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映画の分析 -テクストとしての映画(文学批評への招待第5回)

DVDを手に入れて鑑賞するのも面白そう。映画10作品が入っていて2000円くらいDVDがあるので、暇つぶしにも良いかも。

 

野崎歓。濱中博久。映画の分析。テクストとしての映画。小説との関連。小説の映画化作品。映画の独自の点。アンドレ・バザン。3つの視点から。ミメーシスと翻訳。模倣。ミメーシスの歴史。空間と運動。再想像。スクリーンという空間の中での運動。可視と不可視。可視なるものが作り出すが、可視を通して不可視のものを表現。ジャン・ルノワール「ピクニック」。溝口健二「山椒大夫」。
ミメーシスと翻訳。伝統的に芸術を考える際の重要概念。アリストテレス。「詩学」。根幹にはミメーシスが。いずれの場合も対象の再現を目指す。芸術は自然を模倣する。詩や演劇のような文学作品の場合は、人間の行為の再現を。再現においてとりわけ視覚的なリアリティが重視される。近代以前の小説には外見の情報がそれほど盛り込まれていなかった。光源氏。美貌について具体的な描写は一切ない。マノン・レスコーについても。18世紀の小説。マノンは宿命の女性としての。肝心のマノンについて外見が描かれていない。具体的事柄を語るのは下品と感じた?バルザックの小説では細々と描いている。写実主義的小説は主流に。リアリズム小説と同じ時期に写真術が。1827年に映画を。銀板写真。1839年、更に19世紀後半から自然主義のゾラ。センセーションを。動画を如何に記録するかの実験が様々に試みられる。映画興行の嚆矢が。
リアリズム小説と視覚的メディアが同時に立ち上がる。目に見えないものを見えるようにしたい可視化への欲望。眼前の現実をそのまま映し出したい。写真や映画は視覚的再現性への欲求に応える。ミメーシスは自然な傾向。科学的技術によりかつてないやり方で。アンドレ・バザンの「映画とはなにか」。映画の表象芸術論の古典に。自動的なメカニズムの働きによる客観性。信憑性を与える。写真は最も重要な。映画は客観性を時間において完成させる。時の流れを止めたいという感情。死への恐怖を。写真や映画により不合理な願いが実現される。人生の1断片を記録する。時の流れを食い止めたいと。列車が駅に入ってくる光景などが映画に。観客は動く映像に飽きてしまう。記録的側面に物語の要素を。シネマトグラフは。物語映画。文学という映画との関係が成り立つ。長い伝統を誇る文学を最大限に利用する。メリエスによる「月世界旅行」。02年。映画史は文学作品の翻案によって。夏目漱石も映画化によりより知られる。映画化とは一種の翻訳と。ヤコブソンは翻訳は記号間翻訳にまで。映画が生まれる以前にも相関関係は色々あった。挿絵や戯曲化、オペラ化も。映画によりリアルな表現が可能に。映画は描写はしない、その場に居る。パリが舞台の。映画の場合は直接カメラで写す。目の当たりに出来る。ドラマを直に繰り広げることが可能。
映画により如何に翻訳されるか。空間と運動。短編小説を原作に。比較がしやすい。「ピクニック」。40分ほどの短編。小説が映画になるときに何が作り出されるか。モーパッサンの原作「野遊び」。市民の手頃な娯楽に。パリ郊外に出かける。馬車に乗って暫く経つと。都会暮らしの人間にとり憧れに。チャップリンなどに夢中になり、映画史上に残る名作を。敬愛の念がこもる。ルノワールは子供時代の思い出とも結びつける。ボートで川面を滑る。身体的な感覚さえ映画から味わえる。名場面。アンリエットがブランコに。若い男2人に窓から。一緒に前後に揺れる。若々しく躍動的に。窓は原作にはない。ブランコは勢いづく。足は膝まで見える。裾風を。明け透けな描写。映画では鮮烈な印象を。リアリズムから空間の豊かさに。男たちの視線を介し距離を。何かが起こりそうな雰囲気を。ドラマの予感が立ち込める。ボートで出かけたアンリエットと若者が抱き合った後に雨が。原作にはない。原作では男の欲望が下がる。映画では雨で表現。水の激しさに圧倒される。その前のラブシーンには涙が。悲しさを壮大に拡張する。空間の設計や創造は重要な要素。溝口健二。小津安二郎などとともに黄金時代を代表する。「山椒大夫」。原作は森鴎外。母親と離れ離れになった安寿と厨子王の物語。過酷な労働を強いられる。安寿は厨子王を逃し自ら犠牲になる。小説には思い切った省略が。安寿は自ら命を断つが、あえて書いていない。彼女が入水して果てていることを。映画では?スリリングな緊縛した。原作には秘められていたが、目に見えるようにドラマ化。演技を介して身体化。木下チカ。閉域が山の上や高台に。脱出は下降の運動を。映画は敏感に反応。斜面による空間を利用。山の上の閉ざされた世界に。厨子王を逃した安寿を。覚悟に気づくと逃れさせようと決心する。自害する自由を与えようと。縛り付けて山の斜面を。ワンショットで。カメラを止めずに。長回しによる撮影。特徴的手法。絵巻物の影響を。理屈抜きでドラマの成り行きに目を奪われる。苦悩しながらの安寿への水平移動を。呪縛される。途中でカットを割るモンタージュが使われず連続したものとして経験できる。実現されているのは空間的単一性。ドキュメンタリー的現実を。極度の緊張感を共有しながら。それでいて滑らかな。
可視と不可視。見えるものと見えないもの。山椒大夫では死が待っている。一足の藁沓により暗示されるのが小説。映画はそうしなかった。藁沓をクローズアップするのではなく。運動を描くと同時に語り口も再現。沼の水という要素を加える。安寿は沼にたどり着く。セリフのないのに安寿の人生が終わろうと。水の中へと歩みだす彼女の。決然としたと言うか滑らかな。身体は沼へと。次のカットに。もはや安寿の姿はない。同心円の波が。じっと映し続ける。香川京子。腰のあたりまで入ったら取り直しがきかない。用心しながら入る。徹底的に取り直しをする監督には例外的に一発でOKを。見事な完成度。安寿の女性的本質と水との融合が。人物は消えて水の中に溶けてしまう。死は崇高ではあるが死には変わりがない。深い調和の感覚。娘の存在が開かれていく。シーン全体の撮影は?水辺でニッコリと笑みを。ワンテイクでOKになった。さざなみの撮影が。石を投げ込んで?現場では身も蓋もない便法が用いられた?冷静に眺めてみようと考えてもショットに吸い込まれる。さざなみに感動せずにはいられない。シンプルな水の運動に。写っているものを信じる。虚構の世界に入り込む妨げにはならない。映画が不可視なるものに支えられたものと。一つ一つのショットは目に見えないものと絡まっている。さざなみの原因に思いを。自己犠牲を受け止める。映画を見ている時、誰もが映し出されているものとそうでないものの関係性を。豊かな意味作用を持つテキストとして。真摯に読もうとすると楽しむことが出来る。
小説を映画化する。ミメーシス。模倣や再現への欲求。近代以降は再現への欲求が。物語映画は小説の翻訳装置と。映画独自の表現を磨き上げる道へと。空間での運動を。可視化しながら不可視なものを浮かび上がらせる。

 

文学批評への招待 (放送大学教材)

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夢の共有――文学と翻訳と映画のはざまで

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