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ナショナリズムの時代(ヨーロッパ政治史第5回)

要は国民国家と言ってもいい加減なものだということであろう。まあ日本も国民国家になるのかもしれないが、差し当たり北海道や沖縄は性格が違うという感覚もある。

 

中山洋平。ナショナリズムの時代。ネーションステートの基礎となるネーションが如何に形成されたか。ナショナリズムの様々な概念を。ネイションがナショナリズムとどのような関係を。イギリスフランスドイツでナショナリズムが。形成過程が大きく異なる。ドイツ人やマジャール人が支配していたハプスブルク君主国。
様々な概念。ネイション民族国民。極めて頻繁に用いられ意味も異なってくる。例えばネイションステートは国民国家と。ネイションは日本人に近くなる。イギリスではそれぞれイングランドなどがネーションに。ラグビーの六カ国対戦。比較分析の概念として使えない。エスニシティ集団。血縁ないし祖先などを共有するが故に仲間だと。ネイションは政治的共同体。政治的運命を共有する自己完結的な上位の共同体を持たない。自分たちはネイション。ナショナリズムは外に対してだけではなく内側の差異を解消するために排外主義に。ネイションはスコットランドもそう言われる。国民国家。ネイションもエスニシティ集団も主観に基盤を。国民は国籍法に基づく客観的な。相互の関係。ナショナリズムの成り立ちを理解。ネイションとエスニシティ集団との関係。両者は決して同一ではない。コーン。44年のナショナリズムの著書。東と西。ドイツなど東型。エスニックな同化を。自民族中心主義に。個人の多様性に対して非慣用的な。西型。合理主義的に。民主主義と親和性が。基本的図式として引き継がれているが、形成過程を単純化しすぎている。実際には混じり合っている。国家とネイション。ナショナリズムの形成過程で国家との関係。領域国家の形成が先立つのが西型。絶対王政の統治領域に取り込まれた地域が結束できる軸がナショナリズム。言語や文化といったエスニックな性格は重要ではない。国家の構造がネイションを規定する。イギリスの国家の特異な構造。イングランドでは中世末期以来中央集権が進む。王権に反対する勢力は議会に。手続と慣習に縛られる。議会の権利や地位を守る。アングロサクソンの歴史的権利。議会に代表されるネイション。スコッドランドなどが代表されるようになるとブリテン人へと拡張。労働者へも拡大。国家の統治構造がナショナリズムを規定。「想像の共同体」。19世紀のナショナリズムを。出身地に関係なく国家の領域内をあまねく巡礼する。別の地域と接触して我々の意識が役人に。
イギリスフランスドイツのネイションの形成過程。フランス。国家がネイション形成に果たす役割が大きい。国家の統治領域を元にネイションが。フランスのように行政的集権化を進めた。宗教などで標準化や同質化を進める。言語。中心地域の言語を標準語にして強要する。言語的均一性を。傑出している。結果として言語や文化の同質性が。エスニシティ集団としての意識が後から。フランスのナショナリズムは東型との混淆。政治的共同体。同じ統治に。官僚性により育まれれる。王国領域の法的統一。言語的にはエリートの標準化が進んでいなかった。政治的共同体への帰属意識を。集権化を加速させる。学校制度や官僚制。エリートに。エスニシティ集団の同一化も。行政機構や学校軍隊を通してフランス語の使用が。同化政策。西部ブルターニュ地方では罰札を。相互監視の制度が。沖縄にも効果が。フランスでは19世紀を通じて同質性が進む。フランス語やフランス文化を共有。排外主義的運動や国籍法の改正要求。1880年代の不況まで隣国から多くの労働者を。結局は主流にならなかった。89年の改正国籍法。フランス領内で産まれた移民2世は国政を付与。兵役を義務付けるため。国籍法改正で軍隊という制度に流し込まれる。同化主義的性格を。19世紀末では反ユダヤ主義。ドレフェス事件が。相対的に影響が少なく。イギリス。国家の標準化が徹底しない。アイデンティティの共有。スコットランドやウェールズ。単一国家の統治だが連邦制国家のような重層的なネイション意識が。1603年に同君連合。併合の時期ではなく統治体系から重層的に。19世紀になっても画一的な統治をせず幅広く容認。19世紀前半の救貧法。国民健康サービス。地域別に法律や制度が。スコットランドでは長老派が圧倒的に優勢。スコットランドでは長老派であれば公職に就くことが出来る。フランスでは県に置き換え裏書きする。イギリスでは強要はしなかった。アイデンティティは地域的アイデンティティを補完するものでしかなかった。統治構造の特殊性から。現在のイギリスはイングランド王国が併合。併合された地域が権威を受け入れれば十分。ロンドンの議会で制定されれば良い。領域官僚制を持たず。併合された地域でも官僚機構を浸透させなかった。中央政府が宗教などの標準化をなす機能が低かった。18世紀以降の要因。コリー。「イギリス国民の誕生」。ビクトリア女王の即位までの。3地域間には大きな相違が。フランスとの戦争で敵対心。反カトリック。エスニックな同質性を。一元的な統治を?ネイション意識が。整復されたカトリックの土地のアイルランドは対象外。ブリテン島の住民。ナポレオン戦争後は反フランス反カトリックの負の性格は失われる。豊かなイギリス。商業を海軍が防衛。大英帝国の威信が支えていた。スコットランドは反乱鎮圧後、海外への赴任をするように。19世紀前半までのナショナリズムは効率的政府による管理を。脆い統合。19世紀も80年代に入ると覇権が揺らぐ。ナショナリズムの覚醒。ドイツ。言語や文化の共通性を基礎にしたナショナリズム運動が。ドイツ系の国の国境をまたぐ。エスニシティ集団としてのドイツネイションを。ロマン主義的。プロイセンなどの主要な国家が現状の国民を統合してネイションを上から。ドイツナショナリズムではなくプロイセンなどの。プロイセンには多数のポーランド人が。自らをプロイセン臣民であるとするポーランド人貴族が。ビスマルクの登場まで両者は緊張に。71年の統一でも解消はしなかった。ドイツ帝国という連邦制の統一国家。ドイツナショナリズムと衝突。東のポーランド人。エスニシティ集団としてのドイツ人が多数でない地域が多数。領域外に多数のドイツ人が取り残される。帝国の現状は二重に不完全。ドイツ人は国民の総和として定義された。便宜的な国家間の協定で。統一後はヴィルヘルム2世。エスケープを作る負の。90年代以降になると急進的なナショナリズム政党が。1913年にはエスニシティ集団としてのドイツ人。在外的なドイツ人に国籍を。東部ではポーランド人を排除しようとする。
既存の国家の中に少数派のエスニシティ集団が。19世紀のハプスブルク君主国。ヨーロッパの中でもバルカン半島はエスニシティ集団が多数混在。自治ないし独立や領域拡大を。近世以降、ハプスブルク君主国は元々は神聖ローマ皇帝。ハンガリーなどの寄せ集め。領域内の各地域が同一性を持たないので脆い岩に例えられる。ヨーロッパの他の国家は諸地域の統合を。イギリスもロンドンの議会が。ハプスブルク君主国はその程度の統合さえ出来なかった。18世紀なかばに啓蒙専制君主に。ドイツ人のブルジョワ出身者に。19世紀になると歯車が逆転。少数派のナショナリズム。分散化や断片化。エスニシティ集団の意識を高めナショナリズムを。ネイション意識さえ浸透されなかった。ハプスブルク君主国は国民国家の競争で失敗例に。少数派のナショナリズムを平和的に吸収する。二月革命以降も。民主化の動き。西側のオーストリア側に限る。普墺戦争に破れ妥協の国制の改革。一種の連邦制。東西の2つの異なる政体に。領域内で少数派ナショナリズムに。オーストリア側は議会の権限強化を。政府の実権は宮廷に。ドイツ人の自由主義政権だったがチェコを始めとする少数派ナショナリズムを抑えようとする。チェコ人とドイツ人の対立。1879年に自由主義勢力を切り捨てる。鉄の輪の連合に。帝国の版図を維持すべく譲歩を。ハンガリー王国。ジェントリー。19世紀初め以降に官僚に。啓蒙専制君主による締め付けからの反発。スラブ系に対しマジャール化政策を。同化政策で少数派を吸収してハンガリーナショナリズムに。1870年代以降は言語団体などによる統制を。都市部ではマジャール人意識を持つ。副作用として自由主義的だったのが野党の活動を制限する大きく権威主義化する。セルビア王国との対立。マジャール化を押し付ける。
ネイションとナショナリズム。輸出され世界を席巻したが実態は多様。

 

ヨーロッパ政治史 (放送大学教材)

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