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スティグマと健康(健康と社会第11回)

HIV陽性者は様々な人が居ることを知る。まあ当たり前のことだけれど。それより知らないことは問題だと知ることが大事。

 

井上洋士。スティグマと健康。感染症を例に。
感染症とは?細菌真菌ウイルス。病的な状態に。原因となる微生物。体内に侵入する感染経路が。防衛機能を破って。発症に至らない場合もあるし、感染力があるが症状がない場合も。感染症の発生の動向。世界的流行があった。天然痘は20年代に世界中で流行。77年にはWHOが天然痘の終了の宣言を。衛生環境の進展などにより大部分の感染症は抑え込まれたようにみえた。しかし近年問題が再燃化。新興感染症。再興感染症。医療機関内感染。HIV感染、結核、性感染症。新興感染症。過去に人類の経験がない微生物の。再興感染症。居住空間などの変化で人類に驚異になるもの。
スティグマと関わる人権というもの。人間らしく生き、他の人間を大切にする。実際にはそうではなかった。ヨーロッパの封建時代。特定の少人数の支配で人権侵害を。フランス革命。第二次世界大戦中はナチスドイツによる殺人、数十万人の死者。ニュルンベルク綱領。研究条件を詳細に規定。国際連合が作られ第三回総会で世界人権宣言が。人権の擁護の運動はつい最近。人を大切にすることが叫ばれ、人権が世界共通なのはほんの70年前から。人権と自由の確保のための共通の基準を。採択された12月10日は世界人権デー。66年には条約化した国際人権規約が採択される。05年の首脳会合では人権が国際連合の主要な活動として。06年からは人権理事会の設立。世界の人権問題に対応。日本で人権の扱いは?日本国憲法の基本的人権。およそ3分の1。基本的人権の重視。特に重要なのは第13条と第14条。対外的にみると国際人権規約などに批准加盟している。実際には人権上の課題が数多く存在している。人間は互いに同胞の精神で。法的側面も重要だが、心を育まないと人権は育まれない。
感染症とスティグマ、人権、健康の関係。法律的には伝染病予防法が長らくあった。強権的。1世紀に亘り政策を決定づける。病原体対策。食品などの感染経路対策にエネルギーが。感染症の蔓延防止が主な政策。一般の人々に知識を広げるよりも、怖さばかりが強調されることに。隔離が中心的対策に。感染者が怖いというイメージを定着させることになり、差別や偏見が助長される。罹患した人々の人権については目が向けられず、配慮もなかった。感染しているかもしれないと感じた人が検査を受けないことも多かった。はっきり自分で把握していなかったり医療機関に行かなかったり。重篤な症状になったり感染につながったり。スティグマ、負の烙印を伴う。慢性疾患などと同様。スティグマという言葉。元々はギリシア語で奴隷の烙印の意味。スティグマを付与する者と付与される者の関係性。身体上の障害、精神上の障害。民族宗教など集団に関わるもの。差別の恐れとして内面化。フェルトスティグマ。内的スティグマ。98年に感染症法。感染者の人権に配慮。
ハンセン病とHIV感染。ハンセン病。日常的に感染することはない。感染したとしても発病は稀。後遺症も残らない。しかし差別偏見が長く残る。らい予防法。90年に亘り施行され続ける。隔離政策の対象に。国際的には30年代までに隔離は限定的にという認識、感染力も弱いとされた。しかし日本ではそのまま残る。日本の一般人の差別偏見が残る。ハンセン病問題。実際には差別を強く受けているわけではないが、自己規制をしている患者も多い。HIV陽性者。誰か他の人に話す時に用心する人は87%。拒絶するものであると思うのが81%。知られないようにしている苦しい状態。日常生活の自主規制。フェルトスティグマの顕在化。心の健康を悪化して、病院を避けることで身体の健康を悪化させたり。フックの論文。スティグマ提言はスティグマを付与する側と付与される側双方に働きかけを。3つのレベルで介入を。付与する側。個人の内面への働きかけ。教育。学校や職場で、差別は謝っていると。気づきの促しを個人間で。どうしてそのように考えるのかを見出すのは、グループワークで皆で考えてみて他者とのコミュニケーションで。スティグマを付与している相手集団について偏った見方をしている場合も。話の場を設けると変わってくる。マスコミや広報の。
スティグマと健康。ゲストスピーカー。矢島嵩さん。日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス。東京都内の50代の会社員。映画や外出、プールで泳いだり。HIV感染者の当事者活動。生活をしながら長生き出来るようになったが、生きづらさが。周囲の人に感染者であることを知られないように。身近な人に伝えられないという。プライベートな人間関係で伝えたのは極数人。親に話したら本人が秘密を抱えている有様。陽性者とわかったのは96年。ちょうどアメリカで画期的な治療法が出来たが知る由もない。孤独の果に死んでいくのだと自分をイメージしていた。今と異なる疾患のイメージ。今でも誤解している人が。ゲイがなる病気?性的興味が男性だったのでセックスをしていてリスキーな行為もしていたので危ないと思っていたが、相談できる人は居なかった。96年の秋に総合病院で検査を受けて陽性とわかった。40度の熱があったが、何とか救急車を呼んで治療に。実家は二世帯住宅に改築したばかり。主治医が決まって、家族に病名を伝えていないと。最新の治療法で説明を受けた。片言の英語と日本語でコミュニケーション。男女のセックスの話やシモネタの話になる。セクシャリティの話を避けてきたが。I am gay.と話す。2つ目を。I am AIDS.精一杯で涙が止まらなくなった。両手を包むように握ってくれた。2人で夜風を受けて彼の部屋に。ハグしてくれた。自分自身をアンタッチャブルuntouchableに思っていた。実は外国人で悩まされて、喘息の薬がないと不安に。AIDSというmonsterと感じたので。けれど私はわたしであることに。光が射す。自分と同じように陽性者と話すことが出来た。支援団体が引き合わせてもらえる。同じ立場の人の状況は?スーパーサラリーマン。残業で死にそうだと言っていた。激務をこなしているのは目から鱗。2歳の子供を連れたママ。とても元気。何を話したかでなく存在自体が。陽性の人はケアされる立場の人というイメージがあったが、圧倒的に力強く見えた。沢山の人に会って何枚も目から鱗が落ちた。HIV陽性であることと生きること。人生ってどんなものだろうと、お手本があるような気がして探していたが、そんなものはない。人それぞれだから。陽性者でなくても同じ。生きづらいことは事実だが、他にも生きづらい人が見えない形で大勢いる。伝えられずにいた親には1年以上後から伝え、最初は心配されたが、今は老いに悩まされている?時間の経過で相対的に小さくなったように思える。時間というものが1つの解決の緒に。

 

健康と社会 (放送大学教材)

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