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メディアと与謝野晶子(放送大学特別講義)

与謝野晶子については歌人としての活動しか知らなかった。母性保護論争があったというのも。無知も極まれリだなと恥ずかしい。

 

広瀬洋子。松村由利子。科学ジャーナリスト賞を。歌人としても3冊。与謝野晶子。官能的な歌という印象が殆どでは。歌人としての与謝野晶子。明治11年に大阪堺市で出生。明治34年に「みだれ髪」は大きな反響を。雅な印象ではなく、女性の肉体を表現したロマンティシズムな。口説きなさい、という内容の歌を。自己愛の歌も。23歳の女性が大胆な恋の歌を。情熱的な歌人?ジャーナリストとしての。明治37年に日露戦争が。弟が出兵。詩の大胆な意味。国中が戦争に勝とうと思っていた中で書くのは凄いこと。詩歌は真の心情を。後に日中戦争で戦意高揚を。時代を読むジャーナリスト的な。明治44年。夫である与謝野寛がヨーロッパに。半年後に鉄幹の後を追って7人の子を置いてパリに行く。鉄幹が誘った?かなり思い切った。晶子の好奇心。ジャーナリストとしての。34歳の晶子は5ヶ月間のヨーロッパを楽しむ。滞在期間はそれほど長くなかったかもだけど。精力的にあちこちを。イギリスなどへも。ジャーナリストとしての核を。識者としてありとあらゆる寄稿をする。非常に広範囲な。専門外のことを書かないという選択をしなかった。経済的な問題を指摘する研究者も。実際の生活に関わる領域に関心を。嬉々として取り組んだのでは。独りよがりでは原稿を依頼されない。的確な意見が書ける人と思われたのでは。今にも通じる問題に体当たりで。文章をまとめた評論集も15冊。歌集も29冊あるから多作の。およそ25年にわたって社会評論を。16年から20年間の連載も。現在の神奈川新聞。11人の母親として妻として。母性保護論争。双方の言い分。晶子は保護する必要はない、と言っている訳ではない。育児休業制度を思わせる意見を。産後の休養は当然と思っていた。育児をお金と換算するのに危惧を。平塚らいてう。子育ては国家の仕事、経済的支援を。国民一人ひとりが。良妻賢母の為に女子教育を。自分でなんとかするという気持が晶子にはあった。論点が噛み合っていなかったのが本当のところ。主張したいことがあって平行線に。育児は貨幣に換算できない労働。無償の労働も大事な労働。イリイチ。シャドーワークと捉える。家庭における無償の労働が如何に社会を支えるのか、金銭的換算を。晶子はそもそも人間として大切な郎等とみなしていた。国家から金を貰うのはとんでもないと。同人誌政策など重要なアンペイドワークは沢山ある。文学とはそういうもの。母性保護論争。母性保護ではなく男女ともペイドワークを。そしてアンペイドワークも。男性は父親の役割をもっと果たすべきと。平塚らいてうとは異なる問題認識。男女共同参画社会やワークライフバランスがまだない時代に指摘を。セクシャルハラスメントという概念がないと女性は泣き寝入りするしか無かった。平塚らいてうには理解できなかった?時代を超えた視座についていけなかった?18年の11月に一応収束。ほぼ2年の長い論争に疲れた?勝敗については色々な意見が。論理的でない?晶子独自のワークライフバランス論は魅力的。
晶子がジャーナリストとして活躍した時代は?ちょうど新メディア世紀。日露戦争の時にこぞって新聞を。部数を伸ばす。新聞と雑誌が主なメディア。圧倒的な影響力を。ヨーロッパから帰国した時期。女性誌のブーム。当時は教育啓蒙紙など細分化したものが固定読者を。新聞も夫人欄や家庭欄を。登場したのも当然。明治に女子教育が盛んに。高等女学校や女子実業学校が。99年から全国に増える。小学校の就学率も男子と同じに。専門的職業で自立する女性が増えた。女性の知的好奇心が高まる。新聞や雑誌を。働く職場が多様に。新しい職業を。相乗効果も生まれる。時代の求めていたオールマイティーなジャーナリスト。彼女自身はどうやってジャーナリストになり得たのか。晶子は自分の受けた教育にコンプレックスを。堺女学校に3年で卒業しただけ。裁縫などがカリキュラムの7割を。兄は帝国大学に進学し教授に。貧困ではなかった。妹の教育について説得をする。悔しさを度々書いている。独学で自分の教養を高める。大鏡などの文学作品に親しみ、帝国文学という雑誌で翻訳を読む。あなたの書斎を豊富に。専門書を買うことに。万葉集などを読むと同時に、他分野の本も。最先端の考えを。評論活動をしていた頃は?東京日日東京朝日など9種類の新聞。雑誌は毎月35種類くらいに。非常に高いメディア・リテラシーを。情報を処理発信。評価識別する。発信者でも有り受信者。取材を受けることが多く不満を持っていた。そういう環境も良い影響に。あらゆるメディアから。一つ一つ角度が違っていることを理解していた。1つの問題について態度を比較することに興味を持つ。外国電報の訳し方も読み比べる。大きなニュースは同じように取り上げられるのではない。価値判断は新聞により異なる。取り上げ方も違う。なるべく事実に近いことを。どんな言葉がニュアンス的に使われるか。歌人としての言語感覚が活かされる。リテラシーが得られると知っていた訳ではなかっただろうけれど。記事に寄稿していて多くの新聞雑誌が送られ読んでいたことから。読者はどの新聞を読めば真実をつかめるのか。20年には新聞には反対の記事もある。きちんと取捨選択しなければ。少し習慣を身につければバイアスが分かるはず。不安や不満を感じることから自信を持つ姿勢を。見分け方は難しくはない。日々の積み重ねにより能力が身につく。今ならインターネットで複合的に捉えることも出来るが。現代よりもきちんとしたリテラシーを身に着けている。インターネットを見れば分かる?60年生まれにも新聞を見ない人が。1つのニュースを1回見ただけで理解していると考えることは危険。新聞の一覧性にメリット。脳科学的な意味からも再評価を。インターネットでは同じような見出しがランダムに並んでいる。相当ごちゃまぜなところから興味のあるところだけを見ている状態。ともすれば楽な方へ流される。一回のクリックでも面倒臭がる。海外メディアをチェックするのも重要では。100年前の晶子の方がメディア・リテラシーを。晶子が教えてくれること。自分で自分を教育する気概。生涯学習の勧め。古典を読んでそれを梃子に歌集を。ヨーロッパを旅行してジャーナリストに。教育の無さが幅広い読書に。3年位休養して読書できるなら、帝国大学を聴講して図書館で読書を。勉強して本を書きたい。飽くなき好奇心と向学心。ジャーナリストとしての基盤を。晶子が今生きていたらどうか。子育てをして歌人としてのキャリアを。自分の見識などを全部使って活躍してきた。