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編集者漱石(2)朝日新聞の時代(放送大学特別講義)

漱石を基点にして各々の作家を読み進めるのも面白そうに感じる。

 

長谷川郁夫。草光俊雄。編集者漱石。朝日新聞の時代。前回は編集者子規を中心に漱石と子規との交流を。編集の魅力を学ぶ。子規との切磋琢磨の中で作家として核みたいなものを成長させる。倫敦での英文学との格闘の中で文学を築き上げた。子規への思いが込められている。いよいよ漱石が作家として公にデビューして朝日新聞に入り編集者としても活躍。
編集者としての側面で漱石の足跡を。子規と共にあったと。野上弥生子への漱石の手紙。漫然と世に住むは住まぬと同じ。作家以前の漱石が子規と同様に歳を重ねたと。文学者として子規と共に生き続けた。漱石の言葉から。漢詩や漢語表現の趣味から冊子を作り言葉の遊びや諧謔から散文に。作家として充分な言葉の経験を。不思議なことに漱石の文学の特徴。華々しい活躍を。漱石は成熟というものを目指したか疑わしい。作家の漱石がどのように誕生したか。ホトトギスのために1回だけ投稿。子規は友人に披露して公表に。「吾輩は猫である」。何年も連載されるが、短編集に収められる作品が中央公論社から。アーサー王伝説を下敷きにしたり、倫敦塔という作品だったり。坊っちゃんが書かれる。文体というものがバラバラ。1つとして同じものがない。文体が不揃い。漱石の初期の作品は文体の見本帳。漱石がスタートから成熟を目指さない作家であると。作家は自分の文体を獲得するのに努力を重ねる。自分の文体を定着させて成熟を目指す。漱石はいかにも編集者。文体が一つの個性。その個性を目指すのではない。出来上がっていた文学者。ホトトギスに吾輩は猫であるが連載されていた頃。漱石なりのスタート以前の一種の到達していた時期。作家漱石に対し倫敦が大きな影響を。アール・ヌーヴォーとの接触。吾輩は猫であるの上巻。橋口五葉が装丁。画期的なデザイン。橋口五葉を発見して育てた。出会いを漱石の手紙から。復刻版。ピンで装飾。明治20年のあたりの。和綴じの本。ほぼ10数年で洋本の背表紙を持った本が。技術的水準が高くなった。日本においては。橋口五葉というまだ東京美術学校の卒業寸前の無名の若者。兄が熊本時代の漱石の教え子。高浜虚子からホトトギスにカットを描いて欲しいと。駒絵を描く。猫の挿絵を描くことになった。手紙。明治38年1月。2月12日の手紙。ユーモラスな。徐々に橋口五葉青年を育てる。吾輩は猫であるであるが出版に際して漱石は橋口五葉に装丁を依頼する。38年8月の五葉宛。手紙が語っていること。センスの良い若者に。自分の本のイメージを理解している者を求めていた。朱色と金色で漱石の思いどおり工夫が。Londonから持ち帰った美術の書籍を漱石はみせていた。レタリングが。足を伸ばしたような日本のカタカナを図版化してアール・ヌーヴォー風に。背表紙の猫もそんな感じで。橋口五葉はその後も漱石の書籍の装丁を。耽美派の装丁でも活躍している。浮世絵の研究も。この頃漱石はホトトギスに推薦している。寺田寅彦。彼のどんぐりという作品を。漱石によってホトトギスにもたらされる。鈴木三重吉。高浜虚子にあてて名作を得たりという手紙を。千鳥により誕生。野上弥生子。縁という作品を推薦。鈴木三重吉はやまびこという作品など。ホトトギスにも新人を送り込む。編集者にも愛情を注ぐ。中央公論社の滝田樗陰。東大の英文科から法科に。学制の頃から中央公論社に。名伯楽になる。傍若無人なところが漱石に愛された。遠慮するのを非常に嫌う。図々しいくらいが良いと。新潮社の番頭を非常に可愛がる。編集者たちには自分と同質の匂いを。漱石は自分の家に集まる若者が増えたので面会日を決める。一種の文芸サロンが出来る。正岡子規の影を感じる。句会という集まる場所。皆が集まり話し合うのを好んだ。人を引きつける人間性を。人が集うということ。オルガナイザーとしても優秀。漱石の磁気を。イギリスの18世紀の文芸サロン。和室の中で若者が。俳諧や連歌などを集まって作る。もう少しモダンだけど。明治40年に朝日新聞に入社。重大な決断。時折漱石は執筆活動に入りたいと漏らしていた。条件を突きつける。月給200円と破格の待遇で。池田湛山に次ぐ。部長クラスが130円。朝日新聞としても漱石の作品を多く載せたい。紙面の刷新。二葉亭四迷と。虞美人草。挿絵も橋口五葉。グッズも売り出される。草枕など。長編としては虞美人草という三作目が。大変熱い支持があり迎えられる。三四郎や門に続いて、代表的な作品は朝日新聞に連載。朝日の小説欄に自分から声をかけて連を依頼。中村古峡。森田草平。耽美派の泉鏡花。島崎藤村。永井荷風。土。非常に熱心に励ましながら連載をさせる。漱石から遠い自然主義の作家にも。徳田秋声にも。中勘助の銀の匙。志賀直哉にも勧める。錚々たる。書簡に書いて依頼を。立場が異なる作家にも。編集者として如何に優秀か。最後の作品の明暗。途中で終わったが。それまで朝日で連載。42年に朝日が文芸欄を創設。漱石の提案。連載小説というのは朝日新聞の中で社会部が所管。社会部に働きかけて。漱石の池田三山への。アシスタントの森田草平。評論や読み物の選定が漱石に一任。様々な人間が原稿を書く。編集者漱石が現れる場所に。モデルとしてはイギリスの新聞?他の新聞でも動きがあった?他の新聞などの動きにも敏感。その点にも編集者としての才能が。39年の入社直前。ホトトギスも売れるうちに考えなければと。提案するときには一言添えて。文芸欄が出来て具体的な編集の働きを。鈴木三重吉。漱石が39年に。ホトトギスに千鳥を推薦した頃。漢文字に帰着。しかし世の中はそれではいけない。文学を持って生命とするなら美というだけでは満足できない。何でもする了見が無ければ文学者になれない。進んで苦痛を求めなければ。漱石や子規と共通した志士的なものが。脱却しようとする漱石。子規の後半生を漱石が生きる。より長生きできたら脱却しようとしただろう。子規も恋愛の新古今などを否定して前に戻るような気骨があるようなものを訴える?それは大きな問題。子規と漱石は女性の影が薄い。文芸欄は廃止される。漱石の決断。44年の10月の手紙。廃止する相談をしてしまった。文芸欄は森田草平などが思い上がるなら毒になる。あれで良いつもりで発展したらどうなるか。互いに挑発するなら毒になってしまう。ホトトギスに忠告を与えたように爆発して。編集者の真骨頂を。やがて芥川龍之介を見出す。新人小説家たちを見出す。鈴木三重吉。武者小路実篤など。当然ながら少し長生きしていればもっと多かった。新人たちの小説に思いやりがあった。編集感覚から。作家として大きな足跡と共に、編集者としても大変有能であった。子規を受けて編集者としての能力を。如何に多くの新しい作家たちを発見して日本文学を豊かに。

 

編集者 漱石

編集者 漱石

  • 作者:長谷川 郁夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/06/29
  • メディア: 単行本