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火災予防の仕事をする警備員。

昨日のことだが、阪急高槻市駅の建物の中の手洗いに居ると非常ベルが鳴った。場所が場所なので動けないでいると放送があり、火災では無いとのことであった。屋内の火災だとダクトを通って予想もしない所に飛び火することがあるのだが、幸いそういうことも無かったようだ。俗に言う誤報である。

20年前に梅田の地下街で警備員をしていた頃は、火災感知器の誤報が時々あった。大抵は煙で火災を感知する感知器が元になっていて、煙草の煙やら調理の際の煙やらが原因になっていることが多かった。しかし火災感知器が異常を示すというのは火災の可能性がある訳で、緊張しながら対処をしたのを思い返す。当時は放火の割合も高くなった頃でもあったので、物品放置を行なわないようテナントの責任者と話をしたことも何回かある。防火の仕事はこれからも施設警備をする人間には必須のもののままであろう。

アメリカの大学におけるキャンパス文化の歴史(2)ユニバーシティの登場以降の時代(子ども・青年の文化と教育第12回)

そもそもアメリカの大学は本当に真面目勉強文化なままなのだろうか?違う面もあるように感じられる。

 

岩田弘三。アメリカの大学におけるキャンパス文化の歴史。ユニバーシティ登場以降。東京理科大学の大島先生と。前回はユニバーシティの登場以前。引き続きユニバーシティ登場以降を。課外活動中心は厄介な存在だった。ユニバーシティの時代を迎えると野外活動は好ましいものと。積極的価値を認めていく。米国においては遊び文化が飛躍的発展を。第一次世界大戦後は勉強文化が取って代わる。ユニバーシティ化のカレッジの回帰や同窓会活動など。社会進化論の影響。アメリカの遊び文化の全盛期。なぜ勉強文化が取って代わったか。
ユニバーシティの時代になると。カレッジの伝統的理念への回帰。大学院の創設という意義があった。カレッジへの影響は?ユニバーシティ運動はカレッジをユニバーシティ化する方向に。大学教員の変化。現在はProfessor。カレッジではTutorだった。研究をすることも要求され牧師は姿を消す。研究を行う専門職集団に。学生の人格形成面、生徒指導を嫌がるように。選択性カリキュラムの浸透。専門に関係のあるもののみを学べば良い。個々の学生はバラバラに授業を。クラス単位の人間関係は薄れる。学生数の増加。なるべく多くの授業科目を設置して魅力を高める。多くの大学は学生数の増加に。担当教員も多く用意する必要が。人件費も嵩む。授業料収入を増やす。ハーバード大学の例。06年には600人にまで。学生の増加は社会化が困難になる。そこで学生への生活指導面の空洞化に対応するために学生組織を公認する。学生自治会や野外活動。学生の管理を学生自身で。課外活動を中心とする学生組織を。キャンパス遊び文化。同窓会パワーの。ユニバーシティの維持に膨大な経費を。教員引き抜きなど。多額の寄付を募る必要がある。政府への財政援助を。発言力が増す。理事の構成。同窓生が増える。ビジネス界から。野外活動で一体感を。ノーベル賞より望ましく。ハインズマントロフィー。カリフォルニア大学でもアメフトや野球に口出し。関心の強さは寄付の面でも。学生会館が。学生監督の空洞化に対処するために学生部長を。多くは同窓生。課外活動を中心とするキャンパス遊び文化。新たな大学進学者層。特に女子学生。指数関数的に増加。70年には0,7%なのが30年には10%に。中流階級が中心。90年代まで職業に就くことを想定していない女子学生が。上流階級の出身者。結婚のみを前提とするので成績を関係せず遊び文化に。ファッションデートに関心。モラトリアムを。20年代に増加。未来への夢のために知的発達をするより遊びを。女子大学では評価基準が勉強中心から変化。キリスト教精神とは別に享楽主義に堕落。世俗化が進む。20世紀初頭までに遊び文化が席巻。
キャンパス遊び文化の飛躍的発展を。社会進化論を元にした優生学思想が。民族的国家的生存競争の中で生き残らなければならない。揺るがしている事態があると支配層に。危機感。アメリカでは19世紀後半になりフロンティア精神の衰退の危機。西部開拓も一段落して失われる。移民。20世紀になると非西洋系に。WASP。白人アングロサクソンプロテスタント。それ以外が流入。アメリカ文化の均一性の維持が大問題に。民族的自殺、という言葉。上流中流に。移民は子沢山なので比率が増してアメリカでなくなると危惧。多くのアメリカ人論者が。西洋系移民に変わり東欧系南欧系。犯罪が増加。都市化が原因だったが、移民が原因とみなした。WASPの民族的差別意識。バチェラープログラム。当時の大学生は上流中流階層で最優秀に。子孫を残すことをしていない。独身男子学士問題。学士号と独身男性の2つの意味を掛詞的に。大学卒業生の少子化。敵対的態度を変化。何人かの政治家は雄々しさをスポーツに求める。フットボールは野蛮だとみなす考え方が変化。闘争心に満ちた荒々しさが男子学生に相応しいと社会的風潮が。フットボール危機。死者になるまでになりフットボール廃止を検討。時の大統領は弁護して救いの手を。上院議員は世界制覇の犠牲と。心身創建なスポーツ選手。カレッジスポーツの存続に。特に組織的なスポーツは若さの健全な発揮に。大学対抗戦は大きな収入にもなる。巨大なスタジアム建設を。大学側は課外活動施設を。女子大学も。課外活動文化を謳歌。優生学少子化問題の矛先は女性大学でも。既婚者の比率や子供の数は低いことが判明。15年には女子大学への非難の告白。不毛な知性に埋没して血統を絶やす。隔離は大失敗と。女子大学を避ける。存立の危機に。幾つかの女子大学は家政学の導入を。24年に科学的理論的勉強を応用できるように家政学を。優生学的少子化の影響。キャンパス文化にも影響。女性大学に異性とのデート文化を。20年代に花開く。以前は異性が介入することはなかったが大きく変化。前段階がある。19世紀末には隔離政策を取っていた。兄弟でさえ禁じられる。女性同士の。共学大学でも20世紀初頭までは授業以外の接触は禁じられていた。00年代あたりから若い男性との接触が。ダンスパーティー。19世紀末辺りから男子学生を招くように。男女のカップルがダンスをするというより散歩に過ぎなかったと。13年までには規制を緩めてダンスパーティーが定期的に。20年代になると異性とのデート文化に。加えて自動車の普及が促進。後部座席が。隠れられる。学外での男性のデートに関心を。女性教師の評価にも大きな変化。親しみや崇拝の念から、20年までに独身を貫く女性教師を第3の性と。週末の2日間には異性とのデートや旅行で大学は蛻の殻に。女性同士は非婚化の原因になるとされる。勉学ばかりしていたのでは結婚できないとの偏見が。男性とのデートは望ましいと。
大学生活の中心部分に野外活動が。20年代には遊び文化の黄金期に。09年には遊びキャンパス文化の隆盛を嘆く大学副学長が。本業を呑み込む。観客を引きつけようとしても無駄。女子大学でも多くの教員が嘆きを。03年のつぶやき。かつては学問のための学問に。今は衰退した。学生の風潮は今や勉学以外の活動に。部活動、交友、スポーツ、演劇などに。キャンパス内で最も遊行に。バブル前の日本の大学に似る。遊びキャンパス文化は絶頂期を。非常時を経て戦後に沈滞化。真面目勉強文化に転換。復員兵が多数大学に入学。職がないので政府も支援して先延ばしして専門的な。復員兵援護法。大学を職業訓練の場と捉える。多数派は遊びたがる学生だった?公然と侮蔑する傾向があったはず。自分たちのために戦った復員兵に規範を押し付けるのは困難。喧嘩を挑む無謀な学生も居なかった、規範は真面目勉強文化に。専門職を求めての大学院進学の機運。大学院入学共通テストと大学の成績で。日本の大学でも社会人学生が。大学院の進学者も増えている。遊び文化から勉強文化に転換する?社会人学生。面接授業。放送大学での。真面目勉強文化に。重要な原動力に。アメリカの場合は厳つい軍隊体験者が。日本の場合は人数の増加が必要。大学院進学者の増加。文化系では5%を切る。理科系に限られる。理系はよく勉強している。学部時代には真面目に勉強。実験にも多くの時間を。遊び文化は文系限定?文系でも院進学が一般的になると勉強文化が広がる可能性がある。
アメリカの大学がユニバーシティになり遊び文化に。戦後には真面目勉強文化に。

 

子ども・青年の文化と教育 (放送大学教材)
 

 

清廉潔白。

過日の自民党の総裁選では各候補の陣営が国会議員などに働きかけを行ない、いわゆる実力者を含めた議員なども行動し複雑な展開に相まった。それは自民党に限らないが、勢力が大きく政権を掌握しているのでマスコミなども大々的に取り上げる。宣伝効果があるのは事実だろう。これに加えて、昔の一時期の総裁選では国会議員などから現金で票を買うような行為もなはれたとされる。そもそも一政党のことなので公職選挙法には違反しないが、清廉潔白でないのは否めない。さすがに最近ではこの種の話は出ない。仮に出れば致命傷になるとの認識が共通のものになっているのだろう。

今晩18時から大阪10区のネット討論会の開催の予告。

今日は夕方5時のUPを大幅に早める(紹介するのが今晩の話なので)。

 

今晩は衆議院議員選挙大阪10区(区域は高槻市と島本町である)の立候補予定者3名によるネット討論会が18時から19時半まで(予定)行なわれる。実施する団体は一般社団法人である高槻青年会議所である。この団体は衆議院議員選挙の度に、立候補予定者を招いて高槻現代劇場(阪急の駅から10分足らずで行ける所である)などで公開討論会を挙行していたが、今回はコロナ禍ということでネットでの開催となった。候補予定者は3名だが激戦と言われている(要するに泡沫候補?が居ないので誰でも当選の可能性がある)ので、一聴の価値はあるのではないかと思われる(特に高槻市や島本町の国民にとっては)。青年会議所のページにリンクを貼っておく。記事の下の部分のリンクを踏めばYouTubeが立ち上がるようになっている。他にはInstagramでもライブをするということである。

アメリカの大学におけるキャンパス文化の歴史(1)カレッジの時代(子ども・青年の文化と教育第11回)

同じアメリカという国であっても歴史的に大学は異質なところがあると知る。一般教養の内容も当然ながら違う。まあ古典語を学ぶ人間は珍しくなったと言える。

 

岩田弘三。アメリカの大学におけるキャンパス文化の歴史。カレッジの時代。大島先生を迎えて。高等教育の研究者として。今回と次回でキャンパス文化の歴史。対比する形で日本の現状のキャンパス文化を。アメリカにユニバーシティが登場する以前のカレッジの時代。教師はいつも教えたがり学生は遊びたがる。アメリカの学生はよく勉強するが、それほど昔の時代ではない。課外活動文化が。アメリカの大学の歴史の基本知識。カレッジ。ユニバーシティ以前の大学教育の特徴。学生の特徴。どのようなキャンパス文化が。男子学生と女子学生。この時代のキャンパス文化と大学教育の関係。
ユニバーシティとカレッジの違い。日本の大学に相当。総合大学と単科大学と訳される。しかしカレッジは単科大学と適切ではない?アメリカや日本の場合は?単科大学はどのような大学?一つの学部しか持たない。日本の場合。例えばなになに工業大学経済大学など幾つかある。自身の大学名は英語名は?どこもユニバーシティと。ハーバードカレッジ。全く別?ハーバード大学で学部教育を担当。アメリカの大学でも大学院を持つのは沢山ある。専門職大学院や教員養成の。医科大学院。プロフェショナルスクール。学術大学院。カレッジという名前を持つ大学。学部教育を重点に。日本の場合は大学院を持たない大学が多かった。殆どの大学は学部教育を重視。カレッジの方が正確?ユニバーシティと名乗っている。日本で専門職になるには国家試験を。学部卒業を取得すれば受験資格を。アメリカでは学部卒だけでは専門職になれず大学院に行く必要がある。専門教育はあくまで大学院。カレッジはリベラル・アーツを。中山茂。教養大学。日本の場合でも専門教育をユニバーシティが。アメリカでは大学院を持つ大学がユニバーシティ。
なぜアメリカでは教養教育をカレッジと呼び専門教育を区別しているか。19世紀後半以前は全てカレッジ。殆どがキリスト教の。大抵はひなびた田舎に。小規模教育。生徒数は100名以下だったり。古典を中心とするカリキュラム。興味関心は取り入れられない融通が効かない。大学講師兼牧師。私生活や学生と同じ部屋で寝るなど学生と一緒。人格的成長を。堕落しないように激しい管理を。ユニバーシティが登場するのは19世紀後半。17世紀前半以降はカレッジだけ。なぜ新しい種類の大学が?大学に期待される役割とは。教育と研究。歴史的には教育に加え研究も役割になるのは19世紀以降。近代大学。ベルリン大学が始まり。それをモデルにして研究大学がドイツに。20世紀初頭まではドイツが学問技術がめざましく。原動力は研究大学であるとみなされる。世界中からドイツに留学。北里柴三郎、長岡半太郎などが。文化系の学問でも。アメリカも同様。ドイツ留学経験者がユニバーシティを作ろうと。アメリカの産業革命、専門職の地位向上と規模拡大。専門教育を担わせる。古典中心から産業界の要請に応える。ユニバーシティ運動。ドイツの例に習いカレッジを専門職養成の場に、ユニバーシティ化。自然科学と。順次近代科学に。カレッジの世俗化。アメリカのカレッジは教養教育という考え方は強固。カレッジの外に。76年のジョン・ホプキンス大学。カレッジの上に大学院大学を。教養教育のカレッジの伝統がそのままに。ドイツを始めヨーロッパでは教養教育は高校レベルで終了。基本的には日本も同様。国際比較は難しい。日本とアメリカの大学教育の比較。学部教育を比較する?専門教育をどこで?一般教養教育と専門教育。アメリカでは研究中心は大学院。国際比較は難しい。アメリカのカレッジは人格完成を。入試のあり方にも。どのような方法で入学者を選抜?ハーバードではアドミッションオフィスで。SATという学力試験。高校での成績。面接小論文。親の職業。同窓生が一族に居るか。いわゆるアドミッションオフィス入試。極めて学力の高い学生は優先的に。最低限の学力が無ければ。しかし学力以外も重視されているのが特色。私立大学に強い?制度こそ異なるが公立大学を含め学力だけではなく総合的評価で。なぜそのような選抜方法の多様化が。カレッジは人格形成を、一般教養を。専門職要請の大学院では学力検査を。
カレッジの時代における学生の特徴。どのような学生?裕福な師弟?高額な学費の支出を。実は大学進学にかかる費用は目に見えない費用も。進学しなければ進路は?就職して働いていれば受け取るはずの放棄所得、機会費用を。家の収入を助けるために子どもの働きを期待する家庭も。その上に学費を。大学進学は高嶺の花。ビジネス界への成功を。当時の学生が大学教育に期待するものは?ビジネス界には役に立たない。野外活動こそが最も役に立つとみなす。弱肉強食の世界が卒業後に。課外活動こそが一種の模擬訓練に。大学とは知的な知識技術ではなくコネやマナーなどを学ぶ。学業とは不正を行おうとも落第しないようそこそこに。勉強に励む学生は仲間はずれになりさえする。学業のタブー。反知性主義の性格を色濃く。非実用的な知識や人間への反発。学生とカレッジの間に意識の差が。チューターは日がな日常生活の細部まで監督。抑圧的な敵。暴動含め反抗的に。苦痛でしか無い授業や礼拝を妨害。暴動さえ起こす。賄い騒動。寄宿舎の食事についての要求。新入生イジメ、クラスタイプで。カレッジスポーツが発達。ハーバード大学ではデルタで新入生対2年生のサッカーの試合、というか殴り合い。血の月曜日。新入生の間では同士討ちでさえ。試合は全滅した新入生のうめき声に。逃げ遅れた新入生に止めを。学期の始まりに。サッカー以外の別のスポーツ種目でも幾つかの新入生イジメの対抗戦を。ハーバード大学では月曜日に。この日には教員会議が。制止するはずの教員が居ない。学年対決のスポーツ対抗戦が。学内の活動として発展。他大学と比較したいと。大学対抗戦に。スポーツ以外の課外活動。精神的空虚感を埋めるために。独立戦争少し前から組織を。討論クラブなど。課外活動は学生にとり退屈な授業、古典語が中心。教育方法も復唱が主だった。覚えさせて指名して話させる。知的空虚感を埋める。文芸くらぶ。反知性主義の元で衰退。南北戦争後。出版音楽、社交生活。大学対抗戦の開始でスポーツチームが組織。
カレッジの時代の女性学生のキャンパス文化。この時代の女性の状況。男性優位社会で女性には品行方正が求められる。女子大学では息が詰まる。教員集団には女性教員だけで。学生を隔離するため全寮制を。寄宿舎が教室と同じ建物に。完全隔離を。教室は下の階に。建物の出入り口は玄関だけ。階段一つだけ。近くに教員を配置。建物の設計以外には?学生たちは部屋の扉を開け放つように。如何に努力したか懺悔させるのを毎日。女子学生たちも多くの規則違反や息抜きを。70年代になると組織化された学生文化が。学生雑誌や学生自治会など。会員制の社交クラブも。演劇やスポーツは一体感を高める。効用を認めて演劇などは厳しくなかった。様々な課外活動が隆盛を。女子学生文化。疑似恋愛ごっこ。クラッシュという女性同士の。贈り物をしたり恋文をしたり。ニューイングランドでは。当時行われた健康調査では深刻な影響を。女子学生に蔓延。様々な新入生歓迎の行事を。そこでも恋愛ごっこ。マナーなどを学ぶ模擬訓練。世間的知識を授業を通してではなく。教育目的から大学の役割ではない。上流階級の出身者を中心に世俗的知識のほうが実践的とみなす。学生と大学の期待する教育内容のGap。空白を埋めるために様々な野外活動を。
カレッジの時代のキャンパス文化と大学教育。大学対抗戦。人気を呼び一般の観客も。広報として援助を。しかし紳士養成が目的。フットボールは野蛮と。成績の悪化も問題視。全ての野外活動にも。遊びキャンパス文化を公然と認めることはなかった。

 

子ども・青年の文化と教育 (放送大学教材)
 

 

 

 

 

 

罵詈雑言。

2年前の7月12日のentryで地元集中という運動で中学校の先生から罵詈雑言を浴びせられたことについて書いた(地元集中については何度か書いている)。

何しろ最後は校長にまで地元の高校に行くよう面接で言われたのだから、ある意味で高槻市の教育委員会ぐるみで行なわれていたと言える。何とか耐え抜いて他の高校に進学したのだけど。まあ一般に罵詈雑言を浴びせる側の勢力が最終的には衰退すると私が分かるようになるのは後のことになる。

それで進学を勧められた地元の高校であるのだが、廃校の方向で議論が進んでいる。

https://www.osaka-c.ed.jp/shimamoto/zaikou/tougou.pdf

高校の機能は統合先の高校に継承されるそうだがどうなるのだろうか。なお自治体で唯一の公立高校であり、地元への影響がかなり大きいと考えるのだが、それは何処まで検討して意思決定が為されたのかは不明である。3年連続定員割れという基準に照らして為されたことであるようなのだけど。

昭和53年の新宿発の「あずさ2号」の消滅。

今日は10月2日である。昭和53年(1978年)の10月2日に国鉄(各JRの前身の組織であった)の全国規模のダイヤ改正が行なわれた。白紙のダイヤ改正というカテゴリーがある。単に時刻を1分か2分微調整するくらいならダイヤグラム(駅を縦軸に時刻を横軸にして列車を斜めの線で描く図表)を全て書き換えることはしない。しかし特急列車を大増発するなど大幅なダイヤ改正をするときには、白紙の状態のダイヤグラムから特急列車の線を描いていく。この種のダイヤ改正を白紙のダイヤ改正と呼ぶ。昭和53年の10月2日のダイヤ改正も白紙の類であった。なお10月2日と中途半端なのは昭和53年の10月1日が日曜日だったからである。

ダイヤ改正の内容はWikipediaなどを見てもらえば良いけれど(最後にWikipediaのリンクを貼る)、特筆すべきは在来線(新幹線ではないという意味である)の特急列車の号数を下りは奇数、上りは偶数という形式に変えたことである(下りは東京から地方へ行くもので上りはその逆である)。これまでは下りと上り双方に「あずさ2号」があったのが、上りだけが「あずさ2号」とすることになった。狩人というデュオのヒット曲に「あずさ2号」というものがあった。新宿から松本方面の8時ちょうどの「あずさ2号」で旅立つ、という歌詞なのだが、このダイヤ改正で新宿発の「あずさ2号」が無くなった。東京方面から地方に行くことになるので。要するに「あずさ1号」か「あずさ3号」でないと旅立てない、ということになった。まあ指定席の販売での混乱が無くなったのは良いことだったと思う。

ゴーサントオ - Wikipedia