田千鶴子。原点。萩生田千鶴子さんの朗読。民話。雨ニモマケズ。宮沢賢治。いつも静かに笑っている。あらゆることを自分を勘定に入れずによく考え忘れず。47年生まれ。山形県出身。両親とも学校の先生を。兄と妹が。何でも出来て当たり前という雰囲気で。女優を目指す。小さい頃は?目立ちたいと言うよりも鬼金棒だった割に人に出ると引っ込み思案。歌ったり踊ったりするのが苦手。小3の頃の学芸会で緊張のあまり気絶する。間違ってはいけないと何処かで思う。笑われるかもしれないという脅迫観念。先生の子供は出来て当たり前と言われて間違ってはいけないという目の中で大人になった。女優になりたいと。恥ずかし屋や照れ屋を克服したいと。劇団があって学校に来て実演してくれた。初めてこういう世界があるんだと。きれいで歌が上手で踊りが上手くて。はたと気がついて。どういう人達なのだろうと。楽屋に行ったら普通の人たち。何故違う人に見えた?色んなものを身につければ違う人になれると気づく。変身願望がムクムクと湧いてきた。家族や友人に話せば笑われた。当時は東北の片田舎でTVも無い時代にまだ閉鎖的な感覚もあったしマスメディアも浸透していない。友達たちは褒められるが。医者になりたいとか看護婦とか。役者になりたいと言うと変に言われて落ち込む。持ち上がったら凹んでしまったが中学校まで頑張る。東京に行き役者になると言ったら、何故と聞かれ、自分を表現したいと。才能があると自分で思っているなら高校に行っても遅くはないと。高校だけは行くことに。その代わり演劇部の活動な学校を選ぶ。とりあえず。
地元の高校を卒業後、文学座附属研究所を。翌年に再挑戦。30倍をくぐり抜け第7期生に。5年の養成機関を経て68年に文学座に入団。試験は?筆記試験。文学的な常識的な。作品やアクセント。飴と雨の違い。音感テストや朗読。パントマイム。これらが一次試験。見事に落ちる。聞きに行った。30年以上が受かるのに。研究所の管理している先生に。言葉に訛りがあるから問題。粘ったけどだめ。言葉を直してからと言われる。訛っていては大抵は無理だと言われたが、矯正する専門の学校に1年間通う。親や友達とも話すなと言われる。翌年訛りを取って合格する。女優になったつもりに。入っただけで大きな舞台に立てると。杉村春子という有名な女優が文学座の中心に。あまりにも身近に居るのが不思議な感じがした。存在感。オーラ。結局後で4年付き人をすることに。人間をよく見ている。そこを叩き込まれる。失敗して諭される。いつもあることはきょうあるとはかぎらない。いつもないことがきょうもないとはかぎらない。東北の方言を大切にした作品も今は。入ってからは訛りが注目を。長岡輝子の宮沢賢治の朗読の授業。永訣の朝という詩を。トシコの言う言葉。セリフがある。読み終えたら褒められた。朗読が上手いと?訛りは何処で覚えてきたの?と言われる。それは大事な財産で宝物。無くしては駄目よと。今度は無くすなと。何これ?と戸惑うが、今の仕事に活かされている。小学校3年生の時のわらび座の舞台から。女優になったとき、どのように変身願望を実現して演じる醍醐味を?私の中に無いと出来ない。自分自身から引っ張り出す。自分の新しい面を見出す。普段では言わないことが舞台なら出来る。しかし自分の中にないと出来ない。ダブルキャスト。全く違うものになる。それぞれの中のものは同じではない。凄い世界と。役者によっては全く違うものに。いろいろな役をやったが、ロミオとジュリエットのナースの役を最初に。おばあさんじゃないからおばあさんの役をやりたいと。主役をやりたくないとは言わないが、全く自分ではない存在の役をやりたいと。やりたい役が来て嬉しかった。24歳の頃。遊んでくれと言われる。アトリエ公演から。お客様が声を聞いてまさか姥をやってた人とびっくりされる。それが面白いと。普段が稽古の場。20キロを片手に担いで。無人の客席にありがとうと。魂をそこに置くくらいでやれと。以降も様々な作品に出演。一方でTVや映画にも。キャリアを積み重ねる。詩を。「涙」。悲しくても面白くても苦しくてもおかしくても出る。悔しくても。なんで一つ一つ違うのか。塩辛さが違うのだろう。涙は私の親友。生きていることのご褒美。味。
私生活では28歳で結婚。2人の娘を。しかし34歳で離婚。一人で育てることを。文学座を休んで子育てに多忙に。3年間は3歳までには一緒に。育児休座を。一人と二人とで違う。初めて大変なのは育児なのだと。片手間には出来ないと。不慮の事故が襲う。夏に車で山形に帰省。戻る際に心臓発作に。82年8月21日。疲れていると思っていたが、子供の幼稚園の母の会の会長をしているので花火大会の一日前に帰りたいと。その時に上手くいっていた子どもたちが夜中に起きてくる。疲労のピークに。夜中の運転。一緒に走り回る。子供は元気で。身体にかなり無理が来ていた。走っているうちにそれが災いして心臓の発作が。エアコンが妙に冷たく感じて冷や汗が出てきて。子供は寒くないと。そこまではゆらゆらとして記憶があったが、側におこうとすると記憶がなくなる。証言でわかったが、目の前のトラックに追い越しをかけてトラックの目の前に出て。かなりスピードがあったのでスピンして3回転して終わり。2人の子供は無事だったが、中枢神経を痛める。肩から下は感覚がない状態。血を流していても分からない。医師が感覚があるなしを判定するが分からない。境目を知りたかったらしい。感覚がない感覚は分からない。歯医者で麻酔をしたようなことが前進に。正座でしびれる前の状態が全身に。目を覚ましたら一生寝たきりと。そんな馬鹿なと思ったが。絶望感というのは全く無かった。そんなことは起こり得ないと。感覚がなくなるとか想像もしていない。いつか戻るだろうと思っていた。寝たきりだと言われても落胆は?先に悪いことを言っていて、良くなったら医師の力と言う?首の骨を折る。屈折しているので取るのは無理と。まだ実感としてなかった。手首から先はブラブラ。一生歩けないと言われて。威勢の良い患者が入ったから看護師に見てこいと。大抵の患者は茫然自失になるか泣き伏すかに。本当に歩いて帰ると思っていた。舞台に戻ることを諦めなかった。