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冷戦体制の崩壊とASEAN10の実現(東南アジアの歴史第13回)

私が生まれてしばらくは東南アジアの情勢はかなり不安定だったことを思い出す。まあ今日でも問題が皆無とは言わないけれど、政情は安定しているのではと思う。ASEANなどの模索の成果であろうと考える。

 

西芳実。冷戦体制の崩壊とASEAN10の実現。主として親米反共路線を前回で。ベトナム戦争の終結後の関係と東南アジア地域の再編。地域枠組みが現実的意味を持つ過程を。
カンボジア紛争をめぐり分裂。インドシナ三国やミャンマーもASEANに加盟。ASEANの意義。60年代の結成は1つの東南アジアへの歩みの始まり。しかし当初は東南アジアが分かれることに。冷戦体制。それぞれの国にとり事情が異なる。東南アジアの分裂が明らかになったのはベトナム戦争が集結しアメリカのプレゼンスが後退した状態でカンボジア紛争が。東側陣営の中国ソ連の対立。地域大国の中国の拡張主義。インドシナが2つに分裂。ASEAN加盟国にとって。新しい地域環境。相互不可侵のASEANの原則が。難民の国外流出の影響。カンボジア問題の為にベトナムが侵攻。相互不可侵の脅威に。内政不干渉の原則などで足並みをそろえるASEANとインドシナ諸国。2つに分けるカンボジア紛争の解決には長い時間が。世界レベルでの冷戦、地域秩序、国内情勢など異なるレベルの問題が。冷戦体制の崩壊を待つ必要があったが、ASEANの役目は過小評価されない。働きかけを続けてカンボジア和平が成立したことはASEANの役割の強化に。10の国の地域としてのASEANに。
東南アジアが2つに別れた過程。インドシナ。75年にインドシナの。中越関係の悪化。ポルポト政権。原始共産主義。飢餓や栄養失調に。同盟者だったベトナムにも敵対的に。中国の支援が。78年11月にソ連と条約を。77年にラオスと条約を。2つの陣営の対立の場に。ASEANは軍事同盟の機能を失っていたが、平和共存の課題に直面。首脳会談で平和共存を提唱。ベトナムとラオスは応じない。ASEANによる構想に対抗。難民問題の深刻化などでインドシナ情勢は混迷に。難民の流出の急増。78年12月にカンボジア紛争を。翌年に中越戦争が。難民の影響。インドシナの共産化の過程で難民が増加。人道的援助はあったが更に増加する。ベトナムからマレーシアやタイへ。ボートピープル。陸路難民。国連は79年にジュネーブで国際会議を。受け入れ枠の拡大を。ベトナムの軍事侵攻と中越戦争。79年にカンボジア人民政府が。中国はベトナム北部地域を攻撃。中越戦争。ASEANにとり中国の脅威を実感。国際社会やASEANの対応。ソ連陣営を除き侵略行為と批判。ASEANも共同声明を。カンボジア人の民族自決権の尊重。国連の平和的解決など。国連でのカンボジア代表権の問題。国連ではポルポト政権に。一方でカンボジアではカンボジア人民共和国が。ポル・ポト派との内戦が。民主カンボジア政府の国民代表権が。ポル・ポト派の大虐殺が明らかに。内戦下のカンボジアでは反革命とされ殺戮。犠牲者は300万人とも。84年「キリング・フィールド」。大量虐殺が行われた場所を意味。ポル・ポト派、民主カンボジア政権に批判が。シアヌーク陛下との連携を模索。反ベトナム闘争を。三派の連合政府に合意。82年6月に民主カンボジア連合政府が。国連代表権は引き続き承認。ASEANの状況。源加盟国の五カ国体制。平和共存を目指したがビルマの鎖国体制などで加盟国は増えず。84年のブルネイは承認される。ASEANは民主カンボジア連合政府の形成に関与。ベトナムの対立を固定化。カンボジアではヘン・サムリン政権が実行領域を拡大。ポル・ポト派はタイ近くに根拠を持つのみ。軍事侵攻で孤立していたベトナムは経済面でもソ連や東欧諸国に依存して、ソ連圏からの経済援助が激減して計画経済も破綻。86年4月、ゴルバチョフ書記長はペレストロイカとグラスノスチ。中ソ関係の改善が。中国との関係改善も模索。インドシナ全域を革命の領域とする意図でインドシナ3国外相会議を。次第にASEAN諸国との対話の提案も。85年には平和共存を。ASEAN諸国との対話を。ASEAN諸国は85年に間接対話方式での開催を。実現はされなかったがその後の和平への影響は小さくなかった。冷戦体制の変化。中ソの和解。米ソ冷戦の終結。カンボジアの国内問題。総選挙の実施などの合意を。当事者や周辺国だけでなく大国の存在も必要だった。地域の当事国の間で調整と合意を。国連がスケジュール管理を。89年にパリでカンボジア和平国際会議が。常任理事国も。日本なども。会議は進展を見ることなく無期限に中断。常任理事国の外相会談。国連の役割の強化や最高国民協議会を。90年にはジャカルタで非公式会談が。90年7月。アメリカが政策転換を。先に3派の連合政府を支持しない、アメリカはベトナムとの対話を開始。ヘン・サムリン政権との対話を模索。90年8月に枠組み合意案。カンボジアを国連統治下に。UNTACが。90年9月にフランスなどの共催でジャカルタで非公式会談が。カンボジア和平が進む。91年5月に停戦が。10月にパリ協定が。92年3月からUNTACによる統治が。翌年に総選挙が。2つの政党が議席を二分。制憲議会が。立憲君主制が。シアヌークが国王に。日本は積極的に関与。UNTACの特別代表には明石康氏が。自衛隊や警察を派遣。東南アジアにカンボジア王国が。
東南アジアという地域のまとまりが保つ意味。ASEANはラオスベトナム・カンボジアビルマが。東南アジアのASEAN化。ASEANを取り巻く環境。85年のプラザ合意の後、円高で企業の進出が。NIES。海外の投資拡大へ。直接投資が増大。工業化を進める。東アジアの奇跡。87年に首脳会議。経済協力で合意。インドシナでは和平に大きな進展が。世界はポスト冷戦期に。世界では欧州連合や北米自由貿易協定など、地域機構の再編が進む。環太平洋という経済協力が。79年以降、ASEAN拡大外相会議を。アメリカやオーストラリア日本の働きかけでAPECが。自由貿易構想。障壁を引き下げて貿易の自由化を。92年には政治安全保障の連携を。域外諸国と。南沙諸島の領有権を巡る問題。ベトナムにASEANとの協力を再認識させる。南シナ海問題は大きな懸念に。南沙諸島に中国の上陸。インドシナ諸国の様子。ベトナムは86年にドイモイ路線を。刷新。市場経済化と対外開放を。グローバル市場に参入するべく法整備を。アメリカと国交を正常化してASEANに加入。ラオスは外国資本の導入が遅れていたが、93年に連立政権を。ミャンマーでは軍事政権が。インドシナ諸国の内政には不安があったが、ASEAN10の実現を優先させる。96年の会談で同時加盟の方針を。カンボジアのASEAN加入は延期される。組織としての特徴。協議全会一致、内政不干渉。ミャンマーの国政には関与せず。カンボジアでは98年に一人首相制へと。ポル・ポト派の消滅。カンボジアの加盟が99年に承認。ASEAN10の成立。
次回は東南アジアの国々の経済成長と民主化、新たな課題へと。

 

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