F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

冷戦体制の崩壊とASEAN10の実現(東南アジアの歴史第13回)

私が生まれてしばらくは東南アジアの情勢はかなり不安定だったことを思い出す。まあ今日でも問題が皆無とは言わないけれど、政情は安定しているのではと思う。ASEANなどの模索の成果であろうと考える。

 

西芳実。冷戦体制の崩壊とASEAN10の実現。主として親米反共路線を前回で。ベトナム戦争の終結後の関係と東南アジア地域の再編。地域枠組みが現実的意味を持つ過程を。
カンボジア紛争をめぐり分裂。インドシナ三国やミャンマーもASEANに加盟。ASEANの意義。60年代の結成は1つの東南アジアへの歩みの始まり。しかし当初は東南アジアが分かれることに。冷戦体制。それぞれの国にとり事情が異なる。東南アジアの分裂が明らかになったのはベトナム戦争が集結しアメリカのプレゼンスが後退した状態でカンボジア紛争が。東側陣営の中国ソ連の対立。地域大国の中国の拡張主義。インドシナが2つに分裂。ASEAN加盟国にとって。新しい地域環境。相互不可侵のASEANの原則が。難民の国外流出の影響。カンボジア問題の為にベトナムが侵攻。相互不可侵の脅威に。内政不干渉の原則などで足並みをそろえるASEANとインドシナ諸国。2つに分けるカンボジア紛争の解決には長い時間が。世界レベルでの冷戦、地域秩序、国内情勢など異なるレベルの問題が。冷戦体制の崩壊を待つ必要があったが、ASEANの役目は過小評価されない。働きかけを続けてカンボジア和平が成立したことはASEANの役割の強化に。10の国の地域としてのASEANに。
東南アジアが2つに別れた過程。インドシナ。75年にインドシナの。中越関係の悪化。ポルポト政権。原始共産主義。飢餓や栄養失調に。同盟者だったベトナムにも敵対的に。中国の支援が。78年11月にソ連と条約を。77年にラオスと条約を。2つの陣営の対立の場に。ASEANは軍事同盟の機能を失っていたが、平和共存の課題に直面。首脳会談で平和共存を提唱。ベトナムとラオスは応じない。ASEANによる構想に対抗。難民問題の深刻化などでインドシナ情勢は混迷に。難民の流出の急増。78年12月にカンボジア紛争を。翌年に中越戦争が。難民の影響。インドシナの共産化の過程で難民が増加。人道的援助はあったが更に増加する。ベトナムからマレーシアやタイへ。ボートピープル。陸路難民。国連は79年にジュネーブで国際会議を。受け入れ枠の拡大を。ベトナムの軍事侵攻と中越戦争。79年にカンボジア人民政府が。中国はベトナム北部地域を攻撃。中越戦争。ASEANにとり中国の脅威を実感。国際社会やASEANの対応。ソ連陣営を除き侵略行為と批判。ASEANも共同声明を。カンボジア人の民族自決権の尊重。国連の平和的解決など。国連でのカンボジア代表権の問題。国連ではポルポト政権に。一方でカンボジアではカンボジア人民共和国が。ポル・ポト派との内戦が。民主カンボジア政府の国民代表権が。ポル・ポト派の大虐殺が明らかに。内戦下のカンボジアでは反革命とされ殺戮。犠牲者は300万人とも。84年「キリング・フィールド」。大量虐殺が行われた場所を意味。ポル・ポト派、民主カンボジア政権に批判が。シアヌーク陛下との連携を模索。反ベトナム闘争を。三派の連合政府に合意。82年6月に民主カンボジア連合政府が。国連代表権は引き続き承認。ASEANの状況。源加盟国の五カ国体制。平和共存を目指したがビルマの鎖国体制などで加盟国は増えず。84年のブルネイは承認される。ASEANは民主カンボジア連合政府の形成に関与。ベトナムの対立を固定化。カンボジアではヘン・サムリン政権が実行領域を拡大。ポル・ポト派はタイ近くに根拠を持つのみ。軍事侵攻で孤立していたベトナムは経済面でもソ連や東欧諸国に依存して、ソ連圏からの経済援助が激減して計画経済も破綻。86年4月、ゴルバチョフ書記長はペレストロイカとグラスノスチ。中ソ関係の改善が。中国との関係改善も模索。インドシナ全域を革命の領域とする意図でインドシナ3国外相会議を。次第にASEAN諸国との対話の提案も。85年には平和共存を。ASEAN諸国との対話を。ASEAN諸国は85年に間接対話方式での開催を。実現はされなかったがその後の和平への影響は小さくなかった。冷戦体制の変化。中ソの和解。米ソ冷戦の終結。カンボジアの国内問題。総選挙の実施などの合意を。当事者や周辺国だけでなく大国の存在も必要だった。地域の当事国の間で調整と合意を。国連がスケジュール管理を。89年にパリでカンボジア和平国際会議が。常任理事国も。日本なども。会議は進展を見ることなく無期限に中断。常任理事国の外相会談。国連の役割の強化や最高国民協議会を。90年にはジャカルタで非公式会談が。90年7月。アメリカが政策転換を。先に3派の連合政府を支持しない、アメリカはベトナムとの対話を開始。ヘン・サムリン政権との対話を模索。90年8月に枠組み合意案。カンボジアを国連統治下に。UNTACが。90年9月にフランスなどの共催でジャカルタで非公式会談が。カンボジア和平が進む。91年5月に停戦が。10月にパリ協定が。92年3月からUNTACによる統治が。翌年に総選挙が。2つの政党が議席を二分。制憲議会が。立憲君主制が。シアヌークが国王に。日本は積極的に関与。UNTACの特別代表には明石康氏が。自衛隊や警察を派遣。東南アジアにカンボジア王国が。
東南アジアという地域のまとまりが保つ意味。ASEANはラオスベトナム・カンボジアビルマが。東南アジアのASEAN化。ASEANを取り巻く環境。85年のプラザ合意の後、円高で企業の進出が。NIES。海外の投資拡大へ。直接投資が増大。工業化を進める。東アジアの奇跡。87年に首脳会議。経済協力で合意。インドシナでは和平に大きな進展が。世界はポスト冷戦期に。世界では欧州連合や北米自由貿易協定など、地域機構の再編が進む。環太平洋という経済協力が。79年以降、ASEAN拡大外相会議を。アメリカやオーストラリア日本の働きかけでAPECが。自由貿易構想。障壁を引き下げて貿易の自由化を。92年には政治安全保障の連携を。域外諸国と。南沙諸島の領有権を巡る問題。ベトナムにASEANとの協力を再認識させる。南シナ海問題は大きな懸念に。南沙諸島に中国の上陸。インドシナ諸国の様子。ベトナムは86年にドイモイ路線を。刷新。市場経済化と対外開放を。グローバル市場に参入するべく法整備を。アメリカと国交を正常化してASEANに加入。ラオスは外国資本の導入が遅れていたが、93年に連立政権を。ミャンマーでは軍事政権が。インドシナ諸国の内政には不安があったが、ASEAN10の実現を優先させる。96年の会談で同時加盟の方針を。カンボジアのASEAN加入は延期される。組織としての特徴。協議全会一致、内政不干渉。ミャンマーの国政には関与せず。カンボジアでは98年に一人首相制へと。ポル・ポト派の消滅。カンボジアの加盟が99年に承認。ASEAN10の成立。
次回は東南アジアの国々の経済成長と民主化、新たな課題へと。

 

東南アジアの歴史 (放送大学教材)

東南アジアの歴史 (放送大学教材)

  • 作者:古田 元夫
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

災害復興で内戦を乗り越える: スマトラ島沖地震・津波とアチェ紛争 (災害対応の地域研究)

災害復興で内戦を乗り越える: スマトラ島沖地震・津波とアチェ紛争 (災害対応の地域研究)

  • 作者:西 芳実
  • 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
  • 発売日: 2014/04/09
  • メディア: 単行本
 

 

 

被災地に寄り添う社会調査 (情報とフィールド科学)

被災地に寄り添う社会調査 (情報とフィールド科学)

  • 作者:西 芳実
  • 出版社/メーカー: 京都大学学術出版会
  • 発売日: 2016/04/12
  • メディア: 単行本
 

 

教育。

1930年11月18日に、「創価教育学会」なる団体が牧口常三郎や戸田城聖らにより設立された。現在の創価学会である。名称に「教育」があり、そもそもは教育改革を目的としていた団体であった。2年前に尋常小学校の校長をしていた牧口常三郎が日蓮正宗に入信し、宗教的な色彩を強めるようになっていった。ところが当時の日本では国家神道が浸透し、他の宗教を弾圧する事態が1945年の敗戦まで続いた。初代会長だった牧口も獄中で亡くなっている。戦後に創価学会は教育界にも進出する。今年の箱根駅伝で総合2位になった創価大学もその一環である。

高槻市の大学病院のCovid-19への対応の報道。

今日は昼のentryまで朝にポストしてしまった。混乱させてすみません。

 

GWは終わったけど、関西圏に発令されている緊急事態宣言はこの11日までだけど、延長する方向で検討されている。働く場所である百貨店が休業になっている身としては解除して欲しいが無理らしい(というかヨドバシ梅田は営業しているしテレワークも進んでいるようには見受けられないが)。

昨日の晩のNHKのNEWSでは、高槻市にある大阪医科歯科大学附属病院が取り上げられていた。このentryの末尾にリンクと報道内容を貼る(NHKの記事は無期限にアーカイブされないので)。14床の重症病棟は全て埋まっている。リンク先にある写真には、ベッドに乗せられ医療従事者数人で運ばれる患者とナースステーションが写っている。それで重症病棟というものが昨日のNEWSでは紹介されたが、一般の病棟を無理やり仕立て上げている。それで14床を確保しているが、一般の患者用のベッドは50床くらい潰さないと無理であろう。病院の集中治療部もCovid-19にかかりきりである模様。この分だと救急患者を受け入れられるのかが問題になる。もちろん、高槻市の他の病院が対応できれば大丈夫な訳であるが。父と姉が脳梗塞で遺伝があるような私にとっては、手の震えなどの前駆症状が起こらないよう祈るしか無い。後は交通事故に気をつけることか。

大阪府内の大学病院 連休中も重症患者の搬送相次ぐ | 新型コロナウイルス | NHKニュース

新型コロナの医療体制が危機的な状況が続く大阪府内の大学病院では、大型連休中も重症患者の搬送が相次ぎ、一時的に増やした病床もすぐに埋まるなど厳しい状況が続いています。自宅などで待機していた人の容体が治療を受けられないまま悪化し、運び込まれるケースが増えていて病院は危機感を強めています。

大阪府では4日の時点で、新型コロナの重症患者は449人に上り、確保している重症病床を上回っていて、中等症用の病院で治療する危機的な状況が続いています。

大阪・高槻市にある大阪医科薬科大学病院は、府の要請を受けてICU=集中治療室とは別に重症病床を今月1日に2床、2日にさらに2床増やしました。

この病院の重症病床は合わせて14床となりましたが、その日のうちにすべてのベッドが埋まり、5日まで満床の状態が続いています。

病院では比較的容体が安定した患者を中等症の病院に転院させることで重症患者を受け入れていますが、大型連休中も病床が空くと、すぐに新たな受け入れを求める電話がかかってきていました。

病院によりますと、“第4波”に入ってからは感染者の急増ですぐに入院できず自宅やホテルでの療養中に容体が悪化し、搬送されてくる患者が増えていて、今月2日の時点では入院中の患者11人のうち半数以上の6人がこうした患者でした。

今月2日に搬送された30代の男性は、感染確認から5日がたってようやく療養先のホテルに入ることができましたが、血中の酸素飽和度が低下するなど症状が悪化しました。

4日後の先月26日になって中等症用の病院にようやく入院できましたが、症状はさらに悪化し、翌日には人工呼吸器が必要な重症状態に陥りました。

重症患者を治療するこの病院に搬送されてきたのは、さらにその5日後でした。

大阪医科薬科大学病院集中治療部の梅垣修部長は「ホテル療養からもっと早く中等症の病院に入院できていたら重症化していなかったかもしれない」と話し、病床ひっ迫による治療の遅れが、重症化する患者をさらに増やしている可能性があると指摘していました。

さらに梅垣部長は「中等症病院でより早く治療を受けられる患者が少なくなっている。中等症も重症も病床がいっぱいとなり、助けられる命も助けられていないのかもしれない」と話し、危機感をあらわにしていました。

立てること。

大抵のヒトは2つの足で手は使わずに立つことが可能である。そして自分の足で歩くことも出来る。いちいち意識はしないけれど、障害があり立つことが出来ない人間も居て、大抵は車椅子で移動する。私がいつも使う駅は1階が改札でホームは2階にあるが、前世紀はエレベーターもエスカレータも無かったので、歩いて移動できない人間は難渋したと思われる。15年前くらいだろうか、大幅に駅の設備を改造してバリアフリー化を実施した。半分以上は行政の補助金を使用したそうで、そのためか鉄道会社の社長自らが視察に訪れているのを拝見したことがある。まあバリアフリー化は費用が嵩むので、津々浦々の駅で出来るかは課題になる。

戦後中国への道程(東アジア近世近代史研究第13回)

アメリカが何故に国民党の支援を無くしていったかがいまいち良く分からない。中国市場はそれほど魅力的ではなかったのだろうか。

 

川島真。戦後中国への道程。日中戦争が第二次世界大戦と繋がり国共内戦に。盧溝橋事件で。4ヶ月かかって南京に。国民政府は重慶に。重慶国民政府。華北全域などを押さえていく。占領地域に傀儡政権協力政権を。華北や長江流域など。日本は旺政権を。大東亜共栄圏の中心的な位置づけを。ハノイなどからイギリスアメリカソ連の援助を。四川省は模範省。総動員体制で。強い軍隊。ソ連の支援。戦いの構図は様々な可能性があった。39年5月からノモンハン事件が。日ソの戦争?独ソ不可侵条約で第二次世界大戦へ。日中戦争と第二次世界大戦がどのように結びついたかが問題。ドイツがフランス占領に基づき北部仏印進駐を。仏印を日本が押さえたことは英米を刺激して三国同盟へ。理由はハノイからの援蒋ルートを絶つ。アメリカは日本に経済制裁を。太平洋戦争に。蒋介石は戦争に勝った意識を。12月9日に日本に宣戦布告。日本の側は重慶政府に宣戦布告していない。四大国の1つに中国が。連合国も沢山あるが。蒋介石は中国軍区の最高司令官に。ビルマルートやアッサム方面からの支援を。連合国の首脳だが、アヘン戦争からの1942年に不平等条約の改正に。43年には治外法権を撤廃。イギリスが積極的ではなかった。香港の植民地やチベットには妥協はしなかった。日本は42年にミッドウェイの敗北。しかし中国前線では優位に。共産党もゲリラ戦を。43年頃に成ると戦後構想を。対日戦争の勝利を確信して賠償などの検討を。1件毎に立案。賠償については戦後は現物の賠償をするが、最終的には放棄。四大国の1つだが一定の役割を。カイロ会談に。国際連合の形成に。ルースベルトが何故四大国に?日本はアジアのための戦争と。大東亜共栄圏は中国のためにならないと。南の方から日本を攻め上げる、中国から日本を攻撃することが可能なら有利に成る。戦争をする上で重要。43年の11月にカイロ会談を。戦後の東アジアの構想が練られる。ソ連についてはスターリンは参加をせず。蒋介石はインドに立ち寄り独立を支援。チャーチルは不満だったが妥協する。プレスリリース。サインがあるような形式ではない。条約協定でもない。ポツダム宣言にも入るしサンフランシスコ講和条約にも引用。中国などは講和条約に加入していないので、中国はカイロ宣言が基準に。日本が日中戦争などで得た領土を返す。台湾澎湖島のような領土が盗んだとされる。朝鮮の人民の奴隷状態に着目。朝鮮の独立を。カイロ宣言。台湾は中華民国の一部。台湾に尖閣諸島が含まれる根拠にカイロ宣言が。日中戦争。8年に渡る。31年に戦争が始まったから15年戦争と。33年で満州事変は終わっているが。対日協力政権の存在。満州国。日本の占領地で協力政権を介して間接統治。当時は反植民地主義の風潮が世界に。間接統治の方がコストが下がる。傀儡政権はコントロール下にあるが。日本の実質的統治。銀行を設立して預合という制度を使い楽に戦費を。アヘンなどで利益を。日本語教育も結構行われた。神社の参拝も。文化人の訪問。西洋的な科学や文明を西洋人が使うと覇権に結びつく?担い手は日本精神が必要。科学性や文明性、日本精神で日本に接近するのを是とする。大東亜共栄圏の一員として包摂しながら境界線を引く。日本人であるが故の優位性。労働徴用も。統治に大きな問題を。植民地でも皇民化の強化。徴兵制。労働者の徴用。広島でも多くの朝鮮人が被爆。慰安婦問題。明らかになっていないこともあり歴史的検証が必要。軍属になり被害にあう。軍人恩給の問題や郵便貯金の補償など。国籍の問題。宗主国の責任。44年になるとドイツも敗色が。日本も戦争継続が難しく。中国はダンバートンオックス会議に参加。45年4月のサンフランシスコの会議。国連を作っていく。そのまま戦後の連合国に。UNITEDnation。常任理事国に。椅子は四大国の証。戦争が終わりに近づくと戦後をにらみながら戦争の終わらせ方を考える。共産党との争い。アメリカとの関係の悪化。戦争で米軍の展開が。戦略的に中国の価値が下がる。大陸打通作戦。ヤルタ会談には中国はなかった。戦後の東アジアの議論は合ったが蒋介石は居なかった。モンゴルの議論を。ソ連の参戦は決まっていたが、原爆投下を。満州侵攻は大変な問題。ポツダム宣言。4つの国が。ソ連が満州を占領して無条件降伏に。台湾でも流れる。モンゴルの独立などの問題。中ソ友好同盟条約。満州の処理権も一旦はソ連に。帰結としてはモンゴルの独立に。満州も共産党に明け渡す。しかしソ連は中国の主権を認める。中国は戦勝国家に。国家建設の礎に。新疆やモンゴルはソ連の影響下に。重慶政府は疲弊。共産党も力を蓄え地方軍閥も。アメリカも国民党は腐敗していると認識。援助を減らす。台湾は国民党の幹部が統治を。満州にはソ連軍。日本人が退いて権力の空白に他国が。統一を回復したいが共産党の勢力を削ぎたい。日本軍の早期接収を求める。一部の人間には中国に残ってもらう。台湾接収だが日本の50年の統治。奴隷化しているとみて厳しい統治を。専売制。厳しい政策が台湾にも。228事件。台湾において外省人と本省人の亀裂に。日本人のBC級戦犯。裏切り者として裁く。日本の戦後構想にも。憲法にも。戦争を目的としない軍隊を持つと危惧。戦後の中国。国民党は厳しい統治を。統一が為されない。援助がなく軍事的にも厳しい。国共対立は満州が鍵。満州を巡る争いが戦争を生む。46年に争いが。国共間では調整が。中国において独裁を止めるべき。憲政に移行を。様々な政党を。中華民国は憲法を作る。憲政段階への移行。しかし共産党は同意せず。憲法は出来たが大きな問題が。どう実施するか。47年12月に施行されたはずだが実行が滞る。一応選挙はやったが機能しない状態に。国民党は独裁政権ではないかと。48年にかけて戦争での面でも共産党が優位に。経済の問題。国民党は経済のインフレを止められず大混乱に。徴兵制。若い男性が逃げていく。共産党は階級闘争を理由に土地の解放を。華北や華中で優位に。49年に入ると蒋介石は下野して。交渉は決裂して南京も陥落。10月1日に中華人民共和国が。北京に政府が出来たのでソ連やインドなどが承認。49年12月に台北に逃れる。中華民国政府。2つの中国政府。現在に至るまで北京か台北か。朝鮮戦争を通してアメリカは台北を。共産党は全国統一に乗り出す。まだチベットにしても西南部にしても国民党の勢力があったが。チベットも統治領域に。まだまだ国民党の勢力は残っていたが。国共内戦は続いていた。金門島の争い。50年代後半になると固定化。内戦がいつまで続いたのかは議論があるが。国共内戦について勝因と敗因を。共産党が劣勢であったはず。清廉潔白と腐敗?戦争である以上、遂行する軍事力が。アメリカの軍事支援が減少、ソ連の援助は続く。武器の面での優位性。国民党の経済政策の問題。インフレで失望。華北においては大地主の土地を貧農に。多くの支持を。宣伝や言説の形成に成功。民主的であり自由であるという印象を作ることに成功。蒋介石は独裁者と。当時は共産党は様々な政党を取り込むことに成功。当初は連合政権だった。その他に国民党の腐敗や共産党の清廉潔白が。憲法の機能が出来ないのが問題。共和制を取らない状態で台湾統治。

 

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)

  • 作者:吉田 光男
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

中国のフロンティア――揺れ動く境界から考える (岩波新書)

中国のフロンティア――揺れ動く境界から考える (岩波新書)

  • 作者:川島 真
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2017/03/23
  • メディア: 新書
 

 

こどもの日の趣旨と内包する?差別構造。

今日5月5日は、日本ではこどもの日で祝日である(なお日本ではGWだが他の国にはそんなものはない)。昔から端午の節句で男の子の成長を祈る日であったので、3月3日のひな祭りは祝日にしないのは男女差別だなどとの主張もあるようである。しかし今の子供の日は女子でも祝いの対象である。祝日法の2条にはこどもの日につき趣旨が以下のように書かれている。

 

「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」

 

つまり今日は母に感謝して「ははー」と平伏さないといけない(いやアクションまで要らないだろ)。それはともかく、父に感謝しないのはどうなのだろうかと思ってしまう。まあ薀蓄はともかく、祝日が1日増えるのだから小売業にとっては有り難い話の筈だが、緊急事態宣言が発出されていて弊店は休業に。去年もGWの後半は営業が出来なかった。宣言は早々に解除して欲しいのはやまやまだけど、医療崩壊の状態を長引かせる訳にもいかない。Covid-19になるのは自己責任かもしれないけど、癌の手術が延期になるのは自己責任とは言わないだろうから。

国際協力NGO:シャプラニール(NPOマネジメント第13回)

NGOの活動にも試行錯誤が必要なことは、友人の活動からも理解できる。サポートができればよいのだけれど。

 

大橋正明。シャプラニールのバングラデシュでの活動。NGOの始まりは経済高度成長期に遡る。初期に形成された72年のシャプラニールを。年間予算2億人以上の中堅規模の。バングラデシュやネパールなどの貧困の問題や福島県いわき市での復興に。半世紀近い歴史で大きな問題が。歴史と現状。失敗とその克服。
協力活動の歴史。何度か深刻な問題に。議論して活動の変化を。問題から学ぶ。72年に設立。シャプラニール。ベンガル語。水面に白や赤の花を咲かせる睡蓮。直訳で睡蓮の家。バングラデシュの国の花。ユニーク。設立の背景には当時の東パキスタンなどが1000人以上の難民を出してバングラデシュの独立。独立直後に日本の大量の耕運機。手伝うボランティアを派遣して欲しいと要請を。共同で組織したバングラデシュへ若者が。耕運機の燃料費が無いので支援が出来ないことが少なくなかった。矛盾を抱えた援助の実際。団員数名は本当に役立つ援助とは何かを考えて9月に結成。最初の失敗。最初の活動はノートと鉛筆を。歩行者天国で募金を集めることを。学校に通い復興の礎に。物を与えるだけでよいのかの議論がある。73年にノートと鉛筆を配布する。飢えた子供に配ることに疑問符。同様の失敗を。現地通信員を派遣して73年に2人が赴く。
417事件。通信員は根拠を解説し情報収集を。誤ってダッカ事務所はシャプラニールと。バングラデシュ人の若手数名にアドバイザー就任を。大洪水。洪水被災地の1つで活動地を選定。8月以降に数名が簡素な事務所兼住所に。村に溶け込むことを。村の寡婦などによる手工芸品の販売などの活動を。数人を雇用するまでに。世界各地に輸出される。フェアトレードの先駆者に。74年に大洪水に。寄付金が多く寄せられる。洪水報道で社会的に注目され多くの人が集うように。選ばれて現地に。新しく派遣された人は軽く思えた。大きな意識の差が。現地の人に溶け込むことが求められていた。自己変革抜きにバングラデシュの変革は出来ない。75年から数年間、意識の落差の議論が。その過程で人が離れる。人々の関心も薄れ寄付も減少。大事件が。77年4月。事務所が住民の襲撃を。議論の核心は原因を巡って。日本人の価値観が問題?駐在員に納得はいかない。村の複雑な人間関係を把握していなかった問題。若い男女が一緒に住むことが理解できなかった?最低限の活動維持が。現地の大手NGOに引き受けてもらう。活動をめぐる模索が続けられる。収入的に困難な時代に。サラリーマン化したスタッフの管理と限界。農村の貧しい住民に的を絞りグループの活動を支援する。現地人のソーシャルワーカーを雇用する形を。貧しい女性たちに社会的意識を。20人前後の小集団を。話し合いなどを。共同貯金は低利で融資をして事業を。公衆衛生状況の改善のために浄化槽型トイレを提供。ショミティーが結成されネットワークが出来て問題に共同行動を。選挙に団結して影響力を。自立が達成されるとの筋書き。4つの地域に集中してそれぞれ100以上が。多くのバングラデシュ人のワーカーを雇用。日本では83年のイベントを機に名称を変更したりスタディツアーをしたり。第一次結成ブームで有給専従のスタッフを増やす。80年代を通じて国際協力を専門とするスタッフが主になる。ショミティー連合体の運営の困難さ。各地で100以上。地域ショミティー連合会。現実には独断専行や不正が。87年に地域ショミティーの連合体を改組する。現地はSmoothになったが住民自身の組織がなくなる。スタッフのサラリーマン化。ショミティーの疲弊。手押し井戸などが設置され持続。しかし段々活動が不活発に。数年後に多くが不活発化したり崩壊したり。限界が。他のNGOの多くも。マイクロクレジットの広がり。グラミン銀行。村人は5人の小グループを作り順番に融資を。貧しい村人はそちらに。ショミティーはますます顧みられなくなる。現地スタッフは150人にも。管理する日本人は若く3年程度で交代するので管理が出来ない。既得権益ができる。97年の末から100名以上が雇用不安からストライキを。最終的には雇用不安を払拭したが。シャプラニールが現地のNGOとパートナーシップ。現地のNGOが多数存在していて分業体制を築く。98年から10年近くかけて現地NGOに。3つの現地NGOとパートナーシップを。ネパールでは一貫して現地NGOと活動。
シャプラニールの現在の協力活動。デルタ地帯の。15年時点で4つの現地NGOとパートナーシップを、貧困対策としてマイクロファイナンスの普及で多様な人へ働きかけを。使用人の保護のアドボカシーキャンペーンを。パブリ。ストライキ騒動で独立してマイクロクレジットを実施。規模の成長を。中洲にある離れ島で通学への働きかけを。ジェージェーエス。07年の台風の被災地で。災害のリスクを低減する諸活動を。児童生徒対象の避難訓練やシェルダーなどの支援。フルキ。基礎教育や家事教育を提供。女の子を雇う雇用主に。少数民族の問題に向き合う。将来的に共存できるように伝承活動とベンガル語の教育に落ちこぼれないように。ネパールでの活動。内戦終了以降政治的混乱が。12年に新憲法の制定。連邦の在り方の議論。復興庁の設立が遅れ地震からの復興が長引く。開発プロジェクトに支障がある?地震前までは洪水対策などの現地NGOとパートナーシップを。アールアールエフ。ネパール最大のNGO。洪水頻発地域で住民組織の防災能力の向上などを。シーウィ。行政の目が届かない児童労働者を減らす。行政職員などへの支援。震災後の復興支援を大規模に。インド。登録を断念して現地NGOを資金面で支援。社会的経済的に取り残されたイスラム教徒などに支援を。災害救援活動。南アジアにおいて。11年の東日本大震災。国内での救援や復興支援を。10年8月のパキスタン大洪水。被災者は国民の10分の1の1700万人以上。調理器具などを。11年1月のバングラデシュの寒波。平均気温が2度以上低く。毛布などを現地のNGOを通じて。東日本大震災。当初は不安だったが福島県いわき市を根拠に。16年まで交流スペースを設けて交流の機会を。避難者向けの情報誌の発行。地元商店の強力でサロンの運営などを。避難者の広域自治会の。クラフトリンクというフェアトレード。手工芸品を購入して収入確保に。日本では通信販売などで。自立的に活動できる土台を。
まとめ。失敗から学び進化する。45年間を。ヘルプを試みるが物資では問題が。今度は村で日本人の活動が困難に。現地の人がエンパワーメントを。ヘルプから協力を。いくつかの壁にぶつかりストライキに。現地のNGOが実施するパートナーシップを。新たなNGOとも。変化を、協力から共生に。自分たちが直面する課題を共に担う。学んだ結果。15年に持続可能な開発目標。途上国の貧困に加え自身の経済の根本的変革を。国際社会の動向を先駆け。海外協力の考え方。先進的なNGOは権利ベースアプローチを採用。ネパールで小学校に通えない。RBAでは権利が守られていない状態と。行政や関係者への働きかけを。直接支援が止まると就学も止まるが、権利が一度守られると就学が維持される。資金と自発性。自己資金で運営しているが、日本政府の資金が多くなっている。外部関係に依存すると資金が集まる活動になりがち。広い意味で多くのNPOにも。

 

NPOマネジメント (放送大学教材)

NPOマネジメント (放送大学教材)

  • 作者:河合 明宣,大橋 正明
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2017/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

バングラデシュを知るための66章【第3版】 (エリア・スタディーズ32)

バングラデシュを知るための66章【第3版】 (エリア・スタディーズ32)