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奴隷制度とアフリカ(2) -大西洋奴隷貿易-(アフリカ世界の歴史と文化第9回)

現在でも奴隷貿易に近い状態はあるはず。トラウマになるのも頷ける。

 

大西洋奴隷貿易。病んでいる人も。トラウマに陥る人が多かった。南北アメリカの植民地にばら撒かれる。初めたのも維持したのもヨーロッパ。とてつもない富をもたらす制度。アフリカ人には何一つ与えられなかった。西洋社会に必須のものだった。イギリスが奴隷貿易を廃止するのが1807年。200年目に様々なイベントが。奴隷貿易に詳しい学者が「奴隷制を生きた男たち」を。奴隷船の船長。賛美歌のアメイジング・グレイスの作詞家。ジャマイカで奴隷を使ってプランテーションを。奴隷として捉えられたが解放されて奴隷制度の廃止運動を。タイムリーな書籍。冒頭部分を朗読。メッセージがクリアー。批判的な立場を。奴隷制度を糾弾。大西洋奴隷貿易まで。奴隷制度のアフリカ。主に大西洋奴隷貿易を。明確な違いは展開した場所。特徴の違い。奴隷制の歴史。アメリカ南部で展開した奴隷制を準拠にして。奴隷制度という概念が様々な地域や時代により変容を。インド洋側の奴隷貿易。ギリシア・ローマや中世ヨーロッパでも。近代的国民国家を作り上げたヨーロッパが、アフリカから奴隷を徴収して奴隷貿易を。大西洋側のアメリカに関心を。大航海時代。それ以降にヨーロッパの国々が様々な動機で。イスラム商人を介さずに。金や銀を手に入れるために。キリスト教の版図を広げる。不況を目指す。地理的学問的な関心。当初はポルトガル、オランダやイギリスフランス。西アフリカも経済の仕組みの中に巻き込まれる。世界経済に。ヨーロッパは大航海時代に。経済的には商業の重要性が。封建的な経済からの変化の兆し。宗教改革。当初はプロテスタントよりカトリック。アフリカにも布教が試みられる。ルネサンス。地理的関心や科学的関心が成長。科学革命に。ヨーロッパの拡大。18世紀後半から19世紀にかけて市民革命。産業革命が。その前の商業化。成長するためにアフリカを巻き込む。重商主義的。ヨーロッパ内部での強力な国家。海洋帝国。海を超えて帝国を広げる方向へ転換。イギリスの国内に土地を持つだけでなく重商主義的な飛び石のような土地を。何らかの形で生産をして利益を吸収。富の蓄積を国外で。アフリカの西海岸が組み込まれる。大西洋を舞台にアフリカに対して工業製品が輸出。それと引き換えにアメリカに労働力としての奴隷。それを利用して南北アメリカなどでヨーロッパ向けの商品を。三角貿易の経済システム。アフリカの後背地も影響を。この問題は現在でも産業革命を考える上で重要。
奴隷貿易の実態。どれくらいの規模で。アフリカの西海岸から南北アメリカに奴隷を運ぶ。インド洋側の。サハラ砂漠を。中心地が南下しつつ。奴隷が東海岸に及ぶ。大西洋側は1860年まで1100万人以上。16世紀では32万人という調子で増える。送り出し地はペニー湾、アンゴラ海岸から。受け入れ先。カリブ海の島々、ブラジル。アフリカ奴隷。ブラジルやキューバ。17盛期18世紀の主力はイギリスフランス。1865年位に集結。スペインのキューバとポルトガルのブラジル。輸送のルート。海岸部にヨーロッパの国々が港を拠点に。商人が様々な王国が戦争に負けた側の人間を。その奴隷たちがアフリカの商人が仲介してヨーロッパの商人に渡る。ルートはアフリカ商人の交易が行われていた。最初は一部。味をしめた奴隷商人はコンゴの内部などの奥地から運んでくる。海岸部へ。奴隷海岸。商人が駐在していて奴隷を。奴隷の取引市場が形成される。東の方でも。奴隷市場として形成。買い取ってヨーロッパの商人が船に乗せて奴隷市場で販売。アフリカ人自身が奴隷貿易に加担。奴隷をどのような形で運んでいったか。輸送の実態はどうか。中間航海の状況への研究の関心が進む。奴隷本人が残した記録を。公開中に食べたのは茹でたとうもろこしだけ。水が無いので辛かったが殆ど飲ませて貰えず。多くの奴隷が死んだ。売られることが続いた。牛や馬を買うように。生きた人間の売買だけで莫大な利益が。体験した記憶を元にまとめられた奴隷貿易の実態を。非常に過酷な条件のもとで運ばれる。長い航海中にぎっしりと積まれる。船上で亡くなると海に捨てられる。ある程度のケアも無かった。殆どほったらかし。売られている場合も買い手がつかない場合は腐った屋台のように打ち捨てられる。生き埋めにされる。最近では中間航海を積極的に見ようと。奴隷同士でコミュニケーションを図る。船員とも。奴隷が詰め込まれている。国の言葉を解する。プラスの面の生活があったのでは、と研究も。少しずつ実態を解明しようとする研究が。挿絵もある。内部でも奴隷として可愛がられた人が海辺へ運ばれる。仲買人に買われて少し放置されていることも。まだまだ解明しなければならないことが多い。運ばれていくがある程度コミュニケーションがされると何とかしないといけないと反乱が。やはり色んなケースが。奴隷の反乱について。ギニア海岸から出港。ニグロの反乱。船の航行を手伝わせていた。突然武器を奪い射殺。乗組員を殺戮。航海のために殺さなかった者も。船を取り戻そうと。射撃が巧みで撃退される。故郷に戻ろうと意図。船を航行出来る者が逃亡され居なくなった。一応は反乱に成功。大体は少人数で行われた。女性の奴隷については船員も寛大なところもあった。情報を仕入れて反乱を防いだ事例も。なかなか成功しない。船を操る技術がなかった。奴隷にも危険性が。成功したのは奴隷を詰め込む作業中が逃亡しやすい。陸地にも近い。船上の反乱はかえって死を招く危険性があり大きな賭けに。岸に漂着した者や船に残るものも。岸が見えたら飛び込んで逃げたり。大半の奴隷は亡くならなければ目的地に。非人道的な扱い。奴隷制度が良いものか?奴隷制度そのものの廃止は後になる。1つは人道的な理由。奴隷貿易に直接利害を有さない階級が経済の主導権を。自由貿易に転換。奴隷貿易の廃止に。西インド諸島の奴隷の移送。奴隷制度全体の最も卑劣な部分。商人を咎めるのではなく、人道的な人間であると信じている。600人もの人々が悲惨さを強いられている。誰が想像するのに耐えられるか。奴隷貿易はインパクトがあった。人道主義からの奴隷制度の廃止。イギリス海軍の奴隷船の拿捕が始まらなければ効果がなかった。2000万人以上が運ばれたはず。内部の村や社会に非常に大きな影響を与える。後々の歴史的なトラウマになった可能性が。

 

アフリカ世界の歴史と文化―ヨーロッパ世界との関わり (放送大学大学院教材)

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ヨーロッパの歴史〈2〉植物からみるヨーロッパの歴史 (放送大学教材)

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