正岡子規の作品は俳句でも短歌でも触れる機会が殆どないけれど、様々な人間に決定的な影響を与えたのだろうと言える。
長谷川郁夫。作家と読者を繋ぐ。見えない読者に向けて制作している。どう読んでもらいたいか、どのように意図を。具体的に行動として示した最大の文学者が漱石。その側面から夏目漱石の足跡を。慶応3年の生まれ。明治と同じ。正岡子規との出会いが。同じ慶応3年。松山で生まれる。共に明治17年に東京大学予備門予科に。同窓になっていた。長いこと互いが言葉を交わすことがなかった。二人が交流を始めたのは明治22年。この年の5月に正岡子規は喀血する。見舞いに行ったりもする。少し前に正岡子規は漢詩文集を。同好の士を発見したと作品に感心する。回覧雑誌は手書きで一冊しか無い。巻末に批評を求めて紙を。漱石は感想を書く。それを読んで正岡子規は漱石の才能に感心する。感想文のところに漱石という名が。比喩的に誕生したと言える。漱石は七草集に感動した。単に内容だけに感心したのかと言えばそうではないと。人に作品を見せるために手間を掛けた行為に感銘を受けた。仮に紙切れに自分の作品を書いただけではなく、和綴じにしたことに。この年の8月に漱石は房総半島を旅行する。南房総から北上。漢文で記して9月に木屑録という作品にして同じように仕立てて感想を求める白紙をつけて子規に見てもらう。子規は激賞する感想を書く。決定的な才能を認め合う形で友人関係に。漱石全集に書簡集があるが、他の人は入らないくらいに。2人の競争するところを。大変な書き魔。書いていなくてはいられない。筆任せに子規は日記というか随筆と言うか。漢文の素質がある。子規は手ほどきを受け厳しい訓練を。漢詩の美しさに11歳から。漱石も予科の前の教養は漢文による。2人には志士的な気質が共通していた。明治維新というか、絶えざる革新を求める。その点で志士を思わせる気質が。端々に出てくる。独特なユーモア感覚が共通している。人を引きつける人間的魅力を。子規の場合。早熟な少年。初山学校から松山中学に。12歳から16歳の間に。松山雑誌など8種の回覧雑誌を。友人たちに見せる。全部の記事を書いたようなものも。原稿を自分で筆写して閉じあわせて雑誌を。感想用の白紙も。子規の場合は社長や書記長などを兼務。今で言う小学校6年制のとき、2つ上の少年の経験。子規が書いているのを窓から見ていた。聞いたことや見たことを面白いかどうかを判断して文章にして回覧する。かなり少年編集者ぶりを。立派な?そういう少年。子規の場合は哲学科から国文科に。25年に退学。陸羯南の「日本」を活躍の場に。革新を目指して。明治24年には漱石に俳句を伝授して互いに励む。明治30年にホトトギスを発刊。33年には写生文の。文章には山が必要と、学生時代に漱石は子規と一緒に関西旅行に。松山にも寄る。漱石については。横浜の英字新聞を志望して応募するが不採用に。送った英文の記事が送り返されたことに腹を立てた。癇癪持ち。漱石の水先案内人のように。実は松山中学校に漱石は就職する。嘱託講師に。やがて五高の教授に。それにも。勿論松山には喜んで。子規が育った風土に関心が。なかなか上手く松山という土地に馴染めなくて五高に。子規と同宿。漱石はお見合いのために上京。子規も東京に居た。子規の家で森鴎外に2人で会う。漱石も俳句づくりに励む。漢文趣味。和製の漢文趣味。明治の新しい表現。脱却を図る。俳句を共にやったのは良いこと。漢詩もそうだが俳句も省略の文学。良いステップに。子規は俳句の革新に運動として。漱石は散文へ。この段階では小説家であるというわけではない。書簡は文学論などを。小説の入り口には居ないが。五高のときも俳句に。教え子とも親しい関係に。寺田寅彦など。
明治33年に東京を出て10月にロンドンに。ビクトリア女王の最後の時期。ロンドン時代の書簡には愚痴ばかり。文部省からの金が少なくてほしい本も買えないなど。オックスフォードにもケンブリッジにも見学しかしない。自宅に籠城。古本も新刊もロンドン。大学に聞きに行くよりも書籍を読んだほうが早道。下宿籠城主義。ロンドンの滞在は大きな意義が。アール・ヌーヴォーとの接触。葬式の手帳。芝居を見に行き。エリオットの家などを見る。モリスの書籍も何冊か読む。漱石の蔵書として。漱石は元々美術好き。大変大きな影響を。アーサー王伝説を下敷きにしたものも。最盛期にロンドンで過ごしたのは大きい。漱石はロンドン時代に文学論を構想する。一種の文学について自分の考えを。英文学を学んだこととして。日本人として文学を研究するには。漱石の卒論にあたるもの。ロンドンでの暮らし。正岡子規の死の影の下にあった。感動的なのは明治34年の1月の日記に。ホトトギスが来て子規は健在と。子規は子規の手紙で互いに二度と会うことはないことを確認している。自分のロンドン滞在中に子規は死ぬことはわかっていた。喜びであると同時に生きているかどうかを考えていた。高浜虚子と約束して倫敦消息という記事をホトトギスに。慰めるつもりで。子規を読者として想定する。35年の12月付の高浜虚子への手紙。出発の当時より生きて面接することはないと。今更驚きはない。ただ気の毒と。早く往生するのが幸せ。子規の訃報に接して。正岡子規は明治35年の9月に亡くなる。その前に大きな仕事を。場合により口述筆記を。墨汁一滴や仰臥漫録を。病状録爵位を。漱石は子規にあてて手紙で教師をやめて文学的生活を。文学三昧に。実はホトトギスに関して。漱石は高浜虚子に。明治32年。ロンドンに行く前。12月11日の虚子あてに。愚見を。同人間の雑誌ならともかく。天下を相手にする限りは予定通りに。慰み半分になってしまう。頗る無責任としか。楽屋落ちの話も天下を相手にするにはどうか。品格が下がってしまうと苦言を。
子規の存在が漱石には大きかった。木屑録を。体裁から何から子規のマネを。それをしながら漱石の作家としての形成を。Londonから帰って作家として。文学者漱石が作家になってからの。正岡子規との出会い。Londonに行ったこと。迫りくる子規の死の影で。漱石と子規の関係は厳しいもの。子規が俳句や短歌の革新に苦しんでいたのかは漱石が1番知っていた。子規の苦しみを知るので自分も厳しく英文学に。子規は大きく成長し大きな仕事を。漱石はまだ作家になっていない。だからといって何もしなかったわけではない。子規と同等のものを経験していた。漱石の文学論という仕事が卒論であった。命懸けの仕事であった。子規と同様に。漱石は既にして小説を書く前に完成した小説家になっていた。成熟した文学者であったと思う。たまたま留学が終わる前に子規は亡くなるが、漱石も完成した作家に。Londonの経験は不幸な面はあるが、苦しまなければならなかった。次回は作家編集者として独り立ちした漱石が、子規のその後を漱石は生きたと。漱石信者には叱られそうだが。裏書きした資料も幾つかある。