F-nameのブログ

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元気。

「がんばれ元気」という漫画をご存知の方は、相当に歳を取られているだろう。私が小学生の頃に少年サンデーで連載されていたボクシング漫画である。小山ゆう先生の作品で、「あしたのジョー」に次ぐボクシング漫画である。その後にも踏襲されるハングリー精神に溢れる作品だったように記憶している。近所の書店でサンデーを立ち読みするくらいしか出来ていないけど。総合格闘技で名を馳せた須藤元気氏の名前の由来でもある(流石に彼は知っている人が多いだろう)。お父様が「がんばれ元気」のファンだったことから名付けたとのこと。

課題図書が来襲した件。

今年も読書感想文コンクールの季節が。

読書感想文全国コンクール公式サイト

例によって課題図書である旨の帯がつけられた書籍が来襲?した。弊店で最初に処理する役だったので眺める。かなり面白そうな内容のものも結構ある。しかしながら、当の青少年(小1から高校生まで範囲は広い)はどのように感じているのだろうか。私の場合は、読書感想文を書いた記憶は無い(単に忘れただけだと思う)。そもそも感想文を書く為に読書をすると言うのにも違和感が。ただ最初は強制的な動機でも、読書が面白くなる経験をされた方もいるのではなかろうか。大人でも青少年になったつもりで紐解くのも良いかも。なお上記の公式HPの内容はかなり面白そうである。

幻の私小説家・藤澤清造(放送大学特別講義)

藤澤清造はともかく、西村賢太氏の小説は読んだら面白いかもしれない。

 

藤澤清造。西村賢太。苦役列車を始め多くの私小説を。自分の身辺に題材を取った。全くのノンフィクションとは違い。小説が入るので小説。自分が経験したことを書くが100%そのままではない。藤澤清造。普通に大正時代に活躍した私小説家。根津権現裏。忘れられた存在とされた。23歳の頃に日雇い労働の帰りに古書店に。早稲田か本郷など。そのうち一巻に根津権現裏が。興味本位に立ち読みして面白そうだったので買って読んでいた。大正時代の匂いが。時代への怒りが。普遍的なところが。共鳴できるが、抄録もので半分くらい削られていた。6年後に生活は更にひどくなり、酒を飲んで暴力をふるい四面楚歌に。落ち込んで苦しいんで根津権現裏の世界を思い出して読み直してのめり込む。明治22年に能登地方で生まれる。10歳で丁稚奉公に。印刷所などで働き出す。足で骨髄炎に。満足に手術が出来ず足を引きずる後遺症を。数えで18歳で上京。港湾労働や書生などを。東京へはどういう目的で?姉を頼るつもりで。最初は俳優志望。旧劇を。縁故を伝ったが足のせいで絶たれる。その代わりに文士に切り替える。演劇雑誌に勤め始める。多くの随筆や評論を書く。22歳から10年。大阪の兄の家に居候する。半年かけて書いたのが根津権現裏。東京に行きアチコチに持ち寄って出版。場所としては東京大学に近い。舞台は大正元年の東京。一人称で。足に骨髄炎を病む。未来の希望がない状態。ただ一途に金が欲しい。金があれば今から飛んでいって名医の診察を。入院や手術も。窮迫していては容易ではない。誰一人会って力になってくれる人は居ない。窮状を訴えるところもない。段々苦痛が加わり歩行が自由にならなくなったら。あの区役所に泣きついて相談するしか無いと。墓の中に入るような。主人公の状況を。カネがない。骨髄炎に。数え切れないくらいくり返される。区役所に手当を。今で言う生活保護?この頃はレベルが違うかもしれないが今でも貧困が。主人公である私には親友がいる。親友岡田が死んだという知らせ。鮮血。どす黒い。死に様がはっきり見えてきた。操られているように変に歪めて足を突っ込んで。岡田の下宿へと。岡田の兄が。自殺であり入院していた精神病院のトイレで。下宿で岡田の兄と私が会話。時々に回想が。基本的に堂々巡り、岡田の死も貧困が原因に。自分の下宿に帰り着いて終わる。岡田は微笑をたたえて私を。目を閉じてしまった。しばらく頭を左右に。感じられるのは足の疼痛。身を刺し貫く。蜂の巣のように。苦しみの雫がたらたらとそこいらいっぱいに流れる。上野の鐘が鳴り出す。いかにも静かに聞こえるが、悲しく聞こえる。膿汁の音と一緒に。いつまでもそのままにじっとしている。恐ろしい最後を待つように。代表作の最後のシーン。単語レベルでの影響をかなり受けている。発見が。この小説は足が辛いというところから始まり同じところで終わる。新しいステージに、というのがよくあるが、最初から一周りして最後は同じところで終わる。苦役列車も同じところに。変に作り込まないのがリアル。骨髄炎。作者と一緒。一応は足を変えていてずらす。名前も少し変えたりする。現実そのままではないが。大雑把にいって私小説。書かれていることはフィクションもどきだが。実際に親友も自殺している。私小説である根津権現裏。路面電車に乗っているシーン。ふくよかな前髪の女性が座っている。特色は目。切れの長い。エメラルドや磁石のように。その目は男の胸に。喜ばせてくれる。じっと見ていると私の胸に。別れた女性の面影が。その目つきが不思議なくらい似ている。今しがた通ってくる間に心持ちを深く思い返させる。これから雨に打ち濡れて部屋に帰ると独り寝しなければならない。電車の下敷きになって殺されたいと。しかし路面電車は先に駆けるのみ。自分の無力さ。時代背景が大正元年。東京は路面電車が多く。和服の人もまだ多い。貧しいが身なりはきちんとしてようとダンディズムな。カッコよさを。描写にこだわりを。吉原の女性と付き合っていた。当時の風俗が分かる。満たされることのない鬱屈したエネルギー。衝動にかられながら人間として踏みとどまる。実際に実行して刑務所に。それも出来なければ自決するか、さもなければ不自由がしないよう成功する。いつまでもエネルギーを持ち煩悶する。一口に言うと絶望とレジスタンス。電車に乗りながら転覆すれば良いと、アナーキーにもなれないが。上手く小説的な展開を。考え込んで作っている。文体も癖がある。当時として古臭い独自の。アクが強い。森鴎外の作品も読み込んで。向学心を持っていた。主人公の私は団子坂を。森鴎外の家があった。ご近所さんだった。好きだから近くに?森鴎外の葬儀には行っている。すれ違っていた?江戸川乱歩の作品の背景を。戯作者の精神。小説に出てくるセリフや言い回し。昔の落語の言葉や江戸時代の。かなり突出しているので受け付けない人には無理。江戸時代のエンターテインメント。180度違う?融合はしている。一種の自然主義。一般的な私小説とは違うところに注目して欲しい。辛いことが描かれているが、掛け合いの部分では笑わせる。落語に通じる。単に隠逸した作品から脱却できない。所々におかしさがある不思議な小説。根津権現裏。売れ行きはあまり良くなく。翌年に関東大震災が。飛び回りルポルタージュを。独自の視点が。今で言う風俗街の焼け死んだ人を。重点的に記す。当時としても異色。売れっ子作家?1年位は。短い。文芸誌にもゴシップが書かれる。注目される存在。1年後には小説自体も面白くなく落ち目に。消えていってしまった?菊池寛と仲違いして文藝春秋にも書かせてもらえなかった。我が強いので仲違いを。反菊池寛の雑誌には描いていたが。短編でも治療費の捻出と金の貸し借り。たまには遊ぶ金を親族に断られて。貧困と病気にほぼ尽きる。私小説から離れようと様々な試みはしたが付け焼き刃。プロレタリア文学にも通じるはず?いかんせんイデオロギーがなく個人の怒りだけで先細りに。その分は等身大だが。その後の人生。段々小説が売れなくなると内縁の妻と暮らすように。既に性病にかかっていた。治療費がかさみますます困窮に。生活上も離れる。昭和6年に性病からか不可解な行動に。暴力もあり昭和7年に行方不明に。結局は凍死。近年は再評価が。今後の受容のあり方。意外なほどに現在の読者に受けている。短編集も出してもらえる。かなり面白がってもらえているが、現在とイコールでもない。現在と結びつけたくない。質が違う。結びつけると安っぽくなってしまう。個人的な思い込みで読んでもらいたい。価値を感じる人が読みつがれるのが小説。読む人を選ぶ作家だが貴重な人。

 

根津権現裏

根津権現裏

  • 作者:藤沢清造
  • 出版社/メーカー: 聚芳閣文芸部
  • 発売日: 1926/01/01
  • メディア:
 

 

 

根津権現裏 (新潮文庫)

根津権現裏 (新潮文庫)

  • 作者:藤澤 清造
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2011/06/26
  • メディア: 文庫
 

 

 

藤澤清造短篇集 (新潮文庫)

藤澤清造短篇集 (新潮文庫)

  • 作者:藤澤 清造
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/02/27
  • メディア: 文庫
 

 

 

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

  • 作者:西村 賢太
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2012/04/19
  • メディア: 文庫
 

 

熱狂。

昨春からのコロナ禍については誰もが語っている。今頃は2020年に東京でオリパラが行なわれて、それを踏まえて24年のパリのオリパラにつき語っている筈であった。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大で、20年のオリパラは1年延期になった。今にして思えば2年延長した方が良かっただろうが今更どうしようもない。それで現時点でオリパラは無理にでも開催する方向である。ある大臣は、パンデミックの元で開催されるモデルケースになると語っている。しかし、そもそもパンデミックの状態でオリパラのような巨大なイベントをするのは無理とは考えないのだろうか(デジタル庁のトップになるそうだが先が思いやられる)。世論調査ではオリパラを中止にすべきという意見が強い。元々は日本人はオリンピックが大好きな国民であるから、感染拡大が無ければ熱狂して迎えていたのだろうけど。

5月の売上高と来店されたお客様の数。

弊店が入居している百貨店では、毎月1日に朝礼が行なわれる(確か以前にも書いていると思うが)。コロナ禍の前は従業員を一堂に集めて行なわれていたが、今は密を避ける為に放送で実施される。今年の5月の売上高を今年3月と比較すると、50%を上回った程度であると話があった。更に来店客も50%を少し超えたそうだ。他のターミナル駅近にある店舗は80%ほど売上高が減少している。これは入っている店舗が小さくてデパ地下の食料品売場(5月でも営業をしていた)の比重が高いのが違う原因であろう。無闇に店舗を広くするのは考えものなのかもしれない。しかし小売業に従事する人間としては売場が大きい方が張り合いがある(その分大変になるけど)。上手くbalanceを取ることが必要。

編集者漱石(2)朝日新聞の時代(放送大学特別講義)

漱石を基点にして各々の作家を読み進めるのも面白そうに感じる。

 

長谷川郁夫。草光俊雄。編集者漱石。朝日新聞の時代。前回は編集者子規を中心に漱石と子規との交流を。編集の魅力を学ぶ。子規との切磋琢磨の中で作家として核みたいなものを成長させる。倫敦での英文学との格闘の中で文学を築き上げた。子規への思いが込められている。いよいよ漱石が作家として公にデビューして朝日新聞に入り編集者としても活躍。
編集者としての側面で漱石の足跡を。子規と共にあったと。野上弥生子への漱石の手紙。漫然と世に住むは住まぬと同じ。作家以前の漱石が子規と同様に歳を重ねたと。文学者として子規と共に生き続けた。漱石の言葉から。漢詩や漢語表現の趣味から冊子を作り言葉の遊びや諧謔から散文に。作家として充分な言葉の経験を。不思議なことに漱石の文学の特徴。華々しい活躍を。漱石は成熟というものを目指したか疑わしい。作家の漱石がどのように誕生したか。ホトトギスのために1回だけ投稿。子規は友人に披露して公表に。「吾輩は猫である」。何年も連載されるが、短編集に収められる作品が中央公論社から。アーサー王伝説を下敷きにしたり、倫敦塔という作品だったり。坊っちゃんが書かれる。文体というものがバラバラ。1つとして同じものがない。文体が不揃い。漱石の初期の作品は文体の見本帳。漱石がスタートから成熟を目指さない作家であると。作家は自分の文体を獲得するのに努力を重ねる。自分の文体を定着させて成熟を目指す。漱石はいかにも編集者。文体が一つの個性。その個性を目指すのではない。出来上がっていた文学者。ホトトギスに吾輩は猫であるが連載されていた頃。漱石なりのスタート以前の一種の到達していた時期。作家漱石に対し倫敦が大きな影響を。アール・ヌーヴォーとの接触。吾輩は猫であるの上巻。橋口五葉が装丁。画期的なデザイン。橋口五葉を発見して育てた。出会いを漱石の手紙から。復刻版。ピンで装飾。明治20年のあたりの。和綴じの本。ほぼ10数年で洋本の背表紙を持った本が。技術的水準が高くなった。日本においては。橋口五葉というまだ東京美術学校の卒業寸前の無名の若者。兄が熊本時代の漱石の教え子。高浜虚子からホトトギスにカットを描いて欲しいと。駒絵を描く。猫の挿絵を描くことになった。手紙。明治38年1月。2月12日の手紙。ユーモラスな。徐々に橋口五葉青年を育てる。吾輩は猫であるであるが出版に際して漱石は橋口五葉に装丁を依頼する。38年8月の五葉宛。手紙が語っていること。センスの良い若者に。自分の本のイメージを理解している者を求めていた。朱色と金色で漱石の思いどおり工夫が。Londonから持ち帰った美術の書籍を漱石はみせていた。レタリングが。足を伸ばしたような日本のカタカナを図版化してアール・ヌーヴォー風に。背表紙の猫もそんな感じで。橋口五葉はその後も漱石の書籍の装丁を。耽美派の装丁でも活躍している。浮世絵の研究も。この頃漱石はホトトギスに推薦している。寺田寅彦。彼のどんぐりという作品を。漱石によってホトトギスにもたらされる。鈴木三重吉。高浜虚子にあてて名作を得たりという手紙を。千鳥により誕生。野上弥生子。縁という作品を推薦。鈴木三重吉はやまびこという作品など。ホトトギスにも新人を送り込む。編集者にも愛情を注ぐ。中央公論社の滝田樗陰。東大の英文科から法科に。学制の頃から中央公論社に。名伯楽になる。傍若無人なところが漱石に愛された。遠慮するのを非常に嫌う。図々しいくらいが良いと。新潮社の番頭を非常に可愛がる。編集者たちには自分と同質の匂いを。漱石は自分の家に集まる若者が増えたので面会日を決める。一種の文芸サロンが出来る。正岡子規の影を感じる。句会という集まる場所。皆が集まり話し合うのを好んだ。人を引きつける人間性を。人が集うということ。オルガナイザーとしても優秀。漱石の磁気を。イギリスの18世紀の文芸サロン。和室の中で若者が。俳諧や連歌などを集まって作る。もう少しモダンだけど。明治40年に朝日新聞に入社。重大な決断。時折漱石は執筆活動に入りたいと漏らしていた。条件を突きつける。月給200円と破格の待遇で。池田湛山に次ぐ。部長クラスが130円。朝日新聞としても漱石の作品を多く載せたい。紙面の刷新。二葉亭四迷と。虞美人草。挿絵も橋口五葉。グッズも売り出される。草枕など。長編としては虞美人草という三作目が。大変熱い支持があり迎えられる。三四郎や門に続いて、代表的な作品は朝日新聞に連載。朝日の小説欄に自分から声をかけて連を依頼。中村古峡。森田草平。耽美派の泉鏡花。島崎藤村。永井荷風。土。非常に熱心に励ましながら連載をさせる。漱石から遠い自然主義の作家にも。徳田秋声にも。中勘助の銀の匙。志賀直哉にも勧める。錚々たる。書簡に書いて依頼を。立場が異なる作家にも。編集者として如何に優秀か。最後の作品の明暗。途中で終わったが。それまで朝日で連載。42年に朝日が文芸欄を創設。漱石の提案。連載小説というのは朝日新聞の中で社会部が所管。社会部に働きかけて。漱石の池田三山への。アシスタントの森田草平。評論や読み物の選定が漱石に一任。様々な人間が原稿を書く。編集者漱石が現れる場所に。モデルとしてはイギリスの新聞?他の新聞でも動きがあった?他の新聞などの動きにも敏感。その点にも編集者としての才能が。39年の入社直前。ホトトギスも売れるうちに考えなければと。提案するときには一言添えて。文芸欄が出来て具体的な編集の働きを。鈴木三重吉。漱石が39年に。ホトトギスに千鳥を推薦した頃。漢文字に帰着。しかし世の中はそれではいけない。文学を持って生命とするなら美というだけでは満足できない。何でもする了見が無ければ文学者になれない。進んで苦痛を求めなければ。漱石や子規と共通した志士的なものが。脱却しようとする漱石。子規の後半生を漱石が生きる。より長生きできたら脱却しようとしただろう。子規も恋愛の新古今などを否定して前に戻るような気骨があるようなものを訴える?それは大きな問題。子規と漱石は女性の影が薄い。文芸欄は廃止される。漱石の決断。44年の10月の手紙。廃止する相談をしてしまった。文芸欄は森田草平などが思い上がるなら毒になる。あれで良いつもりで発展したらどうなるか。互いに挑発するなら毒になってしまう。ホトトギスに忠告を与えたように爆発して。編集者の真骨頂を。やがて芥川龍之介を見出す。新人小説家たちを見出す。鈴木三重吉。武者小路実篤など。当然ながら少し長生きしていればもっと多かった。新人たちの小説に思いやりがあった。編集感覚から。作家として大きな足跡と共に、編集者としても大変有能であった。子規を受けて編集者としての能力を。如何に多くの新しい作家たちを発見して日本文学を豊かに。

 

編集者 漱石

編集者 漱石

  • 作者:長谷川 郁夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/06/29
  • メディア: 単行本
 

 

頑固さ。

私が長いこと住んでいる阪急高槻市駅のすぐ近くに、「がんこ高槻店」という飲食店がある。

最初に見たのは私が子供の頃だから30年以上は店舗があることになる。昨春からのコロナ禍で、アルコール類を出せなくなるなど営業に制限がかけられるようになっている。昨年の春にがんこ高槻店の前で、テイクアウトの弁当が売られていた。500円とかの価格がつけられているものも。私は高級な店のイメージを持っていたので、この価格設定に驚いた記憶がある。がんこ高槻店に限らず外食店は青息吐息のところが多い。某外食チェーンの総帥(参議院議員でもあった)も弱音を吐いていた。何時になればコロナ禍は終わるのだろうか。