F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

大航海時代とアフリカ(アフリカ世界の歴史と文化第7回)

アフリカ史は高校の世界史では習った覚えはない。まさか今はそんなことはないだろうけど。知識の欠落が著しい。

 

草光俊雄。大航海時代とアフリカ。大航海時代。コロンブスの大西洋横断。ヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に出てインドに。エンリケ航海王子がアフリカの西沿岸を航海して南へ。アフリカというのがアメリカやアジアに行く中継点?ヨーロッパの国々が東南アジアを目指してインドへと新しい航路を。アフリカの位置づけがインドに行くルートの中継地に。アフリカの情報を得て認識がヨーロッパ川で変わってくる。8世紀以降はイスラム世界との関連が。イスラム圏の広がりから見出す必要があった。ギリシア・ローマの古来からアフリカは地中海を介してヨーロッパと繋がっていた。特に北アフリカには植民都市が。主従関係や対等関係にも。地中海は窮屈。豊かな海だけど。ヨーロッパが他の海に出ていく。大西洋。アジアに胡椒がある、中国の絹があることを知っていたが、アラブ人やユダヤ人の商人を介して。それをなんとかしてインド洋に出たい。ヨーロッパの野望。インド洋の支配と大西洋の支配。両方から挟まれているのがアフリカ。地中海などに囲まれて。金や象牙などの自分たちの欲望にとって重要な資源があることがアフリカへの意識に。ギリシアの骨はインド洋にも。金であったり象牙であったり、黒人の奴隷などの人。所有それ自体がステータスシンボル。情報としては持っていた。ヨーロッパの生活文化の中での食糧。その中で漁業資源。大航海時代は15世紀半ばから。その後はヨーロッパが世界へ。世界の覇権を。世界征服を。アフリカに目を向けて。イスラームが入ってくる。アラブの商人達。錯綜した複雑なネットワーク。サハラ交易。アフリカの経済史にとり重要。北アフリカからサハラを越えて交易が。金や象牙。塩。西北アフリカでは岩塩の産地。ラクダの背に乗せてキャラバンを。交易通路が開かれる。岩塩は内陸の交易に。加工されてヨーロッパにも流れた可能性が高い。エジプトや地中海側の都市に運ばれて。アフリカに出かけ中近東を巡りサハラ以南を。旅行記の前の方に出てくる。スワヒリ地方に。モンバサ。バナナなど。イスラム教を奉じている。スルタン。施しの人。イブン・バットゥータ。東アフリカ沿岸。モンバサからキヌアに。既にイスラム教が浸透している。住民はバナナと魚類を食べる。バナナはインド洋から。古い時代から東南アジアから人が。マダガスカルに多くの移民が。他の地域にも。20年後のマリ王国の記録。イブン・バットゥータ。ヒジュラ暦。隊商に加わって。モスクも岩塩で作られる。樹木もない。塩を掘る奴隷が。ナツメヤシ。ラクダの肉。塩と交易。岩塩が通貨。治安は良い。街道に沿ってバオバブが。蜜蜂が。機織りが道具を据え付けて働いている。ナイルに出る。イスラム教に帰依。白人が未踏の黒人の王国も。行くと殺される。北川勝彦。岩塩や金や奴隷の集散地。サハラ砂漠を越えた交易。イスラムの交易人たちが入っていった。横断交易についての拠点。クロスロード。ナイル川でなくニジェール川。2つの河川は繋がっていると考えられていた。イスラム教の研究などの学術都市。近辺は古くから王国が。マリ王がガーナ王国を滅ぼすほど。イスラムの王国が。大きなモスクが建設。14世紀になるとマリ王国がメッカに巡礼。大量の金を撒きながら。恵まれた条件でイスラムに関する学問が栄え繁栄していた。岩塩と金の交易で大きなキャラバンを大商隊で。キャラバン隊に加わって旅行。沿岸を下ったり。東アフリカ沿岸の旅行には周辺にもイスラムの進出。内陸には大きな王国が。南西の方に現在のジンバブエの地域に王国が栄えていた。そこで取れる金が交易に。インド洋を中心にした交易網。人や物品の流れ。この段階でアジアやアフリカを中心とした交易網。内陸部でも。発展した文化圏と経済上の交易網が出来上がっている。遅れてきたヨーロッパが乗っかってきた。
サハラ交易。大航海時代はアフリカの歴史に大きな転換を。ポルトガルが色々な形で入ってくる。様々なアフリカの情報を。アフリカに野心を。北アフリカを何とかしようと、エンリケ航海王子の頃に。それだと上手くいかないので西沿岸部に?地中海の関係では、地中海交易は東半分はイタリアの諸都市が。西半分はカタルーニャが。ポルトガルは割り込めないので。南下して西アフリカからイスラムの影響圏でないところから。エンリケ航海王子以来大航海時代を経験する中で交易が。エンリケは色んな学者が集まって航海術を磨く。それも進出にプラスに。インド洋の征服。インド洋を少なくとも自分の思いのままに航海を。ヴァスコ・ダ・ガマ。それ以前にインド洋の西側、アフリカの東海岸の。ポルトガルが基地を。西海岸でも城塞土地を建設。赤道以南にルートを開くのは至難の業だったが、喜望峰を通るのは難しかったが徐々に南下。ヴァスコ・ダ・ガマ以降は東側にも。ポルトガルの海の帝国。インディア領を建設。数百隻の軍船。帝国の建設。西の方ではイスラムの影響は?北西部については浸透。コンゴ王国。イスラムではなく進出を。イスラムの影響力の及ばないterritoryを。
マリンバを使った音楽。東アフリカの。ターラブ。アラビア語のタリバンが元。魅力的である、物事に感動する意味。14世紀15世紀に雰囲気として西海洋を吹く風に。ポルトガルのアフリカへの関心。経済的なもの。宗教の話も。アフリカ進出へのMotivation。あくまで伝説だが。キリスト教国にとってイスラム勢力が。7世紀以降ムハンマドが作り上げたイスラム。早い勢いで広まる。アフリカでもイスラム化が。キリスト教国にとってはイスラムの浸透している場所でキリスト教を。プレスター・ジョン伝説。何処なのか。広めていく言い訳論。何処なのかは特定し難いが北東アフリカ、エチオピアの辺りか。陸路海路で幻のキリスト教国を。ナイル川を下るか、喜望峰。ポルトガルにとっては大きな助けに。将来的にはアジア進出の足掛かりに。何処かに気候的な条件を乗り越えながら新天地を開く。宗教的な動機も。少なくとも15世紀以降、自分たちの必要とする経済的な関係をイスラムを経ることなく。中世から近代に。金銭がかかるのをどのように防ぐか。支払手段は?銀だったり金だったり。色々東沿岸の諸都市をポルトガルが押さえる。用意周到。ポルトガルにとってはアジア進出や南アメリカへの進出に。アフリカへの思い入れから大航海時代に。
ヨーロッパの大航海時代は大きな変化。大きな王国が形成されていた時代に。沿岸部を含めてアフリカの変動期に。アフリカもヨーロッパも結びついて大きく変わっていく。

 

アフリカ世界の歴史と文化―ヨーロッパ世界との関わり (放送大学大学院教材)

アフリカ世界の歴史と文化―ヨーロッパ世界との関わり (放送大学大学院教材)