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責務。

法律の条文の中に責務規定と呼ばれるものがある。各法律の目的や基本理念の実現の為に各主体の果たすべき役割を規定する内容である。国や地方自治体の責務を規定するものが多い(国民の責務を規定するものも少なくないが)。日本国憲法の第25条2項には「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」とあり、これも責務規定と考えられている。ただ努力義務と解するのが憲法学では一般的である。まあ義務と言っても責務と言っても具体的内容は曖昧なことが多く、義務や責務を果たしているかどうかも不明になってしまいがちである。

風邪症候群とインフルエンザと新型コロナの比較。

今現在(単語がダブっているが気にしてはいけない)の日本では、新型コロナウイルス感染症は沈静化していると判断して差し支えないと思われる(当然だが再流行の可能性はあるが)。ただ世界の国々の中には感染拡大の局面にあるところもある。ヨーロッパではドイツなどが該当するが、人々の中にはマスクをしていない人間も少なくないように画面越しには見受けられる。後は日本よりワクチンの接種率が低い国もある模様である。少なくとも死亡率は減っている筈だがどうなのだろうか。後はお隣の韓国でも感染拡大が。ただ日本同様、人々はマスクを着用している。日本も似た状況なら同様に感染拡大する可能性はあるだろう。

それで冬になったので(しかし日本シリーズが大々的に展開されているのであまり雰囲気は出ないが)、風邪症候群やインフルエンザinfluenzaの流行も危惧される。今朝ポストに回覧板が入っていて、比較表が掲載されていたので紹介する。

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正直なところ見分けづらいと言える。もちろん違う疾病ではあるのだけれど(ただ風邪症候群というのも様々な種類が混ぜ合わさっている)。結局は体調が悪ければ無理はしないで医療機関に受診に行く、ということに対処法は尽きる。もちろん新型コロナウイルス感染症の可能性はあるので、保健所などに事情を説明した方が良いかもしれない。後はかかりつけ医があればbetterだけど、無ければ検索して近い所に通院するしかないだろう。後は徹底的に予防するのが大事。今春の大阪のような事態になると、他の疾病でも医療に繋がらなくなるかもしれないのだから。

辛亥革命と東アジアの変動(現代東アジアの政治と社会第3回)

日韓の関係や日中の関係は今を理解するために踏まえておくべきだろう。

 

家近亮子。辛亥革命と東アジアの変動。東アジアの10年代は激動の時代。この時代に起きたことが歴史認識問題の根源に。朝鮮半島の分断につながる。日清戦争、日露戦争には朝鮮半島の支配権。日清戦争以前から。当初の計画は清朝の影響から日本型の近代化を推進することで日本の影響下に。94年7月に朝鮮王宮を。遼東半島の返還が決まるとロシアの影響に。改革政策を。保守派の反発を。井上馨とともに親日的政策を。本格的近代化の失敗。三浦梧楼。兵士を伴い王宮を襲う。この事件は雇われていたアメリカ人などに目撃され国際問題に。三浦梧楼を召喚する。民衆の反日感情が悪化。大規模な義兵運動が。親ロ派のクーデタ。親日派は日本に亡命。97年皇帝となり大韓帝国と。対立が激しく。近代的な立憲組織を目指して独立新聞を発行して文明開化の必要性を。皇帝は98年12月に解散をさせて99年に皇帝専制の憲法を。
日露戦争と国際関係。ロシアは朝鮮の支配を強める。義和団事件の際に満州を占領して朝鮮半島の中立化を日本に。02年に日英同盟を。ロシアは満州支配を合法化しようとしたが国際的に反対が。ロシアの野心を削ぐために日露戦争が。日本の勝利の要因。ロシア国内での革命。結果として05年にポーツマス条約。ロシアは大韓帝国における日本の利益を認める。旅順などの権益を公布。韓国についての地位を。旅順や大連や満鉄を獲得。
日韓併合。04年8月に第1次日韓協約を。顧問を任用させることを。伊藤博文を派遣して第2次を。保護国化に対し義兵運動を。07年には第3次。軍隊も解散させる。09年に7月に併合案を閣議決定。日本への反発が高まる。10月には安重根に伊藤博文が殺害。日本領事館に引き渡され10年2月に死刑判決を。日韓併合を加速。ナショナリズムのシンボル。10年6月に施政方針を閣議決定。寺内正毅が併合の覚書を手渡す。併合については韓国の閣議でも。一切の統治権を永久に皇帝陛下に。10年8月29日条約が正式に交付され大韓帝国は消滅。形式的には合意で。韓国国民の民意であり平等な立場で。実際には植民地支配。韓国人民の怒りは韓国皇室と政府にも向けられた。新政権への動き。中国での動きが。
辛亥革命。背景には清朝の西太后の改革の失敗。08年に謹製憲法大綱を。大幅に明治憲法を模倣。両者の比較分析。明治憲法は自由民権運動から。70年代なかばから盛んに。政治結社が次々と。愛国者は80年に国会期成同盟に発展して全国で運動を。各地で請願が。政治結社は憲法の草案を。10以上にも。憲法制定の要求は下から。主権在民三権分立など。プロイセン憲法など。伊藤博文は政治機構を改革。制定までの過程。84年に華族令が公布。明治維新後功労があった人を。政府首脳の殆どに爵位が。貴族院の選出母体に。内閣制度を。内閣総理大臣を置き。伊藤博文。ヨーロッパ流の法律制度。六法が作られ近代的な。憲法制定の作業を。86年から憲法起草を。89年2月に公布される。明治憲法の特徴は主権が天皇にあること。天皇は神聖にして犯すべからずと。政治権力での政策決定権がどこにあるかは解釈の余地が。天皇と議会の協賛。裁可。許可を与える。およそ法律は議会の協賛を。議会の大きな権力が。西太后の憲法。欽定憲法大綱。皇帝の権限と人民の権利。神聖にして尊厳ある。明治憲法の完全な模倣。以降は全く異なる。すなわち皇帝の権限は絶大に。法律を決定する権限を。政策決定権が皇帝に。議会の開会や解散や司法権も。国民の自由を制限。形を変えた皇帝の専制。清朝末期の知識人や大衆に失望を。08年11月。連続して亡くなる。清朝の弱体化。憲法の違いが原因。ここから中国は近代化の模索を。
孫文と辛亥革命。革命派の存在。中心は孫文。広東省に産まれる。中国と台湾では孫中山と呼ぶのが一般的。亡命の時期に日本名を持っていた。中山という名字が気に入っていた。広東省には洪秀全の太平天国の乱の余韻が残っていて、幼いことに英雄物語を。三民主義には影響が。革命思想を抱く間接的要因。79年にハワイへと。83年までに教育を受けアメリカ型の民主主義を。中国は遅れていると。83年に戻り政治運動を。地主と対立。11月には洗礼を。清仏戦争の敗北から志を。革命の準備を。93年に広州で勤務していて興中会結成の準備を。中華を回復する。94年に興中会を成立。中華の回復は中国の悲願。革命運動の最初の目的はアメリカ型の政府を。中国国内では非合法化されたので拠点は日本など外国に。日本における孫文を支援して資金援助も。日本型の近代国家に期待を。他の革命団体。光復会など。自らの興中会との連合を。05年に中国同盟会を。東京に。ホテルオオクラの場所。共和国の建設を実現することが合意事項。中国同盟会は中国で蜂起をしたが失敗に。孫文は外国を転々と。中国国内では多くの革命団体が。07年に東京で共進会を。国内と辺境の同時蜂起を目指して。新軍。新式陸軍に。36陣。文学社。同調者の獲得と革命思想の普及に。鉄道を外資導入で国有化。清朝はそれを担保に借款を。鉄道施設権を買い戻す努力をしていたが利権を守る為の運動が各地で。8月には成都でゼネストが。同盟会に指導された農民が蜂起。新軍内部で革命派の形成に成功。武装蜂起のための組織を。10月に租界内のアジトで。爆弾を誤って爆破。急遽に武昌で蜂起。アメリカの新聞記事で孫文は知る。孫文は中華民国元年を。臨時大統領職は短命に。長く中国を離れていて北方に影響がほとんど泣く権力維持の環境を欠いていた。北洋軍閥を率いる袁世凱に。臨時大統領を。中華民国臨時約法を発布。アジアで初めての民主的憲法。画期的な内容。充分に機能していれば民主化が。結果的には憲法は廃止を余儀なくされる。13年の第1次総選挙は国民党と共和党との主導権争いが。国民党の勝利。テロに走る。各国と大借款を。軍事力の増強を。第二革命が起こるが鎮圧される。袁世凱は14年に国会解散命令を。中華民国約法を。終身大統領を目指す。次第に帝政復活を。21か条条約。
日本への影響。辛亥革命は関心が高く新聞でも報道。対中国外交政策の多様化と中国政策の混迷の契機に。チャネルの多様化。辛亥革命は日本の政局にも混乱を。大正政変に。清朝を擁護するグループと革命派の支持を。対中外交の多極化は今後も特徴に。日清戦争に比べ日露戦争が戦費が8倍になるなど負担が多く増税に。非戦論に加えて与謝野晶子が反戦に訴える。キミシニタモウコトナカレ。大変に大胆。賛否両論を。2歳年下の弟は出兵して実は生還して長く与謝野晶子を支える。社会主義の風潮を。アジアの中でもっとも早く普及。重税や労働環境の悪化など。08年に社会主義者を取り締まる方針を。10年5月に大逆事件が。文学界にも大きな衝撃を。幸徳秋水を救う運動を。共和政の成立は思想界にも影響。男女平等は解放運動に影響を。

 

現代東アジアの政治と社会〔新訂〕 (放送大学教材)

現代東アジアの政治と社会〔新訂〕 (放送大学教材)

  • 作者:家近 亮子
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

蒋介石の外交戦略と日中戦争

蒋介石の外交戦略と日中戦争

  • 作者:家近 亮子
  • 発売日: 2012/10/25
  • メディア: 単行本
 

 

義務。

俗に親が自分の子供に対して持つ権利を「親権」と呼称すると考える方が一般的だと思われる。しかしそれは正確ではなく、「権利」だけではなく「義務」であるとも考えられている。親権の内容としては子供の利益のために監護・教育を行なったり子供の財産を管理したりすることが挙げられるが、幾ら監護をする権利があると言っても社会通念を超える懲戒をするのは親権の濫用とされる。基本的に親権は両親の共同親権の形を取るが、離婚をする際にはどちらの親が親権を行使するかを決定する。

某都議会議員の辞職と都民ファーストの会の不誠実。

6昨晩の18時過ぎから某都議会議員が記者会見して辞職すると明らかにしたのはニュースで見た方も多いだろう。恐らく批判しない人間は居ないのではないかと思うし私も同意見なのだが、今になり非難しても仕方がないので違う観点から書いてみたい。今回の無免許運転での当て逃げ事故は都議選の投票日の2日前のことであるが、これも含めて少なくとも7回ほど現職の都議会議員でありながら無免許運転をしたそうである。このこと自体が尋常なことではない。警視庁絡みの案件を審議する人間がごく基本的な交通法規を無視しているのだから。昨日の記者会見で某議員はかなり憔悴しているのが伺えた。もしかしたら体調不良は大嘘とは言えないのかもしれない。しかしあまり正常な意思決定が出来るような状態とも見受けられない。こういう人間は無免許運転をしたかどうかに関わらず議員を続けるべきとも思えないので辞職されるのは当然であるが、無免許運転を何度も繰り返す時点で既にどうかというレベルの話である。

後はなぜ4ヶ月も辞職を先延ばしにしたのかがよく分からない。本人が正常な意思決定が出来る状態ではなかったから辞職が昨日になってしまったと考えることも出来るが、辞職した某議員本人だけの問題だろうか。公職選挙法112条5項により、選挙日から3ヶ月以内に辞職したときは法定得票数を得ていた次点者が繰り上げ当選となる(今回の板橋区の場合は次点の自民党の河野雄紀氏が該当する)。ところが3ヶ月を超えると繰り上げ当選にはならず原則として欠員のままになる。辞職した某議員が所属していた都民ファーストの会は早々に除名してそれで済ませていたのかもしれないが、自民党の候補者が繰り上げ当選になるのを嫌がって放っておいたという見方も出来る。というか私が河野雄紀氏の支持者なら間違いなくそう見做す。この点でも板橋区の住民は怒って良いのではないかと思う。

少年非行の歴史的推移(司法・犯罪心理学第3回)

ベクトルが弱者に向けられているのは対象にとってはかなりしんどいものがある。強者ならまだ対策も取れるのかもしれないけれど。

 

廣井亮一。少年非行の歴史的推移。およそ70年間の少年非行の概観。時代を映し出す鏡。家族学校社会が浮き上がる。離婚虐待DVなど家族の紛争などには夫婦関係や親子関係、男女関係の歪が。少年非行の歴史的推移により83年と00年に大きな変化が。前後の非行犯罪と非行集団。
犯罪社会学の立場から。社会関係に即した。45年から60年までの民主化時代。80年までの高度成長時代。90年までの管理社会化時代。高度情報化時代。03年から現代までのネット社会化時代。犯罪社会学の立場からは少年犯罪が変わり始めたのは80年代から。00年代に至ると人間関係が変化。55年までを戦後家族モデルの形成期。安定期。98年から05年の解体期。それ以降を家族の迷走期と。噴出したのは90年代後半。75年から80年代の変化。90年代後半から05年までの変容。家裁調査官として関わった臨床実践を元に。第1の転換点が83年。家族と社会の変容に因る第2の転換点が00年。非行の特質と形態の移り変わり。戦後から現代までの10歳以上の少年刑法犯の推移。4つの波により推移。ピークの前後10年から15年を切り取ると特徴が浮かび上がる。
45年から59年ころ。貧困型非行、生活型非行。社会背景として家庭の7割が低所得層。両親が健在なのは半数以下。経済的動機。兄弟の人数は多く年長少年、中間少年、年少少年。その年長少年が親代わりになり非行を。わかりやすい。
60年から75年。反抗型非行。高度経済成長社会に。64年の新幹線の営業開始とオリンピック。お金と物が価値観に。遊ぶためのものを盗む。若者文化としてカミナリ族が。大学生の学生紛争。76年から89年まで。学校型非行。遊び型非行。経済低成長やバブルなど経済の変動。自然破壊で里山で遊べなくなり窃盗に。大学紛争が高校生に波及。中学生により対教師暴力が。83年を迎える。転換点。中学生の校内暴力のピーク。戦後最大の多発。大学生高校生中学生の反抗。権力者や権威者の強い力にぶつかる。反抗して様々な問題を起こすことで生きにくさを訴える信号を。家庭裁判所に来る非行少年も火災調査官に反抗する者が多かった。更生へのエネルギーに転嫁する方法を。軽微な事件からの段階的プロセス。問題行動や非行の各段階で児童相談所などで様々な関わりや援助で未然に防止。80年代に管理型社会に。青少年の反抗を力で。83年を境に非行少年に顕著な変化が。弱者に対するいじめが問題に。83年を第1の転換点とする少年非行の変化は攻撃性の質的な変容。83年までの反抗は強者にストレートにぶつかる攻撃性のベクトルが。管理された結果、弱者に対する歪んた攻撃性に。83年はファミコンが登場してIT文化の魁に。強者への反抗。父親反抗。精神科医のなだいなだ。「権威と権力」。言うことを聞かせる原理、聞く原理。子どもたちに言うことを聞かせることが父権。サザエさんちの波平お父さん。子どもたちは自主的に言うことを聞く。戦後から現代にかけての家族の変遷。サザエさんちが昭和40年代まで。ちびまる子ちゃんの家。50年代から60年代。企業戦士が父権を。クレヨンしんちゃんち。父親が消滅してお友達家族に。父性が無くなり。現代の家族にも影響。しつけと称して暴力を振るう家庭が急増。
90年から99年まで。完全失業率の増加。先が見えない。従来の価値観の転換に。極普通の少年が凶悪事件を。いきなり型非行。良い子の非行。非行歴が全くなくとても従順。日常生活と非行に大きなギャップが。何故起こしたのかわからない。学校ではいじめが深刻になり自殺事件や他殺事件が。96年頃から学級崩壊が問題に。自分と異質なものに対し激しい攻撃性を。ホームレスや親父狩り。14歳による神戸連続児童殺傷事件。酒鬼薔薇聖斗。予兆するかのような声明文。家庭裁判所調査官研修所は検証結果を報告。3タイプに。幼少期から問題行動を頻発。表面上は問題性がなかった。思春期に大きな挫折を。2番目。表面上問題がないようにしていた。3番目。志望校に進学できなかったことやスポーツの全国大会に進めなかったなど。追い詰められた心理。現実的問題解決力の乏しさ。自己イメージの悪さ。歪んだ男性性への憧れ。00年の大きな転換点につながる。00年はネット社会に移行した年。社会的営みによるコミュニケーションの世界からネット空間に変質。社会は先の見えない構造的不況や自殺者の多さ。離婚率が高くなり機能不全に。社会の歪に対して緩衝地帯になるべき家族の機能が低下して少年にダイレクトに。01年にDV防止法などが、歪に法律が介入。09年までをネット型非行。netに因る非行に移行。00年に大学生に携帯電話が。ネット媒体が普及。子どもたちに最も必要な人間関係の体感を失わせる。00年に西鉄高速バス事件など17歳前後の少年が凶悪事件を。無目的な殺害動機や不特定多数に対する動機を。04年に11歳女児による同級生刺殺事件が。低年齢化。少年法改正が。10年から19年。生徒間暴力型非行。文部科学省の10年度の問題調査。小中高で6万件以上。生徒間が3万件以上。子どもたちの暴力は83年前後にも多発したが、この頃の矛先は弱者へのいじめなどの暴力。子どものいじめ問題を13年にいじめ防止対策推進法。親や教師の監視事項に。netでの陰湿ないじめに。人は死んでも生き返る。同級生殺害事件。加害女児が被害者が生き返るようなことを言った。意識調査。死んだ人が生き返るというのが小学生の14%。中学2年生が18%。理由は様々だが。全国で聞き取り調査を。多くなる要因。3世代同居の家族の減少。人の死を実感させる大きな出来事が。農村より都市が。身体は滅んでも心がよみがえる。テレビゲームネットゲームの影響。殺し合いのゲームを持つのが3割。非常に悪い影響。ネット依存症は前頭葉を萎縮させるとも言われる。
非行少年と非行集団に焦点を。家裁調査官時代に関わった非行少年について。対教師暴力が頻繁だった頃の少年。ガラスが全て割られていた中学校。少年Aは番長をしていて市内の番長ブループを率いていた。学ランを着ていて教師に暴力を。女性の教師や弱い者いじめをしなかった。体育祭でズボンに手を入れているのを注意されて頭づきを。家裁調査官の前でものけぞっていた。睨み返して。繰り返して正面からぶつかるとポツポツと不満を。拙い言葉だがいろんな思いを。理解できて信頼してくれた。助言と指導に従いながら中学校を卒業するまでに立ち直り進学した。多くの非行少年は親や教師に反抗したりしてネガティブな表現を。家裁でも攻撃性を。エネルギーを更生への。00年の非行少年の例。B少年は進学校の高校1年生。動物虐待を繰り返して送致される。中学生まで成績優秀で素直な良い子と。強引に勧められた私学高校に進学して以来勉強もやらなくなる。親を避けて夏休みに自宅を抜け出して動物虐待を。制服を着て家裁に。調査では素直に受け答えを。気持ちが伴っていない。抑え込むような苛立ち。棘のある質問を投げかけるが跳ね返そうとしなかった。酒を飲んで暴れて大怪我をさせて逮捕され少年院送致に。非行少年の特徴は素直な良い子が突然に残虐な行為に。あたかも犯罪でネガティブな面を。あからさまな反抗をせず期待を裏切ったり約束を守らなかったりと受動的な攻撃性を。強者に向けられていた攻撃性が弱者や異質なものに対し陰湿な攻撃に。net世界に鳴りさらに変容。受動攻撃性。受動的な攻撃性。攻撃衝動が生じた場合に何らかの形で表現されるが、過剰に抑圧されると受身的な形で。上位者に対しては主張しなくなる。良い子を演じたりする。明確に表現されない敵意の反映。満足できない憤怒の表現。受動的攻撃を際立たせて端的にしたのがnetを介したいじめ。net型いじめ。誹謗中傷して他社を激しく攻撃。生身の相手と向き合わなくても致命傷をなしうる。屈折した凶悪事件の可能性が。
非行集団の変質。ピラミッド型のヒエラルキー。それに応じて位置と役割が。番長のリーダーの元で統制。行き過ぎを抑えて弱者いじめはなかった。指導するときもリーダーサブリーダーを介すると他のメンバーにも。アメーバー上の組織。ひとりひとりの役割が不明確で自他がはっきりしない。集団内の関係は希薄。メンバーに煽られやすく抑制がきかなくて重大犯罪に。1人がホームレスを蹴飛ばすとほかも追随して死なせてしまう。どこにアプローチしても難しい。暴走族と構成員。グループ数。暴走族の構成員数は82年をピークとして4分の1以下に。96年から02年については増加しているが、少人数のグループが乱立。傾向は実際のメンバーによるグループと言うより単発的な走りが。

 

家裁調査官が見た現代の非行と家族:司法臨床の現場から
 
法と心理学への招待

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司法臨床入門(第2版): 家裁調査官のアプローチ

司法臨床入門(第2版): 家裁調査官のアプローチ

  • 作者:廣井亮一
  • 発売日: 2012/09/20
  • メディア: 単行本
 

 

服従。

ミャンマーで国軍がクーデターを起こしてから9が月以上が経過した。民主派が不服従運動を起こすなどもあり平穏とは程遠い状態である模様である。日系企業のミャンマー人の従業員が犯罪の嫌疑を軍政側にかけられ逮捕され拷問をされたという事案が発生して、ミャンマーに進出していた日本の弁護士事務所の弁護士が対応にあたり拷問を止めさせたとのことである。日本大使館とも連携をとったとの話である。現在もミャンマー人の弁護士が日系企業などの対応にあたっている。そもそも外資企業は軍政下のミャンマーから撤退すべきだとの議論もあるが(税金を払うのだから支援しているようなものだ云々の論理であろう)、撤退するとミャンマー人の従業員の保護も出来なくなるので難しい問題を孕む。