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ベトナム戦争(東南アジアの歴史第10回)

なぜベトナム戦争でアメリカが敗北したのかは突っ込んで考える価値があると思う。

 

古田元夫。日越大学。ベトナム戦争。冷戦時代に局地戦争として大規模なもの。ベトナム戦争の展開。ベトナム戦争のベトナム側の戦時体制を支えた社会主義。米国のベトナム関与の要因を。
ベトナム戦争の前史。インドシナの勢力とフランス。54年までの間のインドシナ戦争。45年9月2日にホーチミンが独立宣言。認める用意はなかった。ベトナム民主共和国との戦争。抗仏戦争。宗主国が独立の用意がなかった例。インドネシアの独立戦争。80万人以上の死者。50年にはインドネシアの独立が。インドシナ戦争は54年まで長期化。ホーチミンを始めとする共産主義者。49年の中華人民共和国の成立で冷戦の対立構造に巻き込まれる。アメリカはフランスを支援。ソ連や中国の支援も。ベトナム民主共和国。54年のジュネーブ協定。ディエンビエンフーの戦いでフランスが降伏。植民地支配の終焉。大国主導の会議。中国ソ連の圧力で二分に。北緯17度線。ベトナム民主共和国とフランスの支援を受けたベトナム国。ベトナムは一時的に南北に分断。克服しようとして勢力と米国の介入。縄張り。ベトナム共和国。南ベトナム解放民族戦線。ベトナム労働党。反米勢力。共産主義者の。ベトナム共産党。
何時から何時までの戦争?現代のベトナムでは抗米救国戦争。54年のジュネーブ協定調印から65年初頭。南ベトナムの対立が。60年の南ベトナム解放民族戦線の誕生。60年までは南の政権が安定。しかし各地で反乱。脆弱性を露呈。61年からは米国の軍事的介入。大量の軍事顧問団。政府軍が解放軍のゲリラと戦う。現地政権の軍隊を全面に。特殊戦争。ディエム政権は独裁的に。63年には仏教徒の運動。11月にクーデタ。軍事政権は安定せず。労働党では南の政権を追い詰めるべきだと強硬派が。北を叩くためにトンキン湾事件を。北ベトナムへの爆撃。局地戦争にエスカレート。65年から73年まで。68年のテト攻勢。米国が期待した情勢の好転はなく。65年2月には北爆を開始。3年には南ベトナムへの部隊投入。ベトナム戦争は最大の局地戦争に。超大国が直接参戦。世界大戦にはならず一定の地域に限定。68年のテト攻勢までは米国も大量の部隊の投入を拡大。最大事には50万人の兵力を。北爆もハノイにまで拡大。北は多大な犠牲を出すが。68年の旧正月の攻撃。テトは旧正月を意味。衛星中継で大々的に報道。上手くいっていないことが分かる。米国の関与の縮小をせざるを得ない。都市攻撃で北にも大きな人的損害が。パリでの和平協定の73年1月まで。69年に誕生した米政権は戦争のベトナム化を。隣国カンボジアに拡大したり中華人民共和国と接近したり。北は一時的に苦境に陥るが、カンボジアで有利な情勢になると立ち直り、72年には軍事的攻勢を。パリ和平協定が調印。米軍の撤退。パリ協定から75年2月の南の政権の崩壊。南ベトナムで政権の弱体化が。米国民のベトナム離れ。米軍の再介入は実現せず。ベトナムの南北分断は克服される。隣国のラオスカンボジアにも大きな影響が。山岳地帯を武器の補給路として重視。ホーチミン・ルート。爆撃を受けて戦争はラオスやカンボジアにも。ラオスは連合政権の試みが。戦争激化で崩壊。75年、ラオスでもラオス人民共和国が。カンボジア。シアヌークは中立政策を。ベトナム戦争で反米的な傾向を。軍部の反発。70年にクーデタ。カンボジア領にあった安全地帯を破壊するためにカンボジアに米軍が侵攻。シアヌークは左派と手を組む。人民軍部隊の投入。75年4月に右派軍事政権は崩壊。76年に民主カンボジアが。
超大国が小国に敗北。何故?国力全てを注ぐ戦いではなかった。社会主義政権が核兵器を。核戦争になる可能性が高い世界戦争を戦うつもりはなかった。朝鮮戦争のように中国の介入で多大な損害を出したくなかった。北進で中国の介入を。地上軍は南に限定。中国の軍事介入を防ぐ。米軍の実力は充分発揮できなかった。火力や機動力で押し込むのが得意だったが、ゲリラを相手にした戦いをせざるを得なかった。消耗戦略を採用したが、北は補うことが出来て有効に機能しなかった。北にも制約が。北朝鮮が軍事境界線を越えたことが米軍の介入を。当初は南ベトナム内部の勢力が追い詰めることを前提に。63年に南の政権の危機が。実際には北の軍隊の南への投入。米軍の死者は5万8千人。高すぎた犠牲。全ての犠牲者は300万人。戦闘者だけでも100万人。実際の南ベトナムの地上戦で米軍は苦戦。火力と機動力に対する戦い。山岳地帯やジャングルに陣地を。大舞台をおびき寄せる。小規模なパトロール隊を相手に。5分が勝負。白兵戦であれば地理を知る側が優位に。平野部の守備が空くのでゲリラが。前進が感じられない。平野と陣地の往復で死者が増える。戦争の強度が高まり北にも犠牲が。大国は世界戦争の勃発を懸念すること無く最新兵器を投入する。強度は明らかに増大。総爆弾の総量は膨大。枯葉剤。内陸の熱帯雨林やマングローブの破壊。ダイオキシンなどの毒物も。世代を越えた被害が深刻な問題に。
社会主義という側面。30年からのソ連型社会主義、北ベトナムなどにも広がる。ソ連が崩壊し、中国やベトナムでも脱却が。否定的側面が強調される。ベトナムの勝利には貢献したが。国際的側面。南には多くの国が参戦。北には社会主義諸国の支援。地上軍は派遣しなかったが防空戦で役割。世界戦争を避ける理由にも。北ベトナムのソ連型社会主義。消耗戦略を機能させず、補給が。北から南への人員は230万人。北の人口は2000万人だった。総動員体制は工業化が進んで初めて機能する。農業国で戦争動員を可能にしたのが集団農業体制。30年代のソ連で。合作者という協同組合。集団化された農場で働く。大規模すると生産性が上がる。社会主義国では充分な機械が必要。どこでも農民の抵抗が。60年代からべトマムでは本格的な集団農場に。メリットを示すのは困難。ベトナム戦争への緊張が合作社に。保育所などで女性は農作業に、集団作業に。平等な配分。戦争には男性が。食べられる。貧しさを分かち合う。経済的弱点の克服が困難に。
ベトナム戦争に何故アメリカが関与したのか。米国はベトナムに権益を持っていない。70年代に油田は見つかったが。東南アジアという地域が世界戦略に重要性を。植民地だったフィリピンを除くとあまり関心はなかった。49年の中華人民共和国の成立。影響力の波及を食い止めないと東南アジアが共産化に。最大の市場の中国を失う。日本の経済再建の役割を南アジアが。ベトナムインドシナ。共産化すると東南アジアが共産化に。日本にも脅威がさらされる。ドミノ理論。日本の経済発展を支える東南アジアは定着しなかった。60年代から実体化。重化学製品の市場に。相互補完的関係が形成。50年代末から60年代なかばまでの東南アジアの情勢は流動的。61年に会議。マレーシア連邦を巡って対立が表面化。インドネシアでも共産党の勢力が。米国にとって情勢は流動的だった。東南アジア全体への影響が揺らぐ可能性が。流動性そのものは930事件の結果、親米反共政権が。政治的安定と経済の発展に見通しを持てるには時間が必要。70年代には東南アジアは開発の時代に。ベトナム戦争は長い対外戦争になってしまった。

 

東南アジアの歴史 (放送大学教材)

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