ロシアは日本の隣国だけど、政治体制を知らない日本人が殆どではないか?私もそうだけど。
経済政策だけ変えれば良い?別の社会主義に変えれば良い?欧米諸国みたいに自由民主主義的体制にする?連邦体制そのものが良くないので、もっと自由を与えるべき?議論百出する。93年の憲法体制は、ロシア国民が選んだもの。極一部の人の選択と批判する人はいるけれど。93年憲法は、今日に至るまで基本的な骨組みはそのまま。意図を明らかにして、どのような憲法体制が出来たか?方向を明らかにする。改革前のソ連の憲法体制は?85年時点でソ連の憲法体制は大きく異なっていた。三権分立が否定されていた。ソビエト、直訳すると評議会。立法権行政権司法権を集中した機関。日本では相互に抑制している。ロシア革命の中で生まれたソビエトは人民の機関。村や市、末端で組織。最高会議。最高権力機関。代表は兼業が建前だったので、一年に数日しか開かれなかった。もっと少数で立法行政を処理しようとした。最高会議幹部会。ソ連という国家は、非常にシンプル。権限を代行するものとして閣僚会議など。ソ連共産党を特別に扱い、指導的中核とした。共産党を統治組織とする。77年憲法の第6条。ソ連共産党は実質的にはソ連という国家を統治。共産党の代表が国家の代表者となるように。指名された者が当選。選挙は実質的にソ連共産党が支配。連邦制度については後でまとめて議論。85年の改革者が何を変えようとしたか?ゴルバチョフ。ソ連経済の成長テンポが遅いので、抜本的な改革が。しかし共産党の反応は良くなかった。形骸化していた選挙を実質的な選挙にして、人民代議員大会を作り代表者を選挙で選ぶ。更に500人規模の最高会議を作る。人民代議員大会は全ての権力を統合。最高会議が権力の代行。会期を一年に数ヶ月とする。政治的影響力が高まる。89年に選挙を実施、共産党の候補が非共産党の候補に敗れることが起こる。共産党の権威を無くす。ゴルバチョフが議長となる。国家の最高機関のトップに。しかし共産党からは批判が。90年には大統領制を導入。自ら大統領に。第6条の憲法を変更。共産党の権力独占が終わる。立法の中心が出来たように見えたが、行政権も付与されていた。連邦共和国も同様の制度変更を。ロシア連邦はエリツィンが91年に大統領に。第二の改革者。エリツィン大統領が大きな改革が。権限は非常に曖昧で、対立が続く。その間にロシア連邦の憲法体制が変わる。ソ連憲法体制は非常に変えることを意図していたが、対立を背景に生み出されたので、二度と起こさないようにしたいと考えた。93年10月に軍を背景としてエリツィンが処理、十月事件。12月に新憲法案を国民投票にかける。賛成した者は多くは無かった。そもそも国民投票に参加した者は少なかった。
3条、ロシアは多民族国家。ソ連憲法体制では民族間の問題は目立たなかったが。法治国家の条項。あくまで改革者の意図としてだが。司法が行政や立法を監視するというのは楽観できない。経済関係の規定。私的所有権と国家地方団体、両方を擁護。市場経済に必要として加えられた。労働の規定。ソ連憲法体制では労働の権利が。労働することは義務だとも。93年憲法では、労働は自由であると規定。決して当たり前ではない。市民の権利と自由を定めた規定。最高の価値であって、擁護は国民の義務。ソ連憲法体制下では制限されていたと改革者は考えた。憲法通りでは現実は無いが。輪をかけて難しい。欧米諸国の憲法でも認められていないが、国際法の規範をロシア憲法体系の一部とみなす。社会保障について。ソ連時代は政権側が国民に与えていた便宜が。市民の就労を世話して医療や年金を保障。93年憲法では市場経済メカニズム。ひとまず社会国家として、社会保障は必ずしも保障しないとした。国家が全てを保障する体制では無い。目的としては、対立の事態が二度と起こらないようにした。十月事件。国民が最高機関を選んだ歴史がある。立法機関を。二院制。大統領と議会を直接選挙で選ぶ。アメリカの大統領制。大統領と議会が対等、対立しやすい。ロシアには向かない。大統領を中心とするが、議会に権限を。フランスなどの半大統領制を。欧米の政治学辞典にも取り上げられている。大統領に全てを与えず、議会が選ぶ首相にも権限を付与。議会の多数派と大統領が同じ勢力でない場合もある。ロシアでは90年代にはそうだった。21世紀は違うが。大統領優位。大統領の解任は困難。ロシアの半大統領制は超大統領制だと批判される。大統領と最高会議の対立を避けるという意図。権限を強めなければならないという考え。
連邦制の問題。ソ連の憲法体制。union。もともと少数民族の社会主義独立国家が。ソ連の連邦制。連邦共和国はロシアを除くと国境領域にあった。タタール民族については連邦共和国の地位を与えなかった。タタール人はエストニア人より多かったけれど。少数民族が何処に住んでいるのかが問題。人工的な体制。連邦共和国はソ連共産党の支部が支配。国境周辺を連邦共和国として、共産党が支配。政治経済体制は画一化。政治的経済的には全国一律。多様性をかなり犠牲にする。共産党支配が終わると脆弱。ゴルバチョフの改革では幾つかの共和国で独立の動きが、止められなかった。共産党の支部が体制を支えていた。国民の中に独立に反対する勢力は非常に弱かった。バルト三国。ゴルバチョフは動揺。最終的には新たな条約を結ぼうとしたが、共産党の最上層部の反発を。クーデター。エリツィンが止めたが。エリツィンも民族問題に直面。新しい連邦制を模索する。憲法作成時には内部分裂の恐れが。ソ連と異なる連邦制を。ソ連内に住んでいる全ての少数民族、州や特別市。構成する単位が多くなる。ソ連邦は15。通常の行政単位も。全体は89。現在でも80以上。ロシアの国家を統一するために。同権だと規定すると共に、政治的取引を可能に。州や行政管区と異なる権限を付与することを可能に。チェチェンなどの独立運動。