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生活を内側から捉え、生活問題を析出する -生活調査の源流(生活変動と社会福祉第2回)

東京大学のセツルメント運動の源流はロンドンにあると知ることが出来た。日本のその後にも関心を持ちたい。

 

山田知子。生活を内側から捉え、生活問題を析出する-生活調査の源流。岡知沙登。生活調査に焦点を。研究の姿勢。生活問題を研究するには内側から見ることが。社会福祉だけではないが生命や生活に関わる問題ではリアルに。地道な生活実態の把握を重ねることを。社会福祉に携わる人も。日々利用者の生活に深く関わる業務を。難しさが。生活保護や要介護認定の問題。ケアマネージャーとして具体的生活支援のサービスを組み立てる。様々な資源を動員して。限界も。深く関わらざるを得ない。大切なのは生活調査のセンスが。取り上げるのは統計ソフトでは無く対極にある戦前からの手作りの調査。
定義。源流を訪ねることを。19世紀のイギリス。セツルメント運動。生活に深く入り込み実態を明らかに。政策の構築につながった調査を。手法と社会的意義を。イギリスは世界史上最初に産業革命や福祉国家に。多くの労働者が失業状態になり貧困に。解決する過程で自力で解決できない層に福祉事業が。調査を実施して生活の実態を明らかに。生活調査に参考に。慈善事業が行った調査が源流に。事前組織協会はとても役割が大きい。事前の調査。社会福祉の調査の原型。事前組織協会。1869年の4月にロンドンで協会が。COSに改められる。75年に新しい理事が。着任して活動に変化が。重要な柱として友愛訪問が。様々な弊害が出たことによる。それまでは上流階層の者が金や物を配るが上から目線。生活に困窮する人を友人として訪問してニーズを把握する。友愛訪問。既に1800年代の初頭にグラスゴーで。53年にドイツでも。民生委員会制度の前身。日本への影響も大きかった。COSの友愛訪問。生活に困っている人自身がCOSのオフィスに行って聞き取りを受ける。調査項目は多岐にわたる。住所、前の住所。家族。職業。離職の原因。現在の賃金。借金。近親者の状況。財産など。ヒアリングで詳細な情報を。それを元に訪問員が戸別訪問を実施。救済の対象か否かを判断。産業革命により構造的に生み出される失業者を救済するのに限界が。多くの者が居るので手が回らない。改正救貧法に連動した運動には限界が見えてきた。調査を丹念にしていると真面目な労働者が失業に。不真面目や怠惰などではなく。貧困状態に。そういう中で慈善事業自体の限界が。加えて訪問をしている限りはよそ者であると。生活に困窮している人に入り込むのが困難であることを知っていく。よそ者ではなく関わるには?セツルメントの運動を。ロンドンなどのスラムに住む人の意識改革を。セツルメントの運動も忘れてはならない。一言でいうと住み込むということ。時折訪問して施すのではなく、一緒に暮らして地域の人々の問題を一緒に解決しようとする。最初に初めたのはエドソン。オックスフォード大学を卒業してロンドンの東側に着目して慈善活動に。しかし限界に気づく。非人間的な環境が人を反社会的行動に向かわせると考えて、施しを越える具体策として移り住んでサポートする必要があると。大学セツルメントの始まり。幸運にも大学を通ったのだから貢献を。具体化させるのはトインビー。若き経済学者だったが75年のロンドンの東側のホワイトチャペルに。深刻な貧困地域。住民の多くが犯罪に。施しから生活能力を失うなど闇黒な。既に司祭の夫婦が活動を。生活改善に情熱を。バーネット夫妻や友人たちと活動を。最初はCOSの活動から。限界が見えてくる。個人に貧困の原因を求めるのではなく社会にあるのではないかと。不幸なことに83年にトインビーも若くして病死。遺稿集が出ていて講義ノートをまとめた。日本語訳も。瑞々しい発想で取り組む。地域の人に向けて図書館を。支援する仕事をすべきだと大学生に。バーネット夫妻のセツルメント運動の精神的主柱に。84年にロンドンの東部にセツルメントハウスを設立。トインビーの名前を冠する。地域の人と共に暮らして教育に取り組む拠点がトインビーホール。5点。子供から大人までの教育事業。大学公開講座。住民の生活環境改善のための取組。展覧会や法律相談など。住民自身が組織を作るのを支援。地方行政への参画を代わって行う。議員を送り込む。調査研究を行う。社会の世論を喚起する。セツルメント運動はアメリカにも。ジェーン・アダムス。影響を受けてシカゴにハルハウスを。アメリカの出発点に。多くの日本の関係者がトインビーホールを訪問。影響力は計り知れない。戦前期の日本で大正デモクラシーなどの時期。活動が日本にも沢山生まれる。自らハウスを作った。横浜で。阿部四郎。明治学院大学の教員をやめて昭和8年に仕事に入る。トインビーの魅力。人生。どう生きたか。理想を掲げて情熱をスラムに注ぐ。大学の教員で経済学を専攻した若い学者だが人々が置き忘れたようなスラムに入り隔離されていた地域と大学を結びつける橋渡しを。トインビーの言葉。社会の変革は社会の意識だ。変わらなければ出来ない。貧しい貧窮した日本の社会を変革すれば幸福になると思い込んでいたので、意識を変えなければならないというのに。なぜスラムに入ったか。スラムの人々を前に語った。知識階級は顧みなかった。酷い仕打ちを。罪を贖うために仕える。生涯を捧げると。若くして亡くなり31歳で。後を継ごうと31歳で大学をやめる。トインビーが若くしてスラムで倒れたことが大学の人々の心を打って記念するためにスラムにトインビーホールを。最初のセツルメント。特色は慈善組織化協会。慈善訪問。解決を図る。それに対してセツルメントというのは大学、カレッジ。学生寮のこと。学生が全て寮に住んで礼拝や食事を教員と一緒に。生活共同体を。カレッジ全体をスラムに。地域の中に大学の共同体が入り込んで生活を一緒に。セツルメントの大きな特色。居住者。レジデント。地域の人々は貧しい。求めるのは物質的欲求を。セツルメントはこれに応えない。物質的なものではなく、人々の背後に見えざるニーズを。人生の貧困。人生を変えなければならない。人格と人格が触れ合うことにより可能に。見えるものではなく。金ではなくあなた自身を。セツルメントの精神。ここから学生やボランティアが沢山。人材が沢山。第二次世界大戦。ロンドンはナチの空襲下に。生活を守る社会保障を作ろうと。そこから日本が学ぶ。実施に移したのがアトリー内閣。2人共にトインビーホールで育つ。英国の社会保障福祉国家が。日本においてもセツルメントというのは大きな働きを。社会福祉は地域福祉という新しい時代を。トインビーホールに住み込んだ経験を。片山潜。経験をして明治30年にセツルメントを。各地に出来る。東大に社会政策講座を。法学部に穂積重遠という教授が。東京大学のセツルメントを。沢山の指導者が巣立つ。レジデントとしての生活を経験しなくても次から次と。近衛文麿。尾崎行雄。新渡戸稲造。アルフレッド・マーシャル。ピグー。厚生経済学が。思想的には河合栄治郎という教授が。全国の学生に大きな感化を。人生の戦士を残した感激の力は消えることはない。日本の代表的なマルクス経済学の河上肇。トインビーは学者として或いは失敗せり。女性を中心に世界一のセツルメントの王国を。日本にも多大な影響を。31歳で大学をやめて。関東大震災の際に東京大学のセツルメントが出来て一生懸命に被災地の支援に。頭にあったのはトインビーホールが。新聞にも発表するなど。レバレッジ。中心人物だけでなく関わった人が福祉国家の骨格に大きな役割を。ブース。ロンドンの調査をする最初の段階でセツルメントに共感した人を組織して調査を。トインビーホールが拠点であった。地域調査をする調査チームの詰め所に。生活をともにしながら様々な事業を通して原因を読み解いていく。若者を巻き込みながら社会に発信して世論を喚起する。運動としてのセツルメントは多くの学びを。社会福祉実践が調査研究から出発している意味はとても大きい。貧困の労働者の問題に関わり、労働者の怠惰などの原因でなく環境や社会システムの問題を明らかに。問題を個人的に見てしまいがちだがそうではない。共通の構造や要因。制度やサービスの実態に至るまで問題意識を持って。研究は常に客観的に。しかしよそ者ではなく当事者の視点で。一連のセツルメントの運動を通して学ぶ機会を得て連帯の重要性に。当事者が生活主体としてのサポートを。実践の核心。生活調査の役割。

 

 

 

 

 

 

 

高齢期の生活と福祉 (放送大学教材)

高齢期の生活と福祉 (放送大学教材)

  • 作者:山田 知子
  • 発売日: 2015/03/01
  • メディア: 単行本