F-nameのブログ

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「現状回復工事」というもの。

弊店が入居する百貨店では、1つの階を丸ごと改装工事をしていた。私が以前に働いていたショッピングモールshopping mallでは、テナントが退去する際には「現状回復工事」なるものを要求していた。簡単に書くと、棚やら什器やらを全て取り払って更地?にして返還をしなければならない。決して安い工事ではなく、退店されたオーナーに愚痴を言われたこともある(まあ警備担当も広い意味ではshopping mallの一員だから)。今回の工事でも、恐らくは真っ新の状態にしてから、新しいテナントの入居の為の作業を実施していると思われる。かなり大掛かりなものであるのは働いていても感じられる。

世界におけるインクルーシブ教育の動向と課題(特別支援教育基礎論第14回)

日本ではそもそも通常の学校ではなく、今で言う特別支援学校に追いやることが少なくなかったのが私の子供の頃。今ではどうなのだろうか?

 

岡典子。宮内久絵。世界におけるインクルーシブ教育の現状と課題。これまで障害の子供に対する教育。現在の日本の特別支援教育。かつての特殊教育。ではインクルーシブ教育とは?どのような関係が?そもそもインクルーシブ教育とは?日本のインクルーシブ教育は?宮内久絵。視覚障害。そもそもインクルーシブ教育とは何なのか?国際社会の。プロセスと背景。世界での進展や課題。
インクルーシブ教育とは?インクルージョン教育とも呼ぶが。そもそもどのような教育?インクルーシブ。全てを包括した。全てを包み込んだ教育。その意味は?障害のある子供の教育との関係は?国連、障害者の権利に関する条約。障害者権利条約。06年12月の国連総会で人権条約。国際人権法に基づく人権条約。全ての過程に障害当事者が参加。日本でも13年の12月に批准が承認。141番目の。24条第1項の全文で、障害者を包含する教育体制を。日本語訳。障害者を包含する教育。インクルーシブ教育は全てを包み込む。障害者権利条約では障害者を含みこんだ教育。24条2項。排除されない。完全な包容。障害のある人が障害を理由として排除されたりしない。教育の機会などを。では一般的な教育制度とは?フルインクルージョンとは?全ての人を含みこむ。障害者を含みこむ。言葉の解釈を巡り論争が。
インクルーシブ教育の定義や論争を。90年代の初め頃からの教育改革運動。94年のサラマンカ声明。問に対するUNESCOの立場。5項目。教育システムは子どもたちの多様なニーズを元に実施を。ニーズに合致する上で通常の学校にaccessを。通常の学校こそが全ての人を喜んで受け入れる社会にとり最も効果的な。最終的には費用対効果も。特別なニーズに対する行動の枠組み。様々な子供で不利益な人全てが。障害の単純な言い換えでなく学習上の困難を。障害のある子供を含めて特別なニーズを持つ子供に。全ての子供を通常の学校に。イギリスのブース。支援や配慮の対象には全ての子どもが。学校の教職員や子どもたちが理解できるようにマニュアルをイギリスでは。質問が沢山並んでいて。障害のある子供への配慮に加えて、支援するスタンスで。学校に馴染める配慮などの幅広い。全ての子供は勿論、保護者や教員などが排除されることのないように。インクルーシブ教育の根本には人間の多様性や差異が原因となって生じる差別や排除を無くすという社会改革の観点。通常の学校で教育をするのが望ましいとされる。インクルーシブ教育という言葉の解釈は様々な立場からの議論が。障害だけでなく外国の子供や難民などのニーズを。学校選択についても幾つかの考え方が。障害の状態や環境や希望により柔軟に考えるべきとする考え方も。フルインクルージョン。
インクルーシブ教育の考え方は何故どのように発達?社会的に不利な状態に対して。障害のある子供の統合。社会的隔離や差別、スティグマの問題を解消するために分離教育に不満が。様々な運動や主張が。統合教育。アメリカの75年や81年にはイギリスでも統合教育。特別な支援をする子供は障害のある子供以外にも含める。5人から6人に1人は特別なニーズがあるとした。統合教育へのシフト。国連総会の71年の宣言など。しかし統合教育は順調には発展せず。財源の確保や通常学校側の受け入れ体制などが不充分だった。重度の障害のある子どもについては特別な学校に留まる。適切な支援やサービスが得られなくて通常学校に放り出されることも。そもそも通常の学校に居る子供にも勉強についていけない問題が。学力問題のクローズアップ。アメリカでは教育レベルの向上を。小さな政府のレーガン政権。83年の報告書。危機にひんしている。絶対的優位は他国にとってかわられていると。アメリカの公教育は教育改革を推進。イギリスでもサッチャー政権で市場原理の導入なども。学力重視を全面に。通常の学校の現実を。障害のある子供だけでなく、全く支援を与えられなかった全ての子供に対する通常教育主導主義。通常教育と特殊教育との連携。実践的には殆ど実行されなかった。90年代に入るとインクルーシブ教育の担い手として。統合教育やインクルーシブ教育の考え方が国際的に浸透したのは、障害のある人への認識も変わったことから。50年代のアメリカ。公民権運動の中でのブラウン訴訟。分離すれども平等という考え方を全面的に否定し、分離それ自体が差別と。分離された環境はそれ自体が差別。障害のある子どもの学校も問題と。01年の世界保健総会。ICF。障害や疾病の程度を医学的側面だけでなく社会参加など社会的側面も。障害は連続体に位置づけられる。障害に陥る可能性も万民に。人間の普遍的経験としての位置づけ。障害による困難は医学的生理学的要素だけでなく、社会の側の障壁によっても生じるという考え方を。学校教育に当てはめて。子供のニーズに対応できない環境要因、学校にも問題。障害者権利条約。障害者自身の意思の尊重を。作成過程でも重要なものに。自己決定を尊重する。インクルーシブ教育の理念と結びつく。
インクルーシブ教育の目的や方法、対象は国により大きく違う。先進国では障害児学校から通常の学校に。移民などへの対応も主な目的に。途上国ではストリートチルドレンなどの問題が。新興国ではそもそも障害児学校が不足していて、スキルを持つ教師も不足している。幾つかの国を例として各国のインクルーシブ教育の動向を。アメリカ。04年の障害者教育改善法。通常教育の保障がaccessから質に。02年の初等中等教育法。全ての子供に対して各州の学習成果の達成を。通常の学校で適切な支援を。一定水準の学力を求める。2つの両立を。障害のある子どもの殆どが通常学校で。特別な支援を必要とする子供も10年前に比べて3割増加。財政の問題も。州によっては廃校の問題も。宮内久絵。イギリス。インドやカンボジアの新興国。イギリスやアメリカ。07年のアメリカでは96%が通常学校で。イギリスではインクルーシブ教育を。特別ニーズ教育を展開。重度の視覚障害。点字を使用する児童についても。インクルーシブ教育に一定の進展が。開発途上国もインクルーシブ教育を積極的に。背景としては、国の置かれた状況が。イギリスやアメリカ。共生社会を形成する手段として国を上げて。途上国では教育を受けられない子供もたくさんいる。ガンボジアでは視覚障害児の主たる学校は3校から4校程度しかない。多くの子供達が教育を受けられていない。インドでは通学自体が難しいこともある。途上国がインクルーシブ教育に注目する理由。あらゆるニーズを有する子どもが教育を。貧困層や少数民族を含む子供に。万民のための教育。特に農村地域では根強い差別がある。ガンボジアで視覚障害者にインタビュー。失明して生きる価値がないと思えるほど差別を受けたと。親でさえも我が子の教育の意義を理解せず就学率が上がらない。その子供が暮らす地域にインクルーシブ教育を出来る学校を作ることに意味がある。インクルーシブな社会を。浸透しつつある開発途上国では専門家の不在などで学業についていけないドロップアウトの問題が。教育の質についても課題が。
インクルーシブ教育。日本における議論と課題を次回に。

 

特別支援教育基礎論 (放送大学教材)

特別支援教育基礎論 (放送大学教材)

  • 作者:安藤 隆男
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2015/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

視覚障害者の自立と音楽―アメリカ盲学校音楽教育成立史

視覚障害者の自立と音楽―アメリカ盲学校音楽教育成立史

  • 作者:岡 典子
  • 出版社/メーカー: 風間書房
  • 発売日: 2004/03/15
  • メディア: 単行本
 

 

 

イギリス特別なニーズ教育の新たな視点

イギリス特別なニーズ教育の新たな視点

 

 

試験。

古今東西にわたり試験というものも色々とあるが、中国の歴代王朝の科挙は恐らく最も難関であっただろうと言われている。そして現代日本の科挙と目されていたのが、旧司法試験(法科大学院を修了した人間が受験する現在の司法試験と区別しての呼び名である)であった。私が法学部に入った当時は年1回で約500人しか合格しなかった。10年挑戦してようやく合格したという話を聞くのも珍しいことではなかった。これでは人材が司法業界に来ないということで、合格者数を増やすことも行なわれ、更には法科大学院という制度を作り、そこで集中的に2年又は3年学び修了してそれから司法試験を受験するという形になった。今は1500人程度が合格している。ただ弁護士の数が多すぎるという指摘がされてきている。なお裁判官や検察官の数が増えている訳ではないので、両者を志望する人間が増えているかは色々と言われる。

樺美智子氏の死去と彼女の詩。

最近のentryでは〇〇年前の今日(例えば15月36日)に起こったことについて書くことが多い。今日もそうである。1960年(昭和35年)の今日6月15日、国会議事堂に突入しようとした全学連と警察が衝突して、そこで樺美智子氏が亡くなられた。彼女の死は日本中に衝撃を与えた。政治的なレッテルを貼って議論しても良いのだけど、ここでは樺家之墓に掲げられた彼女の詩を引用する(まあ政治的でない詩があるのかは問題だが)。56年に書かれたそうだ。引用元は、樺 美智子

「最後に」

誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

戦争と死、喪失(死生学のフィールド第14回)

日本においてアウシュヴィッツのような活動が出来ているのかが素朴な疑問として感じた。

 

鈴木康明。戦争と死。喪失。死生学は死にまつわる出来事を。死や生を見つめ直す。死を2つの区分から。戦争による死について。その死は事前に予測するのが可能か。病気や障害などは予測が可能。しかし突然死などは不可能。戦争は?自らの主義主張を武力で。殺戮を前提。予測は可能だが、あまりにも異色。戦争による死は避けられる。防ぐことが出来るかどうかを。何をどうしても死ぬ存在だが。末期がんなどと異なり。戦争をしなければそれで死ぬことは生じない。戦争における死。アウシュヴィッツのホロコースト。平和。共生。優生思想。暗闇から学ぶ意味。人間の品位。なぜそれがアウシュヴィッツ。何度か訪れた。スタディツアーなど。ポーランドの街。17年に成田とワルシャワがつながる。単に物理的に遠いのではない。学生の多くはナチスが多くの人を殺害に至った経緯をよく知らない。情緒的に距離がある。学ぶ側に距離があるからこそ取り上げる意味がある。経験重視についての留意点。対人援助について。援助する側が必要とする人に、経験しているから分かるということは、経験していないから分からないということ。日常に関係がないことだからこそ理解しようとする。想像力による。社会を形成するツールに。当事者が語る歴史には意味があるが、当事者はいずれは居なくなるので後継を育てることが必要。アウシュヴィッツは見学者を案内する人をエデュケーターと呼ぶ。日本人のエデュケーター。なぜ中谷さんがアウシュヴィッツに?最初の出会いが小学校6年生。学者さんが訪ねて経験を。よそ者という理由だけで何百万人も殺されたと。どうしてそんな理由で人が人を大量に殺したか。訪ねてみようと。仕事にした経緯は?当時は自分の興味の方向に。高校生で世界史の授業で9月1日を例に。なにか悪いことが起きなければ良いなと。大韓航空機爆破事件。高校生の時に。当時冷戦中のソ連も。撃墜した国にも。なぜ敵と味方があるのか。世の中の不条理さを。現在アウシュヴィッツのエデュケーターを。これまではガイドという名称だった。博物館の。所轄がポーランドの教育センター。理由は観光客というのではなく、EUが学校単位で。75%以上が高校生や大学生。必然的に教育係に。子どもたちに伝える。Europaの教育関係者の挑戦。歴史を継承するのが事実そのものを。起きたことを経験者から聞いたことなどを基本に伝えている。歴史を元に何故そんなことが起きたか。二度と起きないように何をするか。エデュケーターはそのことも。日本からの修学旅行生が。一言では出てこない。訪れる人達も何故何故と繰り返して帰る。悩ましい。答えを貰うことではなく疑問が。何かを与えるのではなく繋いでいく。歴史部があり学者が。真実を明らかに。明らかにしたことを繋いでいくのが。伝達の道具。単なる道具ではなく生きた道具。事実を伝えていくことでますます疑問が。つまりエデュケーターの部分として何故起きたかが無限に広がる。苦しいことや困ること。日本人なので犠牲者としての民族でもなければ加害者側でもない。関係者以外の人間がEuropaの歴史を伝えていいか悩むこと。経験者の話をきいたり体験者の話を聞いたり。最終的には人間とは、という疑問が。関係ない立場でも。二度とこういうことを繰り返したらいけないと頭では分かっているか。多くの人が二度と起きないと思っていたら、似たようなことが世界で起こっている、そういう声が大きくなっている。再び起こると不安が。二度と繰り返さないことは難しいこと。エデュケーターとして挑戦すること。人間とはそういうもの?二度と起こさない可能性を。アウシュヴィッツ全体の人間観?組織に属しているから幹部たちの話や書いたものをベースに活動している。価値観を共有していきたい。これは伝えたいことは?日本人を案内する立場。一般的にアウシュヴィッツを始めとする戦争の場を訪ねることは日本人にとりハードルが高い。旅の中に入れたくないなど。そう言った人がまだ多い。Europaの多くの若者が訪ねているのを見てもらうのは大きい。ダークツーリズムが日本にも浸透している。元気になるだけでなく負の遺産を入れていくということ。世界遺産にも登録されるように。その象徴がアウシュヴィッツ。社会に役立てていく。テロや難民などの問題が。Europaの理念が不安定に。生活をしていても。どのように乗り越えていくかのヒントがアウシュヴィッツの歴史にあるのではと。グローバル化の中で民族との共生を。元気でないと来れない場所。若い人には元気がある。日本人の一般には浸透していない。日本からは遠いが来て感じて欲しい。当事者が亡くなっていくことを考えて、エデュケーターの育成は?博物館となったのは戦後2年経ってから。仲間が亡くなった追悼の場所として。1つの教訓として。国立の博物館に。生存者が殆どだったが、次の世代が引き受けるように。歴史の継承者が多くいるが、足りないくらい。若い人で語学に堪能な人が。経験していなければ歴史は語れない?アウシュヴィッツへの訪問者は増える。伝えることは不可能ではない。若いから若い人への言葉が出せることが。日本も戦争を体験しているので、アウシュヴィッツがどのように伝えているかを知ることが。歴史の継承。アウシュヴィッツをどのように伝えているか。バラックは崩壊する危険もある。多額を集めて永久保存するプロジェクトが。重要なサンプルに。何のために伝えていくのかは日本でも議論しなければ。大川小学校の保存について。
スタディツアーに参加した大学生4人に。関心を持った理由。続けて参加。洋画のシンドラーのリスト。授業の一コマで。命の選別。アウシュヴィッツという場所に行き雰囲気を。動物の死を考えることは多くあった。動物は常に選別の対象に。小学生の時に教科書でユダヤ人迫害の歴史を。ページ半分くらいだがもっと知りたいと。本を読んだ。フランクルの夜と霧。収容所内の体験を。絶滅収容所を作ってしまった。人間の尊い部分についても。現地に行っての感想。広大な牧場。家畜は人間。ビルケナー第2収容所。鉄条網や中に鉄道が。人間を選別。ガス室の近くに鹿が。人がここにあんなに沢山居たのか、と思うほどガランとしている。収容所のバラックが整然と。冷静に淡々とおかしいことを。人間の怖さ。正しい行動が出来ると言い切れるか。悲壮感あふれる場所?人が居るのが不思議?緑があるけど無。二回目の方が怖くて。これからアウシュヴィッツに行く人へのポイントを。色んなものが展示されているが。子供の服や人形。名前の書かれた大量の旅行かばん。ユダヤ人から取り上げる時に、後で返すから名前を書かせた。名前を通して訴えかける。自分で感じて考えることを。色んな所をゆっくり歩いて。ハードだけではなくソフトを。見ている人を。世界各国から多くの人が訪れている。それぞれの人が戦争と平和を。見方が違うので視点が広がる。ビルケナー第2収容所で門の下を線路がくぐる。ユダヤ人が貨車から降ろされる。実際に命の選別をされた場所を。日本で見るのとは感じることが違う。人に自分の生死を決められるということを。それぞれの想いを大切にしたい。

 

死生学のフィールド (放送大学教材)

死生学のフィールド (放送大学教材)

  • 作者:石丸 昌彦,山崎 浩司
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

生と死から学ぶ―デス・スタディーズ入門

生と死から学ぶ―デス・スタディーズ入門

  • 作者:鈴木 康明
  • 出版社/メーカー: 北大路書房
  • 発売日: 2000/01/01
  • メディア: 単行本
 

 

興奮。

これを書いているのは21年の6月6日であるが、8万人居るとされているオリパラのボランティアvolunteerの内、1万人が辞退されている。間近で関われるし興奮を共有できるから志望者が多い。オリンピックはそもそもvolunteerにより運営がされている。競技団体の首脳も無給のことが戦前では当たり前だったそうだ。今ではIOCの首脳が高給を得ていると批判されることがあるから、時は流れているなあと感じる。というか、コロナ禍でも無ければ批判の声は少なかったと思われる。しかし医療崩壊が生じる傍でオリパラを開催するとなると、下手したら治安さえ危うい。警視庁はかなり危機感を持っていると考えられる。

2001年のフーリガン警戒。

今から19年前(つまり2002年)の今日6月14日は、サッカー日本代表がチュニジア代表に勝利して決勝リーグへの進出を初めて決めた日である。森島寛晃選手(「モリシ」と呼んだサポーターも多いであろう)のゴールは記憶に残っている方も多いと思われる。

 

日本代表がその日に試合をしたのは長居スタジアムであるが、その2日前の6月12日はイングランド対ナイジェリアの試合が行なわれた。海外の試合の例もありフーリガンが粗暴な行為に及ぶのではとの情勢があり、阪急電鉄管理の施設で警備員をしていた私も駆り出されて警戒をすることに。警戒をすると書いたが、警察官のように職務質問が出来るとかというのはない。要は施設管理権の延長で行なうのが警備員の仕事である。まあ現行犯逮捕は出来るが、それは一般人でも可能である。それで地下鉄梅田駅(長居駅にも直通する御堂筋線の駅である)から阪急梅田駅に至る地下通路を警戒した。確かに外国の方は多かった印象はある。しかしながら試合終了後1時間まで警戒を実施したが、さしたる問題行為は無かった。まあ警察官や警備員が駆り出され警備をしていたので、その効果はあったのだろう。