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辛亥革命と東アジアの変動(現代東アジアの政治と社会第3回)

日韓の関係や日中の関係は今を理解するために踏まえておくべきだろう。

 

家近亮子。辛亥革命と東アジアの変動。東アジアの10年代は激動の時代。この時代に起きたことが歴史認識問題の根源に。朝鮮半島の分断につながる。日清戦争、日露戦争には朝鮮半島の支配権。日清戦争以前から。当初の計画は清朝の影響から日本型の近代化を推進することで日本の影響下に。94年7月に朝鮮王宮を。遼東半島の返還が決まるとロシアの影響に。改革政策を。保守派の反発を。井上馨とともに親日的政策を。本格的近代化の失敗。三浦梧楼。兵士を伴い王宮を襲う。この事件は雇われていたアメリカ人などに目撃され国際問題に。三浦梧楼を召喚する。民衆の反日感情が悪化。大規模な義兵運動が。親ロ派のクーデタ。親日派は日本に亡命。97年皇帝となり大韓帝国と。対立が激しく。近代的な立憲組織を目指して独立新聞を発行して文明開化の必要性を。皇帝は98年12月に解散をさせて99年に皇帝専制の憲法を。
日露戦争と国際関係。ロシアは朝鮮の支配を強める。義和団事件の際に満州を占領して朝鮮半島の中立化を日本に。02年に日英同盟を。ロシアは満州支配を合法化しようとしたが国際的に反対が。ロシアの野心を削ぐために日露戦争が。日本の勝利の要因。ロシア国内での革命。結果として05年にポーツマス条約。ロシアは大韓帝国における日本の利益を認める。旅順などの権益を公布。韓国についての地位を。旅順や大連や満鉄を獲得。
日韓併合。04年8月に第1次日韓協約を。顧問を任用させることを。伊藤博文を派遣して第2次を。保護国化に対し義兵運動を。07年には第3次。軍隊も解散させる。09年に7月に併合案を閣議決定。日本への反発が高まる。10月には安重根に伊藤博文が殺害。日本領事館に引き渡され10年2月に死刑判決を。日韓併合を加速。ナショナリズムのシンボル。10年6月に施政方針を閣議決定。寺内正毅が併合の覚書を手渡す。併合については韓国の閣議でも。一切の統治権を永久に皇帝陛下に。10年8月29日条約が正式に交付され大韓帝国は消滅。形式的には合意で。韓国国民の民意であり平等な立場で。実際には植民地支配。韓国人民の怒りは韓国皇室と政府にも向けられた。新政権への動き。中国での動きが。
辛亥革命。背景には清朝の西太后の改革の失敗。08年に謹製憲法大綱を。大幅に明治憲法を模倣。両者の比較分析。明治憲法は自由民権運動から。70年代なかばから盛んに。政治結社が次々と。愛国者は80年に国会期成同盟に発展して全国で運動を。各地で請願が。政治結社は憲法の草案を。10以上にも。憲法制定の要求は下から。主権在民三権分立など。プロイセン憲法など。伊藤博文は政治機構を改革。制定までの過程。84年に華族令が公布。明治維新後功労があった人を。政府首脳の殆どに爵位が。貴族院の選出母体に。内閣制度を。内閣総理大臣を置き。伊藤博文。ヨーロッパ流の法律制度。六法が作られ近代的な。憲法制定の作業を。86年から憲法起草を。89年2月に公布される。明治憲法の特徴は主権が天皇にあること。天皇は神聖にして犯すべからずと。政治権力での政策決定権がどこにあるかは解釈の余地が。天皇と議会の協賛。裁可。許可を与える。およそ法律は議会の協賛を。議会の大きな権力が。西太后の憲法。欽定憲法大綱。皇帝の権限と人民の権利。神聖にして尊厳ある。明治憲法の完全な模倣。以降は全く異なる。すなわち皇帝の権限は絶大に。法律を決定する権限を。政策決定権が皇帝に。議会の開会や解散や司法権も。国民の自由を制限。形を変えた皇帝の専制。清朝末期の知識人や大衆に失望を。08年11月。連続して亡くなる。清朝の弱体化。憲法の違いが原因。ここから中国は近代化の模索を。
孫文と辛亥革命。革命派の存在。中心は孫文。広東省に産まれる。中国と台湾では孫中山と呼ぶのが一般的。亡命の時期に日本名を持っていた。中山という名字が気に入っていた。広東省には洪秀全の太平天国の乱の余韻が残っていて、幼いことに英雄物語を。三民主義には影響が。革命思想を抱く間接的要因。79年にハワイへと。83年までに教育を受けアメリカ型の民主主義を。中国は遅れていると。83年に戻り政治運動を。地主と対立。11月には洗礼を。清仏戦争の敗北から志を。革命の準備を。93年に広州で勤務していて興中会結成の準備を。中華を回復する。94年に興中会を成立。中華の回復は中国の悲願。革命運動の最初の目的はアメリカ型の政府を。中国国内では非合法化されたので拠点は日本など外国に。日本における孫文を支援して資金援助も。日本型の近代国家に期待を。他の革命団体。光復会など。自らの興中会との連合を。05年に中国同盟会を。東京に。ホテルオオクラの場所。共和国の建設を実現することが合意事項。中国同盟会は中国で蜂起をしたが失敗に。孫文は外国を転々と。中国国内では多くの革命団体が。07年に東京で共進会を。国内と辺境の同時蜂起を目指して。新軍。新式陸軍に。36陣。文学社。同調者の獲得と革命思想の普及に。鉄道を外資導入で国有化。清朝はそれを担保に借款を。鉄道施設権を買い戻す努力をしていたが利権を守る為の運動が各地で。8月には成都でゼネストが。同盟会に指導された農民が蜂起。新軍内部で革命派の形成に成功。武装蜂起のための組織を。10月に租界内のアジトで。爆弾を誤って爆破。急遽に武昌で蜂起。アメリカの新聞記事で孫文は知る。孫文は中華民国元年を。臨時大統領職は短命に。長く中国を離れていて北方に影響がほとんど泣く権力維持の環境を欠いていた。北洋軍閥を率いる袁世凱に。臨時大統領を。中華民国臨時約法を発布。アジアで初めての民主的憲法。画期的な内容。充分に機能していれば民主化が。結果的には憲法は廃止を余儀なくされる。13年の第1次総選挙は国民党と共和党との主導権争いが。国民党の勝利。テロに走る。各国と大借款を。軍事力の増強を。第二革命が起こるが鎮圧される。袁世凱は14年に国会解散命令を。中華民国約法を。終身大統領を目指す。次第に帝政復活を。21か条条約。
日本への影響。辛亥革命は関心が高く新聞でも報道。対中国外交政策の多様化と中国政策の混迷の契機に。チャネルの多様化。辛亥革命は日本の政局にも混乱を。大正政変に。清朝を擁護するグループと革命派の支持を。対中外交の多極化は今後も特徴に。日清戦争に比べ日露戦争が戦費が8倍になるなど負担が多く増税に。非戦論に加えて与謝野晶子が反戦に訴える。キミシニタモウコトナカレ。大変に大胆。賛否両論を。2歳年下の弟は出兵して実は生還して長く与謝野晶子を支える。社会主義の風潮を。アジアの中でもっとも早く普及。重税や労働環境の悪化など。08年に社会主義者を取り締まる方針を。10年5月に大逆事件が。文学界にも大きな衝撃を。幸徳秋水を救う運動を。共和政の成立は思想界にも影響。男女平等は解放運動に影響を。

 

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