F-nameのブログ

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完全さ。

完全さを期すのは大事なこととされるのが一般的。そもそも人間たる存在に完全さは求め得ないのであるから、常にperfectを目指すようにと、子供の頃から教育を受ける。それはそれで王道なのだろう。けれど、過剰に意識してしまうのも人間の性である。他人に完全さを求めると嫌われるなどのことになるし、自分に向けると動けなくなることもある。フォーマルformalな教育の場以外で、適当に考え完全さを過剰に求めるのは難しいと学ぶことが多い。そういう体験を無視して大人になる人も少なくないけれど。

選挙活動。

昨日も書いたが、選挙が高輪、じゃなかった、たけなわである。高輪のホテルでの友人の結婚式に参列したのも遠い昔。それはともかく選挙活動は盛んである。昨日の朝は某党の地方区候補と握手してパンフを渡された。高槻は辺境だがそれなりに大きな街なので辻立ちをしている模様。更に帰路では、違う党の某議員とまた握手をした。集会を開くとのこと。惜しむらくは2人とも男性だったこと(笑)。女性なら誰でも良い訳でもないけれど。日本では女性の議員が、諸外国と比較して圧倒的に少ない。有為の人材が埋もれているのではと感じる。

社会福祉実践を担う人(社会福祉実践の理論と実際第2回)

私は福祉の専門職ではないけれど、地域の福祉の担い手であるべきだろうし、またなることが出来ると考えるべきなのかもしれない。

 

福祉という言葉からのイメージ。車椅子の方や高齢者。介助や介護、まとめてケアする人。介護や介助は福祉の極一部。介護と看護とは何処が違う?分かってしまうほどどう書いて良いかわからなくなる。100年ほどの歴史はあるが。ケアワーカー。ソーシャルワーカーの取り組みから。しかしどんな仕事なのかは分かりづらい。福祉の専門職としての時代背景。社会的立場。視点の固有性。幾つかの専門資格。ケアマネージメント。介護や介助や保育といったケアワーカーの仕事。高齢者の介護を中心に。専門性の問題。福祉の担い手は他にも居る。対象となる当事者や関係者、地域社会の住民。市民一人一人が担い手とならなければ。ソーシャルワーカーの仕事の重要性も見えてくる。3つくらいの担い手論。
59年の初演、ウエストサイドストーリー。ジェット団。シャーク団。ロミオとジュリエット。大都市に集まった移民の子どもたち。都市の社会問題。ソーシャルワーカーの萌芽。みんな育ちのせい。父ちゃんはみんな飲んだくれ。チンピラになるのは当たり前。専門家の間をたらい回し。社会病。ソーシャルワーカーへ。仕事じゃなくて牢屋が必要。心の底から腐ってる。ソーシャルワーカーも匙を投げる。50年代のアメリカ大都市の非行少年を対象とするソーシャルワーカー。慈悲と慈愛に溢れた者?逃げ出したい問題に対応する。警官裁判官精神科医と同様に分からず屋。生活問題を解決する専門職。本人では回復できない医師のように。反発や反動を招く。個性や感情、他者との関係は様々。共に問題に対応する。日本では社会福祉士。相談助言連絡など。相談援助職。介護福祉士。ケアワーカーとソーシャルワーカーの違い。98年に精神保健福祉士。精神障害者。相談支援。社会福祉士と仕事内容はそう変わらないが。社会福祉士が職域を拡大してきた?しかしあくまで名称独占資格であり、業務独占資格ではない。医師や看護師とは違う。医療行為を独占的に。有資格者でなくても生活相談員などにはなれる。資格は意味がない?知識と技術を持っているということは重要。制度とサービスのコーディネートが出来る。専門職としてのケアマネージャー。ケアマネ。ソーシャルワーカーとの違いは?ケアマネージメント。限られた資源について、地域の中で効率的に分配。介護保険制度により導入。介護支援専門員。サービスは限られている。障害福祉サービスにおいてもケアマネージメントが。ケアマネージャーは最適なプランを作成する。既存のサービスだけでは解決出来ない場合も多々ある。一定の枠組に収まらない場合が多い。ソーシャルワークが求められる。ソーシャルワーカーがケアマネージメントを担う場合もあるが。新しい枠組みを作るという機動力や開発力が必要。
福祉の担い手としての専門職。直接的ケア。比較的最近のイメージ。かつては家庭内の女性で担われていた。シャドーワーク、アンペイドワーク。保育などが家族以外で担われる必要が。経済的負担を皆で負担。社会的に。介護は労働であるという認識、サービスに変換。専門的仕事としての認識。ヘルパーは主婦でも参入できるので担い手が拡大してきた経緯がある。競争原理の導入でサービスの向上をはかる。しかし良い介護とは?著しい偏りがあっては困るから、標準化の方向に。しかし本当に良い介護?ケアされる者は生命と生活全般を委ねる。非対称性を意識化する。羞恥心などを絶えず共有を。排泄行為など日常への介入。身体への侵食は最低限に、機能的に。共感しつつ機械的に。バランスを。ケアは非専門的であろうはずはないけれど。専門的仕事と位置づけられたのは最近のこと。担い手としての市民。私たち自身。個人主義化。ケアをフォーマルな、公的なサービスとして社会化。制度化されたサービスで対応しきれないのを、非公式なサービスでどう対応するか。世帯類型として一番多かったのが単身世帯。30%以上、単身化の加速。単身高齢者の増加。親と既婚者の別居志向。30年間で80歳以上の単身者が10倍以上に増えている。中年男性の単身者。生涯未婚率は男性で23%、女性が14%。夫なき後の女性だけが問題なのではない。子供がいないので生活の困難さが違う。日々の不具合に対して介護サービスを利用するのが負担が大きい。互助の機能の再検討。一億総活躍社会。福祉世界もパラダイムの転換を。あらゆる住民が支え合いながら暮らす地域共生社会を。我が事として主体的に取り組む。地域づくりの支援とサービスへのつなぎを含めた体制づくりを。市民一人一人が支え合いながらインフォーマルなものを繋ぐ。生活上の様々な課題を他人事とはしない。包括的に整える姿勢が。ゴミ屋敷や長期間の引き籠もり、虐待。同じ地域で起こっていることだとしても、我が事として解決する方向への一員として取り組めるか?地域の困りごとのサポートを、と言われても、自分のことで精一杯?市民一人一人が認識するのは簡単ではない。血縁地縁社縁などのネットワークが希薄化している現状。人と人との関係の在り方は変わっていかざるをえない。ソーシャルワーカーの役割はますます重要になる。行き詰まっている個人をサービスに繋げていく。様々な課題を抱えた人を寛容な姿勢で根気よく繋げていくこと。誰もが安心して落ち着いて暮らせるという地域のウェルビーイング。専門職はそのお手伝いを。
社会福祉実践の担い手について。担い手像を明確にするのは難しい課題。する人とされる人、一対一ではない。常に複数形。

 

社会福祉実践の理論と実際 (放送大学教材)

社会福祉実践の理論と実際 (放送大学教材)

 

 

清廉潔白。

清廉潔白を貫く?のは、現実としては極めて難しい。以前にも書いたが、選挙には公定の選挙活動費の制限があるが、殆ど誰も守っていない。恐らく唯一の例外は、東京都知事選の青島幸男氏。何も選挙活動をしなかったからである。それ以外にも様々な抜け道があり、それが故に公職選挙法には改正が繰り返されている。そして選挙の費用を捻出しなければならないので、パーティを開くなどして集金活動が盛んである。まあ、キチンと政策を立案してより良い政治をするのなら、目くじらを立てなくてもという意見は一理ある。けれど、マトモな政治家はどれ程居るのだろう?政治家を育てるのも国民の義務かもしれないが。

「松坂屋前」。

参議院議員選挙もたけなわである。昨日の夕方も、某党の候補や応援議員が演説をしていた。地元で言う「松坂屋前」で。政治演説のスポットになっているところだが、それほど広い訳でもない。JRの駅側にもエントランスはあるのだが、管理の関係上、展開は出来ないらしい。郵便局の入口もあって人通りが絶えないので、活動場所になっているのだろう。地元の人も「松坂屋前」とそのスポットを呼んでいる。まあ、それ程たくさんの人出はないので良いのかもしれない。それに代替地も思い浮かばない。ううみゅ。

市民自治の思考法(1)(市民自治の知識と実践第2回)

ウェーバーの2つの著作は紐解いてみたいと思う。絶望的に遅いかもしれないけれど。

 

市民自治をどうやってやるべきか、技術論の前にどのように考えていくのか。社会科学とはどのようなものか。学問と実践の関係。根源的な問題。社会科学が市民自治という実践とどういう関係を持つのか。主知主義。主意主義と対比。知識というものを中心として。意志というものを中心として。大学で学ぶ人は多かれ少なかれ主知主義的。ソクラテス。知識を持っていてもそれを実行するという意志が無ければ。意志の弱さが問題、乗り越える必要が。現実ではこの2つが混ざり合う。主知主義へのコミットメント。先ずは知識の重要性を認める。同様に意志の問題も。市民の自発的な参加。意志を持って。しかし知識に照らされていなければならない。でないと意志が暴走する。学問的知識によって照らされているべき。学問と実践の関係。古典を。ウェーバー。「職業としての学問」「職業としての政治」。岩波文庫。学問とは?学問の倫理とは?政治という実践をどのように考えるべきか?この2つをどのように総合するか?
「職業としての学問」。20世紀初頭。学問を職業とする者は、専門家というものが不可避。全体的に語ることは学問のテーマではない。仔細のような学問に集中、諸学との連関を絶つ。世界、世間からの断絶。社会の複雑化で事象を研究するには。学問は学問の為にある。どんな価値がある?トルストイ。現実では無意味な存在。前提とされた価値に基づいて事実説明をする。価値そのものを評価することは出来ない。政策を扱う。教育の場において政策というものは論じられるべきではない。政策は価値を前提とするから。政策を扱っても良いが、相対的にしか論じられない。どのような政策ならうまくいくのか、ということが。大学であれ高校であれ、自らの制作を押し付けることは許されない。では、学問は実践に役立たない?3つの点で学問は実践に貢献できる。予測可能性を、因果関係を法則的に説明できる。自然科学とパラレル。思考力。思考する力が高まる。明晰化。実践そのものを明確化する。自らを反省できる。何を目標とし何を手段とするのかを自己理解出来る。自己反省。時代判断。神々の闘争の時代。究極的な価値が複数あり、互いにぶつかりあっている。各個人がそれぞれの持つ価値、それが衝突する。同じ価値を持つならともかく。在る目的を達成するために手段を採用する場合、別の目的が阻害されるかもしれない。価値の対立。豊かな生活。原子力発電が必要。しかし、核のゴミを何万年か残す、後の世代の負担になる、という価値を損なう。安全か自由か。監視カメラがあった方が良いか悪いか。学問をする。仕える神は皆同じではない。暴露する。各々の価値にコミットメントしていることを。政治家は都合の良いことしか言わないが、政治学者は都合の悪いことも言わなければならない。暴露することが学問。価値の多元主義が前提となる世界では、学問は一定の距離を取ることが必要。実践から距離を。
「職業としての政治」。神々の闘争という条件。共通の前提。価値の多元主義。仕事に専心。政治家の仕事の前提。価値の衝突の中で選択せざるをえない、それが政治。理想状態の政治ではない。大抵の政治家はそれを期待できない。犠牲を生むことを覚悟しなければならない。どのような資質が?権力勘定、効用化。権力を握っている高揚感。未知のものが必要。情熱と責任感と判断力。確固たる決意。無根拠の決断ではなくて根拠のある判断。政治家の理想像。心情倫理と責任倫理。心情倫理は心の底から正しいことをする。責任倫理。自分の行うことの責任により注意をする。動機の正しさに対し、結果に着目する、結果の正しさに。政治家は両方あるが、特に責任倫理が重要。政治の本質、権力、とりわけ暴力。選択は犠牲を伴う。良い目的を実現するためには、道徳的にいかがわしい行為も必要なことを自覚すること、それが政治家に要求される。心情倫理だけだと、正しいことしかしたくないということになり、政治家として失格。ダーティーハンド。悪しき手段を取るのも政治家に必要。引き受ける決意を。リアリズム。政治家は自らの行為に責任を持たなければならない。結果が悪いと選択の失敗として引き受けなければならない。事件が政治家の選択が下で、「仕方がなかった」「予想外」。この言い訳は政治家として言ってはいけない。できるだけの予測を。選択についての責任感を。政治家の資質。結果を考慮しない政治は極めて危険。動機が正しいのなら結果はどうでもいいのは無責任。それでも政治家には心情倫理も必要。統合されるところにこそ理想の政治家。結果責任をギリギリまで遂行して、計り知れない感動を。冷血な計算だけでなく、価値へのコミットメントも必要。
市民自治に戻り、どのような統合が?責任倫理と学問の知識の結びつき。結果について責任を持つためには、今何をしたらどうなるかという予測をしなければならない。責任のある決断があるけれど、学問による知識に照らされていなければならない。正しい動機で集まった人々が、予測なしに突っ走るのは無責任。学問と実践は、目的手段について合理性を持つことが出来る。学問の力で点検出来る。限界はあるが、努力はしないといけない。責任倫理のみでなく心情倫理も必要。学問は合理性をもたらすが、人間の実践においては非合理的なものも重要。ウェーバーは大衆と官僚制の問題で、デマゴーグを。民主制を乱す者として扱われるが、カリスマ、人間的魅力の重要性を認める。カリスマやレトリックが重要、政治家にも必要。政治家は自己の課題を社会に人々に承認させる技術も必要。学問のもたらす合理性だけでは人は動かない。学問と社会科学、責任ある自治の拡大。市民が自治をする、形式だけでなく、内容も重要。世の中の仕組みを理解する。目的手段関係の合理性を問う。責任のある自治。結果が重要?市民自治というものの転換点は、市民自治が政治化されること。結果の意識が。だからといって結果が全てでもない。公共的な事柄に参加する、しばしば失敗に終わるが、市民自治そのものに価値があると考える観点もある。市民にする教育。市民自治。未来において成功するには経験が必要。結果だけではなくて過程も。デモを行っても変わらなければ無意味なのではない。参加した経験が残る。じゃあ参加すればそれで良い、だと無責任になってしまう。責任倫理の重要性。市民自治そのものの価値はあるが、結果はどうでもよい、というのではない。2つの倫理を考えるのが重要。学問も。必要な知識と共に、何をやっているのかの反省を。デマゴーグ。実践は人々を動かすことが必要。レトリックやコミュニケーション。学問と実践はそもそも別なもの。2つを共同で遂行することが出来る。しかし常にうまくいくわけではない。自覚的でありながら学問と実践を。
専門知と実践知。どう結びつけるか?専門家と普通の市民の関係性。市民が専門性を持つのが手っ取り早いが。専門化が学問の流れ。極めることは難しい。プロフェッショナルと一般市民が共同する必要がある。環境問題の事例。専門知識の活用。自治体のローカルな文脈で実現するには、統治より自治の方がうまくいく。上から下への流れでは、専門家がプロセスに入ることが難しい。在る種の意見の多様性が在る方が、専門知識が活かされる場合が多い。

 

市民自治の知識と実践 (放送大学教材)

市民自治の知識と実践 (放送大学教材)

 

 

罵詈雑言。

地元高校集中受験運動、いわゆる地元集中という運動が、在学当時の私の中学校にはあった。要するに公立高、の試験に受かれる人間はみんなで地元の高校に進学しようとするものだった。一応は民主主義などの左的な思想の背景があったから成立した運動である。私を虐めた同級生と同じ空間に居るのは耐え難かったので違う公立高に進学しようとしたら、中学の先生のほぼ全員から罵詈雑言を浴びせられた。今から思うと異常な話であるが、同じ体験をした人間が沢山いたことを進学した高校で知った。私は比較的マシな方かもしれない。耐えかねて地元に進学した人間はもっと多いだろうから。