F-nameのブログ

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躓き。

自分が躓いたことは色々ある。半世紀も生きてきたのだから当然だけど。大学を卒業してないという躓きをリカバーrecoverするというのが、後半分の自分の人生と言って良いと思う。まだrecoverは出来ていないけれど。それ以外の躓きでは、現役での大学入試の失敗が挙げられるだろう。志望校をなかなか決められなかったり勉強が出来なかったりするのが悪いのだけれど、唐突に入試制度を変えられたのも一因になるのかもしれない。共通一次試験(センター試験の前身)の前に願書を出したら(その年だけそういう制度だった)、その試験で失敗してしまい、国公立大以外に願書を出してなかったので浪人が確定してしまった。まあこの程度で躓きとは言えないかもしれない。予備校は楽しかったし1年後には志望校に合格できたから。

京都。

一昨日は京都での所用の合間に京大のNFに行ったという話を書いた。何処の大学でも同様だと思うが、京都大学はキャンパスcampusが広いので見どころが多い。ホームページhome pageを訪れると構内の地図が掲載されている。それが見られなくても、案内所まであってmapを入手出来る。ましてや大学祭だったので色々と催し物はある。駆け足になったのは、単に時間の余裕が無かっただけ。来年はじっくり楽しめると良いなあと。まあNFでなくても遊びに行くのも良いかも。

高槻市民である職場の同僚は、一昨日に京都案内をされた。確かに高槻は京都に近いけれど、高槻市民がみな京都の案内が出来るという誤解が流布されている模様。ううみゅ。私は長らく高槻市民だし京都にある大学にも通っていたが、案内出来るのは東山界隈しか出来ない。他も開拓すれば良いのだろうけれど。

貧困の社会学・序説 ~見田宗介「まなざしの地獄~現代社会の実存構造~」を読む~(人間にとって貧困とは何か第2回)

見田宗介の著書を読んでみたくなった。見るべき分析があるかもしれない。

 

見田宗介。73年の見田の論文。貧者のアイデンティティ。構築されるべき核が提示されている。高度成長期末期での貧困観は説得力を持つ。すべて書き写した。手書き時代の武骨な修行は書き写すことだった。18年に「現代社会はどこに向かうのか」の新書が。貧困の定義は難しいがやらなければならない。陳腐な引用。トルストイの「アンナ・カレーニナ」。それぞれに不幸。それぞれに貧困。貧困を巡る議論の混迷を言い当てられている。定義も為されずにイメージで議論して見失う。在る種の悲惨が並べられている。ぼやけた関心は霧散してしまう。基準は立てられた。貧困の問題は細々と続いてきた。政策の立案などを目的とするもので、線を引くという行為の為に。貧困の基準の問題。貧乏人は努力不足とみるのはわかりやすい。共感能力を持つ人は特別な出会いがあったから。極めて抽象的な。立ち位置から自由だった訳ではない。「お前は何者か」という反論。現代は都合のいい情報のつまみ食いが誰でも出来る世界。自己の正当化ばかりに。誰もが井の中の蛙に簡単になれる。もっとも疑わしいのは「私の言葉」。相対的貧困率。貧困という言葉の歴史。00年代後半まではどこか遠くの国での不幸について言い表す言葉だった。日本での貧困は忌避された。個人道徳の問題として片付けられ、貧困との関連性として社会的に問題とされなかった。貧困はあって欲しくない、見たくないこととされた。00年代の後半から、唐突に「貧困」という言葉が、政府が貧困率という調査をしたのが09年。貧困の定義はどうにでも恣意的に動かされる。経済成長に寄与しない存在は無いものとする。指標は大づかみでしかないが、継続することに意味がある。子供の貧困率は13.9%。その数値は時系列的に増加減少する。他国との比較も出来る。線を引くコトの恣意性は認識するとしても。基準の妥当性を巡る議論。示唆に富む問題提起が幾つも。タウンゼントの相対的剥奪論。個々の貧者にとっての貧困は客観的なものでなく、主観的な体験、主観的な欠如。生活習慣に従い紅茶を飲む。贅沢や華美は許されない?それは違う。朝の紅茶は重要な文化要素。そういうものが無いことが剥奪感を強めている。日本国憲法25条。最低限度の生活を国家により保障。このふくらみがどのような内容を容れられるか。ある一人の人間の朝の紅茶に気づけるか。実際に蹂躙されがち。社会的合意の前にアテンションが課題。貧困を把握することの難しさ。トルストイ。それぞれに不幸なもの、どう語れば良いのだろうか。線を引くアプローチの問題点。貧困に対する社会学固有のアプローチ。社会問題でなく個人の問題?放置の正当化。それぞれの問題にすぎない?体験の共有性。共有されるものを取り出し共通背景を説明する背景。解決の困難さが分かるだけかもしれないが、貧困が私たちの問題であるという認識を。貧困理解が意義を持つ。より寛容な社会の為には。
見田宗介の論文。理論的に大きな影響。ポイントが明瞭。NNという実在する日本の少年を描く。68年から69年の犯罪者の永山則夫。97年に死刑執行されている。獄中にあって多くの手記を。「無知の涙」など。NNは殆ど母親だけで。中学校は半分も出席していない。自分への自己嫌悪。65年3月に卒業し東京のフルーツパーラーで。熱心さこそ自己嫌悪に根ざした。投企。65年の中卒は3倍以上。中卒労働力は東北から京浜間へ。金の卵。10代の労働者。都市が要求し歓迎するのは新鮮な労働力に過ぎない。自由な主体としての人間。流入青少年問題。若者の不適応が問題に。認識の落差。あくまで新鮮な労働力、でなければ逸脱。青少年にとっては状況は自己解放の夢を託す。特異性は際立っている。流入青少年の事情を極端に顕在化。図表の上に人々を乗せることも出来る。皆が頑張っている。しかし認識の落差があれば、事情はそう簡単で無くなる。東京の側からの金の卵としての期待。それに応える青少年。フルーツパーラーでの熱心さ。必死で自己を演技する。演技通りの自己を獲得するために。人間の理解にはならない。統計的な事実の実存的意味。実存的諸事実の統計的意味。人間存在の意味を尽きなく存在する。存在を求めて止まない。自己を敢えて選ぶ実存たち。無数の実践、もがき。実存的意味は無数の実践の中に見出される。仕事熱心として統計的に把握されている。投企。宿命論に抗っての振る舞いの一切。出産という出来事、様々な実存的意味は在るはずだが、政策的な枠組に回収されがち。流入青少年の投企の意味。敢えて極限値に着目。逸脱する個性。NNの投企は挫折する。ある職場で否定する過去を。戸籍謄本を求められないところに生きる。密航を企てるように。事件に至るNN。
NNの投企を挫折させたものは?眼差しという概念。他者の眼差し、外側を捉える。具象的なものと抽象的なもの。戸籍の記載。一人の人格にとり表層。表層への眼差しで引きずり降ろされる。他人の眼差しが表層しか見ていない、にも拘わらず眼差しに囚われる。誰かに見られていると。敢えて逆手をとる自己解放。表層を操作して他者を操作する、誰もがしている。NNには2つの関心。再三に亘る進学への意欲。進学の意味。自己存在をロンダリングする。進学でも同じ。NNの進学は実存的意味が違う。高級品好み。舶来品の煙草。大学生の名刺を。パーカーのボールペンなど。都会が成年をそれによって判断する。その具体化。物を買うという行為の実存的意味。高校進学を断念して以降、表層を出し抜くことに。同情者でさえ反感を。舐め回す。社会の序列を再生産。不可視の構造。
貧者にまとわりつくのが貧困。社会の中で未来を解体しヒトとの関係を解体する。貧者にまとわりつく状況。考える精神を奪われる。貧困の中にあっても欲望は湧き上がる。貧困に抗う実存。貧困とは悪として貧者に代表される。貧困とは生活の水準の問題ではない。飢えの経験。NNにおいては、一冬の間に見捨てられた体験。関係的存在。物質的なものを関係的存在に変換する。
全体の枠組。何かになることを求めて止まない。承認する誰かが必要。かなり面倒。挑戦に疲れたかのように取り組む。想像を想像に終わらせない。人々の無数の企て。承認の取り付けに成功。貧しい人においても同じ。しかし手段を剥奪され、くじかれてしまいがち。今の自分でない自分を。

 

人間にとって貧困とは何か (放送大学教材)

人間にとって貧困とは何か (放送大学教材)

 

 

スキャンダル。

有名人のスキャンダルscandalを流すマスコミmass communicationは多い。というか、そもそもマスコミはscandalを流布させることで発達してきたと歴史的には言えると思う。その手の記事を喜ばない人間は数少ない。報道の自由は守られるべきだと考えるけれど、流される方にも当然だが人権があるので、バランスbalanceを取るのは至難なことと言えるだろう。最近のscandalは某女優が麻薬を所持していたことが主なものだろうが、報道しても立ち直るのは難しいとしか言えない。治療が必要なのは確か。

新嘗祭とホリーズカフェ。

昨日は勤労感謝の日で祝日だったけれど、一般的な休日のパターンpatternの人には嬉しくなかったかも。土曜日だからもともと休みの筈だし。戦前(俗に言う太平洋戦争のことだけど知らない人も居るかも)は新嘗祭と言い宮中祭祀の1つだった。1年の収穫を祝うものなので、あまり天皇制と関連がある訳でもないと思うのだけど、GHQ(日本を占領していた)は気に食わなかったようで名称が変わった。今では歴史的経緯を知らない人間の方が圧倒的かもしれないけれど、知れば少しは自分の世界も広がるのでは。

高槻で用事を済ませて歩いていると、ホリーズカフェが出来るとのこと。

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からふねや珈琲店と同じ交差点にあり駅前の一等地なのだが、店舗が定着しづらい場所になる。大丈夫だろうか。

孤立と零落 ~貧困体験の中核~(人間にとって貧困とは何か第1回)

自分も貧困層なのかもしれないと思う。まあ知識的に貧困でなければ良いと思って生きてきたから後悔はしないけれど。

 

孤立と零落。貧困体験の中核。貧困とは。社会福祉学とは異なるアプローチで。貧困体験を理解するための道筋を。貧者を巡る考察。社会について。貧困体験は社会により規定される。貧困に関連する様々な現象を。何故そうなるのかを。私たちが安易によりかかりがちなものから距離を取る。役に立つような貢献は考えない。あくまでも貧困体験の理解へ。救い出す社会の解明へ。「貧困と社会」の力点を移動させて新たなトピックも。前回は全体を概観しようとしたが、貧困の社会学としての序論になり得る一里塚に。
貧しさがそれ自体が繋がりを弱めるものとは言えない。孤立と結び付けられることがあるが、連帯や相互扶助をもたらす可能性があることも。共有化されれば貧者の連帯は社会運動へ。社会主義や民族主義などに。貧困を連帯や相互扶助と結びつけて論じられることは現在では難しい。貧困と孤立の関係が。孤立をもたらすのは豊かさを垣間見た社会に普遍的。時空間。何時から始まったのか?起源を論じるのは対比によって貧困の特質を明確に。柳田國男「明治大正史世相篇」。貧に対する私たちの態度が変わってきたこと。貧窮が耐えられないという心の状態。近代の日本人に植え付けられた。貧者はもっと多くて酷いものだった、しかし気にはしなかった。慣れているとも言えたし、多かったので忍ぶことも出来た。関係論的な視点。何かが欠如しているという意識。他人との比較において。欠如が感じられ貧しさが耐えられなくなる。関係世界の地盤変化。近代化。身分と藩という枠組を崩壊させた、国民国家。身分差や地域差の小さい国民に。国民すべてを国家と統合。公教育は無償で義務で非宗教の教育制度。身分制を否定。スタートラインと教育内容を均一化。地位序列を否定。徴兵制も均等性を。新しい広がりの感覚。求心力を持ち受容された。藩も破棄された。廃藩置県のインパクト。直接国家と。識字率が高まり新聞が読まれるようになった。国民共通の時空間として感覚される。国民国家という広がりへと。村や国を離れるのも異常ではなくなった。滑らかに生じたとは言えない。ローカルな事情と国家とは食い違った。けれど60年の間は世界観を激変させるのに充分だった。
欠如は比較を通して認識される。関係世界の変化は?比較の対象が動き始める。成功する者や没落する者。都会の者も比較対象に。宿命論の納得が難しくなった。すべての人が比較の対象に。競争的要素が多くなる。自らの欠如が意識される。邸宅は。他者との接点で欠如を。人々は比較の反復作業で。貧窮を忍び。過去の自分と今の自分との比較。暗い気持ちに。今の己を。零落と孤立。2つの過程。零落。士族の没落が例。制限だらけ。栄える多くの友人が。いやが上にも耐えられない。如何にも没落民の。しかしそれに限定されない。野望を持って新しい仕事に挑戦した者には失敗者も多かった。東京、内線の混乱から。90年台には100万人を超えたが、人口増加は若い単身男性が。当て所のない生活。集まった人々は都市雑業に。安定した生活は難しかった。中川清。離婚件数は結婚件数の50%以上。23年の大震災以上、都市域を拡大。都市雑業から職工や日雇労働に。30年は激動が一息ついた時期。労働市場が成長したと言っても敗残者は蓄積されていた。新しい労働市場に包摂されるのは難しかった。都市雑業の新しい仕事は、零落の職業、一時的便法に過ぎなかった。ただ否定的ではなく、貧窮に慣れることなく反発する心、社会のエネルギーでもあった。近代的精神。エネルギーが行き場を失った時には絶望も不快。社会はまた改めて苦悶し始める。信じたいの貧富。孤立を強調。零落とともに。埋めがたい距離を。都市雑業。零落の職業。家とは家業を切り盛りする経営体。家々からの外の職業世界。孤立の貧窮。地域社会の変容。農村の相互救済の力の衰退。自分の家だけ救われたいという。不幸が自分にだけ集まっていると思い世を恨んでいる。
家、ムラとはなにか。家が経営体、かつての村落社会は家の連合体。家産の維持拡大の為の経営体。家長は家を束ね庇護する。血縁も要件ではない。縦に本家分家関係。村落社会の形成。金銭で解決が難しい問題は家同士の協力で。入会地など。しかし生ぬるいものではない。村や家は人口調整のメカニズムが。余剰部分は都市により吸収。江戸時代初期には農地開発で人口は大きく増加。江戸や大坂は経済的に恵まれなければ結婚は難しかった。少子の社会だった。都会は墓場。ムラ。村人たちにとっては相互扶助集団。貧困に脅かされている。貧困は連帯の基礎に。共同防貧。私たちは家の世界の外に居る。個人化。行為の選択の幅が拡大、責任も拡大。社会階層などの程度差はあるが個人化が。個人の問題はあくまで個人問題に、社会の問題とはみなさなくなる。貧困への自己責任。過去から現代への流れ。個人化の進展が圧倒的な力で膨張する。骨絡みで住民に。現代は競争者を憐れまざる者に溢れていて、自分だけが救われたいと。貧者は世を恨むものが多い?新しい貧困は今日の貧困の始まり。脱近代の議論。貧困の有り様は近代の過程の帰結。産業化が不充分。マージナルな貧困。脱産業化社会。降格する貧困。貧困層の増加。柳田國男、統合された貧困からマージナルな貧困。質的な変化。心の状態は一貫している。今日の降格した人を含む貧困層の問題。
柳田國男の概念。貧困はアイデンティティの問題として体験される。アイデンティティ。個人が他者との関わりで獲得する自己。なんとか大学の学生、良き母親など、何かの存在。何かであるためには認める誰かが必要。危ないアイドル。エリクソンのアイデンティティ。依存する自己。自己の呈示と他者の承認。貧困は承認を難しくする。組織や社会集団、他者を得難くする。自己の存在が自分でも認め難くなる。貧困の心理学では無い。悩みを社会から切り離すつもりはない。アイデンティティは他者からの承認で可能とすれば。関係体験とセットで。貧困体験は社会的体験。社会的排除。財や権限を獲得しているグループや権力が締め出す。労働市場においては学歴などにより階層化身分化。カテゴリーによる。国家に関わる制度も。悪い国民と良い国民の序列化。貧しい人は制度から阻害される。無意識に浸透した差別は。関係を指し示す概念。カテゴリー間。大卒と高卒。正規雇用と非正規。排除非排除の関係。前者の利益は後者の不利益が前提。パイが守られる。男性と女性も同様。直接的な排除関係は双方の自己認識に影響する。私を排除する他者のまなざし。貧者のアイデンティティは困難に。社会的排除関係。
貧困の範囲と貧困体験をアイデンティティとしてみる。アイデンティティ論と社会的排除論は全体に関わる。記憶を自由に重ね合わせる。偏った認識かもしれないが、個人的体験は理解するにあたり考察の糸口になることも。記憶を掘り起こしながら。

 

人間にとって貧困とは何か (放送大学教材)

人間にとって貧困とは何か (放送大学教材)

 

 

礼儀作法。

昨日のエントリーentryに続いて私が不得意にしている領域。以前にも葬儀の受付を何度かしたと書いたけれど、マナーを頭に入れるのに必死だった。最近はnetがあるけど、ない時は本屋に飛び込みマナーの本を買って一夜漬けのようなことをした。何度か結婚式にも出席したが似たようなもの。

大学時代からの友人の結婚式に招待されたのだが、主賓があの木村敏先生(知らないかもしれないが知の巨人もされる方なので検索しても時間の無駄にはならないだろう)。色々お話をさせてもらったが緊張していて何も覚えていない。先生の隣の方が心理学の院生なのにも助けられた。友人を祝えたのは良かったが、とにかく疲れた。