F-nameのブログ

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静かな。

前回の衆議院選挙は2017年に行なわれた。某知事は国政選挙に打って出ようとしたが、「排除」するとか何とか言ってしまい反与党勢力を分裂させる羽目になり、自身は出馬することもなく見事に政権奪取は出来なかった。それで今年2021年は確実に衆議院選挙が行なわれる訳である。選挙活動が騒がしくなるであろう。日本の通常の選挙では投票日の当日は活動することもなく静かで、有権者が投票をして後は開票作業を見守るだけであるのだが(昨年の大阪都構想は例外だったが)、最近の某学会では訪問者が来たり電話が鳴ったりする。投票に行っていないと答えると、投票に必ず行くよう促される。「誰々に投票してください」と言わないのがミソである。

共通テストよりハードな関門のこと。

昨今の報道では、大学入試共通テストの話題が頻繁に出る。今更だが、今年の受験生はcovid-19の影響を受け、しかも試験形式が頻繁に変更になると言う悪夢のような経緯になってしまっている。健闘を祈るとしか書けないけど。

しかし、それよりハードな経験をしている人々が居るのを書いておきたい。関西圏では今日から本格的に始まった中学受験に挑む、11歳か12歳かの受験生である。小学生にとり試験勉強は極めてハードルが高い。心理的にも支えが必要なので、保護者や受験塾のサポートも必要。受験当日に試験に挑む当の受験生だけでなく、控室で待つ保護者の心情は辛いものがある。まあ私も中学受験の経験は無いので、何処まで理解できているかは怪しいけれど。

なお現在の中学受験の世界については、ビッグコミックスピリッツに連載している「二月の勝者」という漫画で面白く読めると思う。

 

 

 

国際法の主体 -国家と非国家主体-(国際法第5回)

ドロドロした事案が多い印象を受けた。そもそも国家なのかどうかよく分からない政治権力も少なくない。結局は具体的に考えるしかないのかもしれないけれど。

 

柳原正治。国家の資格要件は?他国から国家として受け入れられるか。国家承認が中心。非国家主体の問題。一定の範囲で主体とみなされる。近代国際法や主権国家概念を基礎とする諸国家の関係。一定の数の国家群が存在しなければ想定も出来ない。表裏一体。国際法の存在の上での国家とは?国際法上の国家、国家承認、国家承継。非国家主体。
近代ヨーロッパ国際法。個々の近代国家の間を規律。古代ギリシアの都市国家や中国の王朝、イスラム世界の王朝などと性質が異なる。近代国家とは?歴史的に変遷が。15世紀から、君主と国家が同一視、家産国家。財産の同一視。君主同士の契約。1648年のウエストファリア条約。国家ではなくて皇帝、国王、選帝侯や諸侯や諸身分。個人の。17世紀後半から物理的な存在と切り離して抽象的な国家概念が。ホッブズなど。精緻化したのが倫理的存在論。自然的存在と倫理的存在の2つの存在を。神や人間の決定により。倫理的人格。国家は。自然的存在としての目に見える存在とは異なり、抽象的な存在として。主権国家概念も広まる。バッテルの「国際法」。対内主権と対外主権。2つを兼ね備えるのが主権国家。法的人格としての国家を。近代国家間の法としての国際法。実態を巡る議論は続く。文明国間の法として。多文化世界を構成するのが主権国家と現在ではされる。主権国家としての具体的要件、国家の資格要件。19世紀末に一般国家学の中で精緻化。3要件。国家の3要素。領域、人民、権力。現在でもよく引用されるのはモンテビデオ条約1条。明確な領域、政府、他国との関係を、など。一定の範囲の地域、領域の上に住み続け、統治機構としての政府が外交能力を持つ。完全に領域を喪失しなければ存続。世代交代も想定。国家は同一のものとして存在し続ける。政府の変更、政府承認が必要。非保護国という特定の国家に。正当性という要件も必要とされる議論が。
近代ヨーロッパ国際法の成立時点で一定の数の国家が存在。表裏一体。国家群がなければ国際法もない。フランスやイングランドなどは事実上存在。諸領邦の場合は?同盟権の問題。19世紀初頭まで議論。オランダ戦争の講和会議。フランスの代表は神聖ローマ帝国には使節権はないと主張。ライプニッツ。1677年に著作を匿名で。領邦の使節権を肯定。議論の中で主権とは?などが精緻化。国家承認論は異なる文脈で編み出された。中南米地域に独立して新国家が。国際法上の国家として認定できるか、国家承認論を。承認が必要とする。国家承認とは社交クラブへの入会許可。政治的意図があった。ヨーロッパ諸国からの承認が必要。創設的国家説。現在では違う文脈で。他国による国家承認は宣言の効果
みを。宣言的効果説。要件を満たしているとしても承認しないことが出来る。政治的行為に過ぎないと主張されることも。宣言的効果説を取る時に、新国家が確定的な証拠を。国家承認は義務ではない以上、裁量の元に。日本は13年時点で北朝鮮を国家承認していない。独立宣言が国際法に違反していないコソボ共和国は100カ国程度。加盟国となっていない例がバチカン。南スーダン。独立宣言から1週間しない内に国連加盟国に。主要国は独立と同日付で承認。国家は外交関係を設定しても使節団を派遣しないことが出来る。文明国という要件があった。オッペンハイム。現在では国家の資格要件を満たすことが。これに加え正当性の要件は必要か?非承認主義。具体的内容。自決権の原則に沿う形で、など。慣習国際法も。革命やクーデタなど憲法に違反する形で政権が交代。政府承認の問題。国家同一性の原則。憲法に合致しない形でも国家自体は存続。政府承認の必要はない。対外的代表権を再確認することに意義が。実行的支配の原則。新政府がほぼ全体を実効的に支配。これに対して正統主義。ハイチ問題。政府承認については義務はない。政府承認の場合には認定自体に裁量がある場合が多い。革命が起きて内戦状態に。既存の政府を支持するか革命勢力を支持するかで影響がある。11年3月のリビア内戦。フランスの政府承認。内戦は11年2月に始まる。反体制派がリビア全土を掌握している形では無かった。米英仏が介入。国民評議会の首都制圧は8月。政府承認制度の本質からして廃止を明確にしている国家も。アメリカやイギリス。一切行わないとしての実質的関係を始めれば同じ効果がある?承認の方式と効果は同じ。明示的承認と。法律上の承認。事実上の承認は暫定的。尚早の承認は国際法上違法。12年11月にはフランスがシリア国民連合を政治承認。承認は一方的行為。双方向的行為と概念上区別される。未承認国家、未承認政府が国際組織に加盟する場合。別個の行為とされる。91年に北朝鮮が国連加盟。未だ承認を与えていない国家についての法関係は?権利義務をどのていど認められるか。普遍的義務は未承認国家にも適用されるか。承認と裁判。当事者適格など。日本での事例。北朝鮮著作権事件。洗脳教育を報じる目的で思い出を語る場面と映画とを組み合わせる。映画の映像が日本法人の許可を得ることなく。ベルヌ条約に反するか。多数国間条約。北朝鮮も締結国。しかし問題は、北朝鮮を国家承認していないこと。多数国間条約が適用されるか。最高裁は多数国間条約に未承認国が事後に加入した場合、権利義務関係が直ちに形成されるとは言えない。一般国際法上の問題。普遍的義務。未承認国家にも認められる?
国家承継。国内社会の相続に対する。既存の国家の国際法上の権利義務などの承継国への。ソビエト連邦。南スーダンの分離独立など。住民の国籍など多くの問題が。条約の国家承継や国家財産の承継。先行国の締結していた条約は?包括的承継説とクリーンスレート原則。承継国としては後者が有利。他国にとっては包括的承継説。78年の条約に関する国家承継原則。クリーンスレート原則が基本。しかし20カ国程度。国家債務などがどのように承継されるかも重要。83年に国の財産や債務に関する条約が。しかし未発効。
非国家主体。国際法主体性論も存在しなかった。連邦の構成国などの問題が。神聖ローマ帝国と諸領邦の問題。個人の出訴権なども規定されるようになった。戦間期において論争が活発に。権利義務が規定されれば認められるか、出訴権まで整備されなければならないか。国際的手続説。国際機構の数が増えて主体性が問題に。現段階においても国家には変化なし。個人などの非国家主体の役割は増している。一定の範囲で主体とされる。非国家主体は派生的国際法主体とされることもある。国際組織は対応が多様。1万人を超える世界銀行など。財政規模も様々。国際組織に法人格があるか?49年に国際司法裁判所の勧告的意見が出てから。法的根拠。設立文書により付与される。条約により判断、主観説。それに対し客観説。現在では主観説が一般的。外交能力、特権免除など。戦間期に論争が。現段階においてもどのような場合に個人に認められるか一定はしていない。第二次世界大戦後、人権の国際的保障が。数多くの人権条約。投資紛争解決に関する条約。国内裁判所により判断されることも。抽象的議論よりは具体的条項を議論するほうが。ラグラン事件。領事機関との通信の権利。国際犯罪。98年の国際刑事裁判所。直接処罰される。国際組織や個人以外の主体。NGO。果たす役割の増大。環境保護の分野など履行についても大きな役割を。しかしNGOは極めて多彩。一定のNGOに協議資格を。4000近くに。国境なき医師団など。中には抗議活動など違反する行為に関わっているNGOもある。
国家の資格要件。国家承認。非国家主体が一定の範囲で主体とされる。内田義彦。経済史の専門家。読み解くことで社会科学的認識の目を。近代国家とは何かを考えるのに。福田歓一。政治思想史。

 

国際法〔改訂版〕 (放送大学教材)

国際法〔改訂版〕 (放送大学教材)

 

 

 

プラクティス国際法講義〈第3版〉 (プラクティスシリーズ)

プラクティス国際法講義〈第3版〉 (プラクティスシリーズ)

  • 作者: 柳原正治,森川幸一,兼原敦子,江藤淳一,児矢野マリ,申ヘボン,高田映,深町朋子,間宮勇,宮野洋一
  • 出版社/メーカー: 信山社
  • 発売日: 2017/04/12
  • メディア: 単行本
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聖杯。

イエス・キリストの死刑執行の前日に於ける「最後の晩餐」で使用されたもの(英語ではHoly Chaliceと呼ばれる)。最後の晩餐を描いた絵画として有名なのはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたものである。イエス・キリストとその弟子である12使徒が横一列に描かれている絵画であり、ご覧になった方も多いと思う。100年単位で残っている絵画は大抵がそうだけど、ダ・ヴィンチの絵画も様々な要因で劣化に悩まされ修復を何度も施されている。第二次世界大戦ではアメリカ軍の空襲で焼ける瀬戸際にまでなった。ここまでになると存在自体が奇跡的とも言える。

カレンダー売場の撤収。

この年末年始は弊店ではカレンダーcalendarを販売していた(今もあるかもしれない)。だだ厳密には店内とは違い、隣接するイベントスペースを借りて販売をしていた。昨季まではフェアの場所でしていたのだが、賃借することで別のフェアも同時並行で展開することが可能になった。現在の物件に移った恩恵である。それで新年が到来して時間が経ち、販売も見込めないので撤収作業をしている(もちろん弊店の中ではなく)。商品を置いていた紙製の什器(紙と言っても段ボールなので比較的に頑丈である)を解体して廃棄場所に運んだりしている。

映画の分析 -テクストとしての映画(文学批評への招待第5回)

DVDを手に入れて鑑賞するのも面白そう。映画10作品が入っていて2000円くらいDVDがあるので、暇つぶしにも良いかも。

 

野崎歓。濱中博久。映画の分析。テクストとしての映画。小説との関連。小説の映画化作品。映画の独自の点。アンドレ・バザン。3つの視点から。ミメーシスと翻訳。模倣。ミメーシスの歴史。空間と運動。再想像。スクリーンという空間の中での運動。可視と不可視。可視なるものが作り出すが、可視を通して不可視のものを表現。ジャン・ルノワール「ピクニック」。溝口健二「山椒大夫」。
ミメーシスと翻訳。伝統的に芸術を考える際の重要概念。アリストテレス。「詩学」。根幹にはミメーシスが。いずれの場合も対象の再現を目指す。芸術は自然を模倣する。詩や演劇のような文学作品の場合は、人間の行為の再現を。再現においてとりわけ視覚的なリアリティが重視される。近代以前の小説には外見の情報がそれほど盛り込まれていなかった。光源氏。美貌について具体的な描写は一切ない。マノン・レスコーについても。18世紀の小説。マノンは宿命の女性としての。肝心のマノンについて外見が描かれていない。具体的事柄を語るのは下品と感じた?バルザックの小説では細々と描いている。写実主義的小説は主流に。リアリズム小説と同じ時期に写真術が。1827年に映画を。銀板写真。1839年、更に19世紀後半から自然主義のゾラ。センセーションを。動画を如何に記録するかの実験が様々に試みられる。映画興行の嚆矢が。
リアリズム小説と視覚的メディアが同時に立ち上がる。目に見えないものを見えるようにしたい可視化への欲望。眼前の現実をそのまま映し出したい。写真や映画は視覚的再現性への欲求に応える。ミメーシスは自然な傾向。科学的技術によりかつてないやり方で。アンドレ・バザンの「映画とはなにか」。映画の表象芸術論の古典に。自動的なメカニズムの働きによる客観性。信憑性を与える。写真は最も重要な。映画は客観性を時間において完成させる。時の流れを止めたいという感情。死への恐怖を。写真や映画により不合理な願いが実現される。人生の1断片を記録する。時の流れを食い止めたいと。列車が駅に入ってくる光景などが映画に。観客は動く映像に飽きてしまう。記録的側面に物語の要素を。シネマトグラフは。物語映画。文学という映画との関係が成り立つ。長い伝統を誇る文学を最大限に利用する。メリエスによる「月世界旅行」。02年。映画史は文学作品の翻案によって。夏目漱石も映画化によりより知られる。映画化とは一種の翻訳と。ヤコブソンは翻訳は記号間翻訳にまで。映画が生まれる以前にも相関関係は色々あった。挿絵や戯曲化、オペラ化も。映画によりリアルな表現が可能に。映画は描写はしない、その場に居る。パリが舞台の。映画の場合は直接カメラで写す。目の当たりに出来る。ドラマを直に繰り広げることが可能。
映画により如何に翻訳されるか。空間と運動。短編小説を原作に。比較がしやすい。「ピクニック」。40分ほどの短編。小説が映画になるときに何が作り出されるか。モーパッサンの原作「野遊び」。市民の手頃な娯楽に。パリ郊外に出かける。馬車に乗って暫く経つと。都会暮らしの人間にとり憧れに。チャップリンなどに夢中になり、映画史上に残る名作を。敬愛の念がこもる。ルノワールは子供時代の思い出とも結びつける。ボートで川面を滑る。身体的な感覚さえ映画から味わえる。名場面。アンリエットがブランコに。若い男2人に窓から。一緒に前後に揺れる。若々しく躍動的に。窓は原作にはない。ブランコは勢いづく。足は膝まで見える。裾風を。明け透けな描写。映画では鮮烈な印象を。リアリズムから空間の豊かさに。男たちの視線を介し距離を。何かが起こりそうな雰囲気を。ドラマの予感が立ち込める。ボートで出かけたアンリエットと若者が抱き合った後に雨が。原作にはない。原作では男の欲望が下がる。映画では雨で表現。水の激しさに圧倒される。その前のラブシーンには涙が。悲しさを壮大に拡張する。空間の設計や創造は重要な要素。溝口健二。小津安二郎などとともに黄金時代を代表する。「山椒大夫」。原作は森鴎外。母親と離れ離れになった安寿と厨子王の物語。過酷な労働を強いられる。安寿は厨子王を逃し自ら犠牲になる。小説には思い切った省略が。安寿は自ら命を断つが、あえて書いていない。彼女が入水して果てていることを。映画では?スリリングな緊縛した。原作には秘められていたが、目に見えるようにドラマ化。演技を介して身体化。木下チカ。閉域が山の上や高台に。脱出は下降の運動を。映画は敏感に反応。斜面による空間を利用。山の上の閉ざされた世界に。厨子王を逃した安寿を。覚悟に気づくと逃れさせようと決心する。自害する自由を与えようと。縛り付けて山の斜面を。ワンショットで。カメラを止めずに。長回しによる撮影。特徴的手法。絵巻物の影響を。理屈抜きでドラマの成り行きに目を奪われる。苦悩しながらの安寿への水平移動を。呪縛される。途中でカットを割るモンタージュが使われず連続したものとして経験できる。実現されているのは空間的単一性。ドキュメンタリー的現実を。極度の緊張感を共有しながら。それでいて滑らかな。
可視と不可視。見えるものと見えないもの。山椒大夫では死が待っている。一足の藁沓により暗示されるのが小説。映画はそうしなかった。藁沓をクローズアップするのではなく。運動を描くと同時に語り口も再現。沼の水という要素を加える。安寿は沼にたどり着く。セリフのないのに安寿の人生が終わろうと。水の中へと歩みだす彼女の。決然としたと言うか滑らかな。身体は沼へと。次のカットに。もはや安寿の姿はない。同心円の波が。じっと映し続ける。香川京子。腰のあたりまで入ったら取り直しがきかない。用心しながら入る。徹底的に取り直しをする監督には例外的に一発でOKを。見事な完成度。安寿の女性的本質と水との融合が。人物は消えて水の中に溶けてしまう。死は崇高ではあるが死には変わりがない。深い調和の感覚。娘の存在が開かれていく。シーン全体の撮影は?水辺でニッコリと笑みを。ワンテイクでOKになった。さざなみの撮影が。石を投げ込んで?現場では身も蓋もない便法が用いられた?冷静に眺めてみようと考えてもショットに吸い込まれる。さざなみに感動せずにはいられない。シンプルな水の運動に。写っているものを信じる。虚構の世界に入り込む妨げにはならない。映画が不可視なるものに支えられたものと。一つ一つのショットは目に見えないものと絡まっている。さざなみの原因に思いを。自己犠牲を受け止める。映画を見ている時、誰もが映し出されているものとそうでないものの関係性を。豊かな意味作用を持つテキストとして。真摯に読もうとすると楽しむことが出来る。
小説を映画化する。ミメーシス。模倣や再現への欲求。近代以降は再現への欲求が。物語映画は小説の翻訳装置と。映画独自の表現を磨き上げる道へと。空間での運動を。可視化しながら不可視なものを浮かび上がらせる。

 

文学批評への招待 (放送大学教材)

文学批評への招待 (放送大学教材)

 

 

 

夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

 

 

大災害。

昨年の1月頃までは、「災害」で連想するのは地震や津波、集中豪雨や台風、それから大雪、まあそんなところであった。勿論これらに対する備えは必要であるのは言うまでもない。しかし今現在の「大災害」は、COVID-19の感染拡大である。殆どの人が予想もしなかったであろうけど。1918年からのスペイン風邪の流行で日本でも40万人近くの人間が亡くなったが、その事実は専門家以外は顧みられることは無かった。1年前のことをとやかく言っても仕方がないが、春節以前に対策を取っていればこれほどの感染拡大は無かったかもしれない。今後の感染状況はどうなるかは分からないが、1ヶ月で片付くとも思えない。仮に日本で収束したとしても、収束していない地域からウイルスが持ち込まれる恐れがある。