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各論10・戦後のアメリカ化(日本政治思想史第13回)

国立にある大学に進学しようかと考えていたことが高校時代にはあったことを思い返す。

 

原武史。戦後のアメリカ化。最後の3回で戦後の政治思想史を。敗戦で日本は連合国軍の占領統治。米軍などが進駐。最大の部隊は米軍。マッカーサーが厚木基地に。9月にはGHQの本部が日比谷に。マッカーサーは51年4月まで最高司令官に。アメリカ大使館との往復。地方も皇居も訪れず。45年9月に昭和天皇をアメリカ大使館に呼んで会談を。先立ち撮影された写真が新聞に一斉に掲載。マッカーサーの横に天皇が。小さな。視覚的に際立ってしまう。明らかに見劣りがする。国民に大きな衝撃を。GHQは非軍事化と民主化を。陸海軍に代わる連合国軍の軍隊を全国各地に進駐う。主力が米軍。戦後のアメリカ化は民主化と駐留という相容れない2つの側面で。昭和前期の皇居前広場には天皇がしばしば現れる。儀礼が様々に行われる。日本で最大の政治空間。占領期になると米軍を中心とする連合国軍がパレードの部隊として。親閲式では天皇が台の上に。パレードではGHQ本部をバックに。権力の中心が逆に。連合国軍は確立された天皇制の視覚的支配を受け継ぐ。昭和にかけて活躍した徳富蘇峰。熱海に蟄居。日記に米軍への嫌悪感を。講談社から終戦後日記を。神聖な場所。明治天皇のご回復を人々が祈る。外国兵のパレードなど。今上天皇を無視しているかの如き。明治以降の皇居前広場を知る徳富蘇峰からすれば天皇を無視したものと。しかしごく少数。これも自然の趨勢。逆らうことは出来ないという感覚。連合国軍の進駐に対する抵抗や反乱は全くと言ってよいほど無かった。もっぱら小説のテーマに。高橋和巳や三島由紀夫の小説。他方でGHQは民主化を進める。大日本帝国憲法の改正。昭和天皇の退位も認める。政治的判断。マッカーサー草案。象徴。国事行為のみを。天皇制の維持と政治的権力を失ったはず。昭和天皇の憲法意識は根本的な改正を感じず。万世一系の天皇という大日本帝国憲法に規定された揺るぎなき意識。21年元日の人間宣言。五箇条の御誓文。民主主義は与えられたものではなく五箇条の御誓文に。日本国憲法も受け継ぐという意識。天皇の地位では国体の象徴で良いと。改正されても皇室典範は戦前をかなり踏襲。男系の男子。宮中祭祀も。内奏という習慣も。確かに憲法改正で権力は否定され狭い枠組に制限?実際はそうではない。戦後の天皇制との連続性。GHQの主導で憲法改正や民主化が。しかし見解の相違。一般市民の方が即応し民主主義を学ぼうとする。三島市の庶民大学三島教室。既存の学校と異なる自発的勉強会。丸山眞男も招かれる。回想録。民主主義とは?その疑問。民衆の真剣な質問。表情。内発的なデモクラシーの萌芽が。占領期の時代が明治初期の時代と共通しているかのような空気を。図らずも福沢諭吉が生きていた時代を追体験。自発的な勉強会は全国に。自由民権運動との共通性。GHQの教育改革。自発的な勉強会は急速に消滅。民主主義とは?を学びたい熱気が薄れる。民主主義の教育は制度化された学校が担う。丸山眞男もわずか3回。吉本隆明の批判。丸山眞男には大衆を啓蒙の対象として客体的に見るのではなく大衆そのものを見なければ。強い自負が吉本隆明にはあった。実業家の小林一三の民主主義観。小林一三は阪急という会社を創業したときから大衆を意識したビジネスを発案し実行。両義性を孕むものとして。平和や自由民主主義を基本的に。個人主義の悪いところが。教育の帰着点がはっきりしない。個人の自由を認めるだけでは利己主義が横行する。注目したのが茶道。茶道を大衆化して個人本位の態度を改めて。日本の伝統と結合することで下からの民主主義が培養。新茶道。著書も記す。行儀作法を利用。ビタミンC。電車に乗るとき醜態を演じることがなくなり公徳心が発達する。質素倹約の。書物や説教や学校において納得しても実行の機会が無いので空論に終わりがち。精神を具体化するのは茶道唯一。かなり具体的プログラム。茶道師範。神社や寺を寺子屋的に。社務所を会場に。小林一三はエリートが大衆を教える勉強ではない。民主主義の身体化。礼楽に通じる。結果的には茶道界でも無視。大衆化は結婚前の花嫁修業の形で進む。
反米としても民主主義。サンフランシスコ講和条約と同時に日米安保条約が。米軍の駐留。占領期のアメリカ化。米軍の進駐は変わらずに残る。米軍の駐留で空気が乱れる。立川市。飛行場が立川基地に。朝鮮戦争で米軍兵が増加しパンパンも。隣接する地域では計画的な街だが空気の乱れを一掃する浄化運動が。52年には3分の1が文教地区に。様々な勉強会が自発的に。議員も輩出。反米的性格を持つ民主主義が下から。トクヴィルが「アメリカのデモクラシー」。東海岸のニュー・イングランドの地方自治。イギリスにもない。住民がタウンに愛着を。強力で独立。経営に参画する。住民はタウンに野心と将来を賭け社会を治めようと。国立市にも。54年3月。水爆実験から原水禁運動が。杉並区が拠点に。国鉄中央線沿線に反米的な。57年には自民党の岸内閣が。日米安保条約の改定に乗り出す。岸信介にはアメリカからの自立を。対米従属をより強め戦争に巻き込まれる可能性を高める。反対勢力。日本社会党など。中央線沿線の知識人。清水幾太郎。新左翼。無党派の市民団体。ほぼ各駅ごとに。50年代に育まれた市民運動が継承されていく。60年5月に新安保条約を強行採決。1ヶ月後に自然成立。岸信介内閣は総辞職をして池田勇人内閣が。政府自民党は改憲を封印して経済成長路線に。60年11月の総選挙では自民党が圧勝。反面で反米運動は続いていく。盛んにしたのはベトナム戦争の勃発。65年2月から北爆が開始。ベトナム反戦運動が。4月にはベ平連。
奥田愛基。15年から16年にSEALDs。一橋大学大学院で政治学を専攻。一橋大学が国立にある。大学院に進学してから通う。国立の街の印象。高いビルがなくて昔からのカフェや本屋が。道で無農薬の野菜を。喫茶店ではおばさんが本を開いて丸山眞男が云々。英語専門の本屋。日本では大学を中心とした学園都市は珍しい。イギリスのオックスフォードやケンブリッジ。大学内でも地域の人が絵を描いていたり。街の中心に大学が。中央線の沿線。関東大震災の後に人口が東から西に。沿線の宅地化が。国立が学園都市になるのは昭和初期にかけて。元々は国立という地名が無かった。都心に通うサラリーマンが住む。東京商科大学だけではなく大学が出来る。大学生が住む。戦前には近衛文麿など政治家や軍人が。宇垣一成の別邸が。北一輝などの国粋主義者。作家。戦後になると丸山眞男や竹内好など学者が。駅前に喫茶店や古本屋や雀荘や映画館など。沿線は無党派的。一つのイデオロギーに染まらない。様々な党派がある。市民的政治風土が育まれる。何処かの政党が強いわけではないが、ハイ・ソサエティというか。高円寺から反原発運動。今日に繋がる。中央線は京浜工業地帯から米軍の立川基地や横田基地へ貨物列車が。立川に隣接する国立だけではなく、米軍の基地があるという感覚が沿線共通に。基地の存在を視覚的に認識。朝鮮戦争やベトナム戦争の戦争が意識を増幅。貨物列車が頻繁に。普通の列車の合間に日常的な風景に。私鉄の場合はあまりないもの。燃料輸送の貨物列車が事故を起こしたり。60年代後半の新宿など。知れ渡る。自分たちの街なのに。反米的民主主義を根付かせる。上から押し付けられた客体的な。反米になるがゆえの民主主義。民主主義とは何なのか?皮肉な結果。GHQとして反米的になるとは予想していなかった。民主主義を広げていく使命を帯びたが50年代後半以降の中央線沿線では逆。民主主義が押しつけられた?一方でトクヴィルが言うような街が作られる中で民主主義が。誰の街なのか、自分たちで決めたい。歴史は一つの沿線の中でも異なる。