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呪い・呪詛。

1985年(昭和60年)10月16日に阪神タイガースが21年振りにリーグ優勝をした晩に、狂喜乱舞したファンがバースに似ているからとKFCの店頭にあったカーネルサンダースの像を胴上げして道頓堀に投げ込んだ(それにしても重かっただろうに)。その後はタイガースtigersはなかなか優勝出来ず、呪われたのではと都市伝説になっていた(関係ないような気もするが)。ただ道頓堀に沈んだままでも2003年と2005年に優勝したので呪いは解けたとされている。ちなみに2009年に発見され引き上げられ、水都大阪というイベントで公開された。24年もよく無事だったのだなあと感嘆した。今は非公開だが、再度の公開を希望する。

洛内の人間の「応仁の乱」。

朝のentryで「不敬虔」について書いた。アランの定義集の未定義語に項目があったから記したのだが、私も含めて日本人には了解が致しかねるところがある(丁寧にぼやかしているけど)。どうも日本では一神教が定着しないようで、キリスト教もイスラム教も信者数は多くない。まあ数が多いから真実に近い訳ではないけれど。

日本には神道と仏教とがあり、両者の関係は入り組んでいて整理はつかない。そんな神道と仏教が、京都の北野天満宮で一緒に疫病退散を祈る行事が今年も9月4日に行なわれた。「北野御霊会」と呼ばれる。応仁の乱以降途絶えていたので約550年振りに昨年挙行された。洛内の人間は「前の戦争」が応仁の乱を指すというのが最もらしく語られるが、意外と真実を突いているのかもしれない。京都の場合は他の地域と比較して時間軸が長いのであろう。

授業研究と教師の成長(カリキュラムと学習過程第8回)

授業研究なるものが通っていた小学校では頻繁にあったのだけど、高槻の特殊な事情だと思っていた。全国どこでも実施されているのは意外だった。

 

久野弘幸。授業研究と教師の成長。ある教室の風景についての日記。沢山の先生が授業を。色んな先生がたくさん来てくれる。このような記憶を。今日は研究授業だから頑張ってと。緊張気味の先生。研究授業の前に校長先生や前任の担任も。指で指しながら数え始めたり。研究授業の一コマは多くの人の学校の風景。授業研究として通常の光景。このような授業研究を一般の人々が共有しているのは日本くらい。始まりから100年を超える教員研修の方法で深化を遂げている。00年代から世界に広がり大きな関心を。歴史や役割。授業研究が世界に。
授業研究とは?なぜ学校では必要か。授業力の向上を図るために教育課程上の実践研究。自分自身の学びを捉え直す。一般的にはその学校の教師全員が参加して。授業研究について具体的に。目の前のこどもの実態などで毎年の実践の目標を。授業力向上の研修を恒常的に。少人数指導や環境教育の充実。ICTの効果的活用など領域を指定する場合や子どもに育てたい資質を。授業力向上に主眼を持ったり。学校を基盤とした。共通の主題で共通の目的。実践上の課題の解決を。研究主題を実際に実現するためには研究計画に従い単元計画などを充分に練って授業過程を。一連のサイクルが必要。PDCAのマネジメントサイクル。研究授業は一連の部分として実施。多くの先生が参観に訪れる授業の前には丁寧に授業の計画を。終わった後には研究授業の成果を。事後検討会などと。ポイントや成果を明らかに。授業改善のポイントを試みたり修正したりと。計画的に実施。授業研究のマネジメントサイクル。授業研究が高い評価を。同僚性や子どもの視点に立つ。協働性。同僚教師と協力して。同僚性。互いに尊重し信頼し合う。優劣を論じるのでなく子どもの様子を。学びと育ちに着目し価値を引き出す。3つの原則からは教師の指導力の道具ではなく優劣を競うのではない。授業研究は仲間とともにヒントを引き出し充実感と成長の実感をもたらす。
授業研究は日本で始まった取り組み。始まりは明治期に遡る。その後は改善と工夫などを経てほぼすべての学校で。日本においてどのように?稲垣忠彦氏。教育の歴史において明治初年に遡る。授業参観が。萌芽段階。明治7年には検討会が。その後は20年代に授業講習会が。いわゆるヘルバルト主義が。段階論的性格から過度に厳格に。一部の学校で形式化が進行した。多くの学校の指導案には形式的段階論が。あくまで授業の構造の目安で。明治の後半に定式化が進んだのに対し大正期では逆に。自由教育の思想が。現実の学校生活に普及させる手立てとして授業研究に。主に私立学校と師範学校付属。新しい自由教育の理念が。児童中心主義。大正期に設立された奈良女子高等師範学校、奈良女子大学附属小学校。19年に木下武二を中心に生活や学習が原理に据えられ。様々な教科を1つに。奈良の学習法。大正期の参観者数は年間2万人を越えることも。「学習研究」。最新の理論的実践を。戦後は教育の再構築を。科学的研究が進展。単元の目標や授業の目標などの理論計画を。授業の音声を元に記録を作成し議論する。事前に準備するスタイルが確立。国においては研究開発学校の制度が。授業研究の活用。次の時代の開発のために独自の実践を。新教科や新しい教授法を。重要な手立てに。各都道府県において教育センターが。教員研修や研究委嘱校の制度化。資質の向上や質の高い授業研究を各校に。目的意識を持って。専門学会が相次いで設立され専門性の。組織化や高度化が。学習指導案や授業記録の様式が普及。民間においても多くの団体が設立。平成に入ってからの授業研究。10年代には大量採用の教員の一斉退職。若手教員への経験値の。課題が多様になり教師手動から主体的学びへの転換も課題に。マンネリや停滞状態にも。平成20年代になるとワークショップ型研修等が。授業研究の取り組みは高等学校にもようやく。県の支援により始まる兆し。授業改善の試みが高校にも。
授業研究がどのように世界に広がり授業改善に役立っているか。その将来像。海外の授業研究。これまでの事前の計画や組織や公開。授業の後に討論をするなど。教室を離れての活動や事後検討会。過程を通して様々な工夫を。アメリカの授業研究者。当初は現地の多くの研究者はアメリカの教員に馴染まないのではと考えていた。ルイスは99年以降ごく短い期間にレッスンスタディに関心を。多様な学校種で取り入れられている。教師の協働的文化と子供の目線で。00年代に入り授業研究は国際的発展を。国際化は日本からの発信で広まったのではなく探求する過程で偶然に発見されたもの。ではどのように発見を?レッスンスタディの起源となる1冊の本。95年の調査の一部として実施されたVideoを。日本ドイツアメリカを対象に大量のVideoを分析。共通の方法で合計200本以上の算数数学の授業を詳細に分析する。大規模なサンプリング調査。授業の展開を詳細に分析して。日本だけギャップが。所定の例題の解き方と反復練習するのはドイツとアメリカ。日本では典型的な問題1問が取り上げられそれを解くのが基本形。個別学習やグループ学習で解決し話し合いで理解を深める。授業の基本形の比較。日本においてなぜ共通に?注目されたのは学校単位の力量を高める授業研究。その前の研究でレッスンスタディを鍵に。学問分野の成立の指標。専門学会で集う場ができる国際学会やジャーナルの発行。10年にレッスンスタディの国際学会が発足。12年にジャーナルが創刊。10年のブルネイ大会で正式に発足。毎年世界大会を開催。10年代なかばまでに30カ国に。関心を集めて多くの国で評価されている。授業研究の国際化。教員研究の充実や高度化。その流れは国際学会の設立で学問としての。授業実践で実現するメカニズム。教師教育の重要性が増す。国際化は意味や価値を持つ。教師の資質の向上や教育の質の向上はローカルな取り組みが。世界九通の課題の解決にはローカルな解決策が。そのまま適応すれば良いとは言えないが、具体的事例にはヒントが隠されている。日本の授業研究の世界的移転は手順だけでは充分ではなくその国の事情に応じて。グローバルなやり方がローカルに試みられることを。ローカルなレベルで実行されているものを普遍化。海外の研究者により発見され世界の共通言語に。協同的なラーニングコミュニティを。現在では英語のレッスンスタディは日本に逆輸入されて新たな価値を吹き込む。近年その蓄積が世界的文脈に結びつく。
日本の授業研究の強みや特色。数週間の教育実習。取り組み方について理解を深める。教員の力量形成を。細部の違いはあれ同じような様式を。学習指導案。共通の言語を獲得。用いれば授業意図を理解したりすることが可能に。教員間の相互理解のプラットフォームに。室の高い授業を求めて共通に学び合うのは貴重なインフラに。若手教員とベテラン教員などの同僚性を育む。若手の教師だけではなくベテラン教師も。共同で授業計画を。相互に知恵などを得る。しばしば分かち合いという言葉を。互いに自分の知見を分かち合う特質を。新しいカリキュラムを実現するために実際の授業を通して学ぶ機会に。多くの国においてコンテンツ中心のカリキュラムからコンピテンスベースのカリキュラムに。従来の教師中心から児童中心に。容易なことではない。紙の上のカリキュラムを実践することで共通理解を。以上の特色はインフラとして普及している文化的資産に。授業研究を通して画一化が進み教師は多忙に。画一化は否定出来ないが実践力の継承は功績。授業の改善を図る研修は最優先事項であり。多忙化解消は授業力を伸ばすことで見えてくるはず。
授業研究はカリキュラムの実現を図るインフラ。多様化を含む背骨のようなもの。外国では授業研究はないが、どのような研修をするか想像が出来ないと。近い将来世界の教員から同じようなセリフが話されるかもしれない。

 

カリキュラムと学習過程 (放送大学教材)

カリキュラムと学習過程 (放送大学教材)

  • 作者:浅沼 茂,奈須 正裕
  • 出版社/メーカー: 放送大学教育振興会
  • 発売日: 2016/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

授業をデザインする「技」 (学力が身に付く授業の「技」)

授業をデザインする「技」 (学力が身に付く授業の「技」)

  • 作者:久野 弘幸
  • 出版社/メーカー: ぎょうせい
  • 発売日: 2006/05/01
  • メディア: 単行本
 

 

不敬虔。

キリスト教の神を信じないこと。キリスト教を信仰する人間にとっては、そうでない人間全てが不敬虔とされる。ただ近代市民国家が形成されてからは信仰の自由が徐々に定着している。なので不敬虔と言われる回数は減っていると思われる。

ところでイスラム教を信仰していない人間は、イスラム教者にとり「不敬虔」と言い得るかもしれない。タリバンはカブールを占拠して数日も経過していないうちに、或る女性のニュースキャスターをTVに登場させないようにした。女性が登場するのは「不敬虔」と判断したのだろう。しかし現在の国際社会では女性差別とされ不当なことと捉えられる。まあキリスト教みたいに女性の地位の向上は数百年のレンジでないと無理かもしれない。

自民党が勝利するとの予想。

今更だが政権TOPとその周辺の話を。菅義偉総理は衆議院を解散させる権能を有する。慣習的に総理1人で判断でき、「解散しない」と述べていても覆すことが出来るとされる。なので総理にとり有利とされる時期に総選挙に持ち込むのが可能である。今回でも9月に日程が決まっていた自民党総裁選を反故にして解散を実施する考えもあったと報道では伝えられている。ただ周囲が止めたようである(誰が止めるのに有効だったかは分からないが)。次に自民党の首脳部を変える策を考案されたけど、同様に無理があり実施出来なかった。総裁選は9月に予定通り実施されることになり、菅総理は勝てないと判断されたのだろう。そしてその判断は自民党にとり正しかったと言える。

総選挙の直前に総理が変わるというのは、恐らく前例が無い(80年に大平総理が選挙の最中に亡くなられたことがあるが本人は辞任する意思は無かったと思われる)。自民党にとっては新指導者が清新なイメージを纏う総選挙になるので、少なくとも大幅な議席減は免れると予想される(あくまで予想に過ぎないが)。差し当たり辞任に際して、無責任だとしか言えない某野党党首よりはマシに見えるかもしれない。結局は自民党の方が老練だということだろう。ううみゅ。

「国土開発」とグローバリゼーション(グローバル化と私たちの社会第13回)

どうも御厨氏の認識と私の認識がずれているかもしれないというのが率直な印象。勿論私の認識が間違っている可能性はあるけれど。

 

御厨貴。国土開発とグローバリゼーション。グローバリゼーションというのを日本の近代まで遡る。鎖国日本から開国日本へ大きな転換を。必然的に内向きに発展したのが江戸時代。開国はある種の外国の圧力により追い込まれた。結果として明治政府は外圧による被害者意識と屈辱感、そのトラウマ。1600年前後は海が外敵からの侵略を妨げていたが、黒船で状況が一変。逆に弱みに。何処からでも攻め込まれる。近代国家はまずそれに備えることから。国を開けることで中側は安全保障を。道路網を整備する時に、東京都大阪を繋ぐ鉄道。東海道ではなく。なぜか。海上からの攻撃を避けるため。内陸を中心とした道路網や鉄道網。内発的に開発?当時の日本は如何に対外的な恐怖から逃れるかを第一に。日本は日本以外のアジアの国々にどのように進出するか。ロシアと中国。両方に対して恐怖心を。いつ攻め込まれるか、植民地にされるか。悠長にインフラ整備はやってられない。富国強兵。植民地経営を。膨張主義に。当時の政治指導者。やらなければやられるという強迫神経症的な。獲得した領土の経営にさしたる方針を持たなかった。全体として計画性はなく完全な植民地経営とは程遠かった。イギリスにおけるインド支配。社会インフラの観点から社会資本を如何に作っていったか。水道などの整備。インドを見るとはっきりと。日本も色々やろうとしたがインフラが植民地の発展に役に立ったとは主張できないのが現状。国土経営に乏しい。明治政府は藩閥政府と。薩長土肥の。藩閥支配。政友会。政党政治というのが対峙する形で。国内開発の点でも違う。社会資本の形成。藩閥政府の中心の国家主義的統治を。大規模なインフラに集中投資を。政党政治は地方利益を主体に。当然均等配分均等主義。全国が潤うように。藩閥の国家主義的な社会資本整備を。大正期まで展開したのは後藤新平。原敬。対称的な国土開発。鉄道の敷設。グローバルスタンダード。広軌鉄道を日本でも。政友会は地方の果までの発展のために地方利益を中心に狭軌鉄道をどんどん日本国内に。最終的には政党政治が発展していく過程だったので狭軌鉄道が全面的に。後藤新平は植民地経営では活躍したが日本本土では失敗。後藤新平はグローバルスタンダード。原敬はジャパンスタンダード。今日でも公共事業はグローバルスタンダードとジャパンスタンダードの対立。常にグローバルスタンダードが主張されたが実行されるのはジャパンスタンダードに。
結果的に統治の主体を政党が担う。後藤新平が活路を見出したのは関東大震災の復興事業。東京市で総人口の60%近い人が被災。東京と横浜の市街地の大半が焼ける。後藤新平は帝都復興院を作りトップとしてグローバルスタンダード的な都市開発を。壮大な復興計画を策定。大風呂敷。総額41億円の一大事業。到底出来ないと縮小され7億から8億の事業に。技術官僚やプランナーたちは支持したが。反対は政友会。衆議院に多数を持ち得ない政党は困難。議会主義で葬り去られた。結局昭和期に入り二大政党で政治を。公共事業はしょっちゅうストップを。担当者も含め計画が変更され全体的に進まない。軍はプランナーにささやきかける。政党には頼らないで軍をバックにすれば何でもできると。都市開発家や建築家。10年単位の長期計画。多くの者が満州に。普遍的な政治の制度。議会主義であり政党政治の成立がグローバルスタンダード。政党政治がインフラ整備と馴染まなかった。同じグローバルスタンダードだが。極論だが。ローマの皇帝が街づくりを。ナポレオンがパリの都市改造を。権力は大きな都市づくりのパトロンとして。都市計画が進んだものに。日本では上手くいかなかった。政治的な発展、政党政治の近代化と開発政治が上手く整合性があって展開をするのは無かった。昭和の初めまでの近代化の結論になる。大日本帝国時代は分業体制をベースに国の発展を。現実には植民地は本土のためにあった。開発の成果は元々の島々が享ける形に。国土計画という概念がドイツから。本土と植民地をどう開発するか。しかし周辺の植民地は工場というのは変わらなかった。東亜新秩序や大東亜共栄圏の思想は現実を伴わなかった。
占領される日本。実態の転換。終戦後に最初に占領軍が、内なるフロンティアへ。日本には資源がないから開発するものはない?外へ発展を。日本は技術を駆使すれば資源はある。4つの島々だけで開発が進む良い国家に。外務省の若手グループは国土開発を政策の1つとして。戦後に本格的な国土開発を。TVAによる一点突破集中展開。東北の河川の大きなところで。ありとあらゆる資源を集中させる。電源開発をベースに国土開発を。魅力的に。しかし敗戦後の国土開発では中央集権は地方の抵抗で無理に。満州など外に出ていた人間は中央でなく地方に。軽く地方の人にあしらわれる。地域主体の国土開発に。昭和25年に総合開発計画を進めるための。制定された国土総合開発法は実行されなかった。両方の対立があり政策の齟齬が。昭和37年になり。高度成長の時期に。池田勇人の所得倍増計画の一環として太平洋ベルト地帯。表日本に投資を集中する。当然反論が出る。残された地域は?均等に発展しなければという声が。均衡ある国土の開発。補うものとして全国総合開発計画が。遅れた地域まで含めて均衡ある発展。日本の開発思想の。決定的に。高度経済成長期が進む時期に。44年の計画。アジアなどとの提携を。この時期は外との接点を切る方向へ。内なる発展で外ではない。日本列島に道路鉄道を事細かに網の目のように繋げて日本の国土に。計画書の地図は4つの列島しか書いてない。北海道と九州が弓なりに近く。時間的空間的に縮めてどこでも同時に開発する。アジアの地図がない。他の大陸と繋げるという発想がない。日本列島を丸く。裏には当時の佐藤総理が。大陸を向いている時代は不幸だったので。敗戦後日本は太平洋を向いていた。大陸は中国だが戦前戦後も上手くいかず。開発の発想も切れる。田中角栄の日本列島改造論などは発展の基礎を日本に。外との関係を絶つ。言い換えると帝国主義の膨張主義が行き着いた悪夢から抜け出せない。アジアに日本が出ていくだけで悪夢が蘇る。繰り返される計画でもグローバリゼーションは用意周到に避けられる。民族主義的中曽根康弘も計画の中で外交や防衛のプレゼンスを。東京を国際都市にするという発想はあったが国内外の交流を活発化させるという発想を国土計画に反映はさせなかった。戦前は膨張主義。4つの島では無理。優勝劣敗。頑張らざるを得ない。頑張りの中で様々な日本人の苦労が。戦後は国土開発。国内だけでは収まらないがなかなか外には向かなかった。90年代を迎えて戦後を効率的に運営していた自由民主党の一党支配が崩れシステムに問題が。冷戦の崩壊。東西対立が無くなる。国際的に大きな変動に対応。安全保障や軍事的リアリズムが。同時に通商国家として。アジアやヨーロッパに繋がる開発の思想がなければ発展もない。舵取りを変える必要が90年代から。有識者の中にも大胆に。しかし旧来の思想は変わらず。開発という形で日本国内を繰り返し問い直しても解答は出ない。21世紀になるところから国土開発の思想を問い直した試みは途絶える。しかしだめになった訳ではない。国土開発をグローバルスタンダードとして考えなければならない。周辺諸国。中国にしても韓国にしても独自の開発思想を。日本をある意味で疎ましく。外交や安全保障、国際的視野を抜きにして語れない。日本の主張を明確にして世界に伝達しなければならない。日本では大型開発は終わったとされたが、政権交代の中で。今までの開発ではいけないがどうやっていけば良いかが足踏みの状態。人材育成。エリートの育成。開発の真のプロを作り出す。良いチャンスが来ている。東日本大震災。ボランティアやNPO。国土の復興を通じてやがて次の災害の備えを。未来を見据えた国際的なモデルにできる。もうじきオリパラが。東京を中心とするインフラを。復興かオリンピックかの二者択一ではなくどちらも。インフラや開発を防災や都市再生を。真逆に見えても同じ俎上に乗せる。差し当たりグローバルスタンダードを。考え直す時代に。

 

グローバル化と私たちの社会 (放送大学教材)

グローバル化と私たちの社会 (放送大学教材)

 

 

 

増補新版 歴代首相物語 (ハンドブック・シリーズ)

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 新書館
  • 発売日: 2013/12/07
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書)

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近現代日本を史料で読む―「大久保利通日記」から「富田メモ」まで (中公新書)

近現代日本を史料で読む―「大久保利通日記」から「富田メモ」まで (中公新書)

  • 作者:御厨 貴
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2011/04/25
  • メディア: 単行本
 

 

激情。

1929年からの世界大恐慌では日本経済にも深刻な影響を与え窮乏する人間が急増した。これを救おうとする勢力は多数あったが、軍の青年将校はかなりの勢力を占めるようになる。貧しくなっている農村出身者が多くを占めたのが理由である。青年将校の激情から五・一五事件で現職総理を暗殺し二・二六事件でクーデタを起こすに至る。これらは鎮圧されたのだが、尋常な手段で無いと現状打破は出来ないとの結論を日本社会は出した。1945年のカタストロフィcatastropheへは一本道だったかもしれない。