日露戦争の最中の1905年の今日5月27日に、対馬海峡で日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊(正式には第2・第3太平洋艦隊と呼ぶ)が激突した。後に日本海海戦と呼ばれる。当時の海戦は互いに砲弾を打ち合うのが主流である。日本の連合艦隊の方が砲弾の命中率が高かったようで、海戦に類を見ない連合艦隊の圧勝に終わった。バルチック艦隊はロシアの極東のウラジオストックに逃げ込み補給をしてから日本の大陸への通商の破壊をする目算だったが、事実上不可能になった。その後にロシアはアメリカによる講和の斡旋に応じる。その講和で日露戦争は終了した。
日露戦争の勝利(陸軍も満州の奉天からロシア軍を追い出したのでこう評価しても間違いではないだろう)に繋がったのは日本海海戦が圧倒的な勝利に終わったのが大きな要因である。この勝利で自信を持った日本海軍は、互いに砲弾を打ち合う艦隊決戦に固執するようになる。それは1930年代までは間違いではなかったと言える。ところが急激に爆撃機や戦闘機など飛行機が台頭する。1941年12月8日の真珠湾攻撃では空母6隻から出撃した爆撃機が真珠湾に停泊されていたアメリカ海軍の艦艇を撃破した。太平洋戦争の始まりである。更に真珠湾攻撃から2日後の12月10日のマレー沖海戦では日本海軍の爆撃機がイギリスの2隻の戦艦(プリンス・オブ・ウェールズとレパルス)を撃沈した。これで事実上、海戦では戦艦より航空機の方が優位であるのが証明された。ところが日本海軍は艦隊決戦の夢を追いかけ続け飛行機優先の考えはなかなか根付かなかったらしい。成功体験は人を既成概念に固執させる1つの例である。44年10月のレイテ沖海戦で、飛行機を持たない粟田艦隊はレイテ島突入の直前に反転してアメリカの空母部隊と戦おうとした。それまで飛行機で散々に被害を受けたにもかかわらず、何故に空母と戦おうとしたのだろうか。未だに理解しかねるところである。