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民主制と市民の役割:統治と行政の関係(行政学講説第2回)#放送大学講義録

ーーーー講義録始めーーーー

 

君主制や独裁制に対置される「民主制」には多様な定義があり得ます。この授業では、「行政によって支配される側である民衆が、自ら行政を統制する立場にある状態」として定義したいと思います。つまり、民衆が統治者として自己統制を行う状態です。ここでは、当事者と支配される側の同一性が実現されている状態と言えるでしょう。

アメリカなどの例外を除き、日本など多くの国々では、歴史的に君主制や官僚支配の名残が続いてきました。そのため、民衆を実質的に支配しているのは、すでに確立された行政機構です。このような背景を考えると、民主制において重要なのは、民衆が行政を実効的に統制できるかどうかという点にあります。

「統治者」としての民衆を「市民(シティズン)」と呼ぶことができます。一般に市民は、1人や少数ではなく、多数が想定されています。民主制において支配される側である民衆の数が多いように、行政を統制する立場の市民もまた多数であるべきとされています。

歴史的に振り返ると、「市民」は必ずしも一般大衆や庶民全体を指すわけではなく、比較的少数の有力者に限られていたイメージが強いです。市民とは、民衆の中でも特に財産や地位を持つ層、すなわち有力者やエリート層と見なされていました。例えば、市民とは、当事者たるにふさわしい財産や公共の責任を担うものと考えられることもあったのです。

このような特権的な市民の概念は、民主制の市民像とは一致しません。民主化とは、元々行政を統制していた少数の「市民」や「公民」の範囲を、財産や特権を持たない一般民衆にまで拡大する過程であると捉えられます。つまり、統治者である市民の範囲が、被支配者である民衆の範囲とほぼ一致したとき、その状態を民主制と呼ぶことができるのです。

厳密には民主制とは言えない状態でも、「民主制」として扱われることは一般的です。たとえば、未成年者や外国人が市民として認められなくても、その国家が民主制と見なされることが多いです。逆に言えば、民主化は常に未完であるとも言えるでしょう。

民主制が統治者、つまり「市民」と「被支配者」の同一性であるとするならば、その間に介在する行政はある種の「異質な存在」とも言えます。行政に対する統制が不十分であれば、行政は当事者である民衆の意向に反して支配を強め、民主制を阻害する恐れが生じます。そのため、行政を完全に廃止することが、民主制の究極の形であると考えることもできるかもしれません。