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東アジアにおける国際法の継受(法学入門第5回)

前提となっている思想からは、どの国の人間もなかなか抜け出せないものかもしれない。

 

アヘン戦争以降の西洋列強アジア進出。国際法による影響。法の継受。主体的に自らのものとする。西洋の法を受け入れる。
近代中国と国際法の受容。清朝が向き合う。1840年のアヘン戦争。林則徐。アヘンの没収や廃棄などの対策を。その際にごく僅かに国際法の翻訳を。国際法の書籍から中国語に翻訳。バッテル。外交官として。フランス語から2年後に英訳。翻訳者はパーカーはアメリカの宣教師。部分的な翻訳で量も少なかったが、条項を戦略的に活かしてアヘンの取締に。逆手にとってイギリスに対し、西洋諸国に守られている国際法に違反している。この措置は国際法に則っている。敵を知り己を知れば百戦殆うからず。相手方のルールを引き合いに。イギリスが宣戦布告。広東以外があっさり降伏。1842年に南京条約。莫大な賠償金。上海などの開港。中華思想が見え隠れする。香港島の割譲についての南京条約第3条。イギリスの商船は遠路はるばる、修理が必要なことがあるので、停泊できる港があるのは望ましい。ついては皇帝は女王に譲り統治を任せる。条文の中国語版と英語版を比較すると、英語では正式に領地を割譲するのに対し、中国語ではただ与えると言う意味のみ。国際法が継受されていない。双方がそれぞれ違うものを前提としている。中華の皇帝は商船が補修が必要となるので、香港を給与する。哀れんで温情を示す形で。中華思想と矛盾しないように。中華思想は最も徳の高い人物が中華に君臨して、周辺の国々は貢物を。中国の皇帝が位を与える。冊封体制。中華思想は近代国際法と全く関係がない。国際法の用語に該当する言葉がない。領海などといった概念も無い。会話には多大なる困難を。当時の中国人にとり、中華思想は当たり前の前提。抜け出るのが如何に大変か。
万国公法の翻訳。不平等条約が結ばれたからといって、何もかも西洋列強の思い通りにはならない。中国語を話せる人間はそれほど多くない。ネットワークに食い込むのは至難の業。56年にアロー戦争を。北京条約。天津の開港や九竜半島の割譲。天津。天子の港。北京の目と鼻の先。清朝にとってみれば次元の違う話。沿海州も失う。清朝は各国が対等になる体制に引っ張り込まれる。新たな外交体制を。万国公法の翻訳。64年に刊行。著者のホリートン。各所の代理公使に。マーチンが翻訳。他にも国際法の文献を。列強側としては国際法を理解させることで対等の立場に引っ張り込む。国際法という共通言語で話が出来るように。国際法という手の内を明かすべきではないという反対論もあった。清朝には逆手にとることも。実用性と一定の限界を有する。中国にとっては実用的な知識は相対的に重視されない。科挙では四書五経など経典の理解が重視される。知識人にとり国際法は異民族のもの。戦国時代には既に国際法が成立していた、というごじつけを用いている。
日本や朝鮮。万国公法、中国の翌年の65年に出版?実は中国で出版されたのは65年。1年足らずの短期間で行なわれたのは驚くべきもの。出版当時から大流行。志士に読まれた。副島種臣。明治維新の成功は万国公法を中国が翻訳してくれたから。隣の国がはるか先に行ってしまった。伝記に書かれたから誇張?価値を活かし切れなかった中国。世界標準を見抜いた日本。当時の日本も国際法を無批判に受容していた訳ではない。勝海舟。ビスマルクからの忠告。当時の日本人の反応の速さ。江戸に限らず遠く離れた地域でも反応できている。次世代の世界標準が何であるかを見抜くことが出来ていた。今は?欧米の様々な新しい世界を、欧米の言語から直接取り込むことに変更した。人材育成の結果、翻訳の問題も解決。欧米の言語ならではの論理を取り込む。明治政府は直接に相手国の言語を、複数国について同時並行で。
朝鮮の万国公法への反応。フランスやアメリカからの出兵。しかし致命的には悪化せず。攘夷が半ば成功した?小中華。中国への隷属。明治維新後の日本は朝鮮に新政府の成立を伝え、国際法による関係を、近代的な外交関係を。清朝が日本と対等な条約。朝鮮は日本より格下?朝鮮の開国に成功。治外法権を。対朝鮮外交。実用的な技術である法律学を軽視する。中国と同様。
国際法の利用。日本における。万国公法の受容。西周。現地で国際法の講義を。様々な翻訳者による翻訳。お雇い外国人による情報。様々な形で。実際に使用する動き。榎本武揚。箱館戦争。局外中立を要求。ロシア皇帝への仲裁を依頼。条約改正への一連の動き。74年の台湾出兵。台湾本島の原住民の土地に流れ着いた琉球藩の者が殺害される。大久保は台湾という蕃地が領土なら人民を導くべき。万国公法はそもそも西洋のもの。共通の土俵に乗ることはなかった。イギリス公使の献身的な仲裁努力。清朝においても国際法を外交に活かす動きは皆無ではなかった。日清戦争や日露戦争での国際法の遵守、それを西洋諸国にも知らせる。近代日本では国際法学よりも実定法研究が盛んだった。信頼に足る法体制と司法制度が条約改正には重視。外国語で受信し外国語で発信。
清朝と西洋法学。国際法への興味関心は低かった。洋務運動。有名なスローガン。あくまで中華を元、西洋を末、という味方。技術面での模倣に重きを置く。西洋列強の姿から、西洋に正面から向き合おうとする人も。西洋は立国より2000年。政治も宗教も整っている。元も末も両方西洋には完備されている。西洋各国の信を裏切ったことが争いの原因では。しかしあくまで少数派に。当時の中国人にとって、あまりに当然な中華思想からは抜け出せなかった。日清戦争。数千年に亘り格下扱いだった日本に敗北。冊封体制の崩壊。社会進化論。ハックスリー。ダーウィンの進化論。文明にも優勝劣敗の法則。適者生存の原理。このままでは中国が淘汰される。自信喪失に充分だった。国民国家の形成を視野に改革を。康有為。梁啓超。法の支配と法律学。清朝において法律学が。戊戌の変法により機会を失う。北清事変。皇帝から北京から落ちぶれる。日本経由での近代法の継受。日露戦争の勝利で日本に留学して西洋法を。多くの法律用語が日中共通。同じ漢字文化圏に属する日本に学ぶのは近道だった。西洋近代法をその国の言葉で学ぶことが無かったのは損失。外国語でしか味わえない論理や概念が。中国における近代法典編纂。小川繁次郎などが招かれ顧問として活躍。明治維新から40年足らずで教師となったことをどう捉えるか。

 

法学入門 (放送大学教材)

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