F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

女子校サブカルチャーと戦前の女学校文化(教育文化の社会学第7回)#放送大学講義録

ーーーー講義録始めーーーー

 

もちろん、これは辛酸なめ子さんの鋭い感性で捉えられた女子校サブカルチャー論ですので、必ずしも一般化できるわけではないかもしれません。しかし、実際に戦前の女学校文化にも、すでに独自のサブカルチャーが存在していたことは事実です。

少し時代を遡ってみますと、1920年代から1930年代にかけて、女学校への進学率が徐々に上昇し、女学校内で独特のサブカルチャーが形成されていきました。この時代の文化を少し紹介してみたいと思います。

女学生たちは独特の「女学生言葉」を使って手紙のやり取りをしたり、お揃いのものを身につけたりしていました。このような活動を通じて、女学生同士の絆が深まり、ロマンティックで感性豊かな女学生文化が共有されていったのです。興味深い例としては、当時の言葉遊びがあります。

例えば、先生のニックネームとしては、授業の開始ベルが鳴るとすぐに教室に入ってくる先生を「消防自動車」、厳格な先生を「コンクリート」と呼ぶことがありました。また、友人を指す言葉としては、顔が整っている友人を「ニコポリスト」、美しいが意地悪な友人を「白鳥」と称していました。他にも、おしゃれをすることを「デコる」、塞ぎ込むことを「戦地」と言うなど、独自の言葉が存在していました。

これらの言葉は、女学生同士でしか通用しない特別なものとして共有され、外部との距離を保つと同時に内部集団の結束を確認する役割を果たしていました。このように、女子のサブカルチャーは学校文化と表立って対立するものではありませんが、必ずしも完全に一致しているわけでもありません。

戦前の女学校文化においては、良妻賢母主義が理念として掲げられていましたが、女学生文化はその理念に特に反発するわけではないものの、完全に一致するものでもありませんでした。このように、独自の位置付けを持ったサブカルチャーとしての女学校文化を考えることができます。