F-nameのブログ

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願い。#アラン定義集未定義語

一口に願いと言っても人により様々なものがある。初詣などで神社などに足を運ぶ方は多い。そして入試などの時に出す願書も願いの一形態である。此方はお願いする側であり、それを受けて試験などを実施して願いを叶えるかどうかを決定する。私の出身高校は中学生から人気がある模様で、入試を実施する際に願書を出す受験生はかなりの数に。併願で私立の高校で合格になると、ある程度は強気にもなれると聞く。ただ私の頃より更に前のことだが、入学定員より少ない人間しか応募しなかったということもあった。それで願書を出した人間は全員が合格した(一応は落とす人間を出すかは検討したようであるが)。なのでその時に入学した人間も居るが、全員合格と言うのは基本的に誰も言わないのが鉄の掟である。ううみゅ。

「太陽神戸三井住友銀行」について。

昨日の夕方のentryではSMBCこと現在の三井住友銀行について書いた。

YMCAならぬSMBCについて。 - F-nameのブログ

私は以前に神戸市にある企業で働いていたことがある。給料の振込先について、総務部長からなるべくSMBCの口座にして欲しいと言われたことがある。その企業のメインバンクがSMBCであることが理由である(他行の口座だと余計に手数料がかかるらしかった)。差し当たり口座を持っていたので支障はなかったけど。

実はSMBCの源流の一つは、都市銀行の神戸銀行である。なので兵庫県のあちらこちらにSMBCの支店があったりする。神戸営業部という組織もあった(今もあるかも)。それで神戸銀行は合併を繰り返して、太陽神戸銀行になり太陽神戸三井銀行になり(2年ほどでさくら銀行に)三井住友銀行に至る。なので厳密に書くとSMBCは「太陽神戸三井住友銀行」ということになる。ううみゅ。

合口。#類語新辞典

短刀の内で鍔(つば)が無いもの。と言っても鍔が何なのかよく分からない。それで刀の部位の一覧の写真をご覧いただきたい。

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手に持つ柄と刀身の間に存在するのが鍔である。これが無いと手が滑った時に刀身が当たり手に傷がつく。この意味から転じて、人と人の間に馬が合うような場合も「合口が良い」などと使用される。「馬」と出て来たのだが、騎乗する人間と馬の相性は大きな問題である。競馬でも見かけるし、馬術競技でも息が合っていないと成績は上がらない。

天職。#アラン定義集未定義語

2年前にも天職については書いた。

天職。 - F-nameのブログ

結局は今の仕事などを天職となるように変えるべき、と言うのが結論になる。そのこと自体はごもっともな話であるが、個人の感情や人間関係や能力や性格なども当然だが絡む。なので天職の域にまで達するのはかなり難易度が高いことになる。後は自分自身が天職だと考えていても、無理矢理に止まなければならないこともある。例えばスポーツ選手は体力の衰えから逃れられない。そして大抵の会社員には定年という壁が聳え立つ。まあ個人にとっての天職は1つに限られることでもないのだけど。

YMCAならぬSMBCについて。

私はメインの銀行を三井住友銀行にしている。昭和の頃に阪急高槻市駅の眼前に住友銀行の高槻支店があることから口座を開設して今に至っている。

昭和63年(1988年)に大学に進学した私は、家庭教師のバイトをしようと考えた。それで住友銀行の高槻支店に掲示板があるのを見つけ、家庭教師をする子供さんを探している旨の掲示を出させてもらったことがある。当時は今と比べても銀行のリアル窓口に来る方は多かったように思う(あとはATMを使用する程度であった)。そんな訳で三井住友銀行との付き合いは長い。ただSMBCと聞くとYMCAを連想してしまうのだが、それは単に私の感覚がおかしいのだろう。ううみゅ。

愛吟。#類語新辞典

好んで口ずさむこと。例えば俳句であったりもする。私の出身高校の同窓会の内部に、月に1回のペースで俳句を詠むサークルらしきものがある。さぞや互いに一句よんで感想を言い合っていると思われる。俳句に関する雑誌も何種類かあり、大抵は月刊で販売がされている。

ただ、大抵の人間にとり愛吟する対象は流行歌であることが殆どだろう。特に子どもたちは好きである。私がこどもだった昭和後期では、大抵の人間がTVの歌番組を視聴していて、クラスの余興に歌合戦が組まれたりもしていた。そしてその頃に覚えてしまった歌は今でも記憶にあるのだろう。

活発さ。#アラン定義集未定義語

2年前のentryでは、子どもたちの活発さについて書いた。

活発さ。 - F-nameのブログ

冷静に考えれば、子どもたちは放っておけば活発に動き回る。小学校などで大人しくさせるのにそもそも無理がある。今のこどもはゲームなどに没頭しているので問題であるとの議論が、私が子供であった昭和後期から連綿と続いている。それで何らかの実証研究があるかと言えば、探してもなかなか見受けられない。まあ誰しもが子どもである経験をもつので、それに論調が引きずられがちである。基本的に眉唾物な話もさも当然のようにされがちなのが教育の議論であると言える。