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近代朝鮮の文化と政治(東アジア近世近代史研究第14回)

本当に中立的に書かれたものかが疑わしい書籍が結構あるので、疑いながら歴史を捉えていく必要があるのだろう。

 

三ツ井崇。朝鮮半島の近代史。近代史。文化と政治というキーワードで。文化の問題を同時代の政治や社会と結びつけるのは最近の話。文化史が無かったわけではないが。文化と政治は相容れないものと思われているが、98年に日韓パートナーシップに関する共同宣言。文化交流の必要性。日本の大衆文化の段階的解禁に。政治や外交の側面と結びつく。文化と政治の結びつき。近代の性格。
文化ナショナリズムの高揚という側面が多い。誤りとは言えないが実際には時期により文化領域により政治との関係は様々。近代化とナショナリズム。都市の大衆文化。
朝鮮文化と近代化。ハングルの公的使用。1446年に公布。公式には漢文。教養も漢文が主体。しかし庶民は難しく識字率も高くなかった。書き言葉の階層化が。克服が要請された。朝鮮語とハングルの採用。94年からの甲午改革。法律や勅令はハングルで書くことを正式のものとする。主導勢力の1人は漢文による独立の喪失と。独立国家への意志。科挙の廃止。近代教育。ハングルを利用する教科書。国文としてのハングルの使用領域が拡大。近代思想を媒介。05年の日韓協約。日本の保護国化。ハングルの研究が進む。07年に国文研究所を。日本からの独立を念頭に置いたナショナリズム。独立した国家民族の形成を。民族が檀君の。言文一致の精神。檀君ナショナリズム。檀君を始祖とする歴史観。日本の国粋主義を参照しつつそれに対抗する。朝鮮民族の始祖とする歴史書。愛国啓蒙運動に対する弾圧は強まる。09年の出版法などの規制。ハングルは特定の階層に限定されない手段。学びやすい。人民の啓明を。身分制打破や科挙の廃止。新聞もハングルを採用。近代思想の啓蒙。しかし全面的ではなく漢字も用いられていた。漢字ハングル混じりの文体。漢字語のハングル表記が固まっていなかった。当時の思想を伝えるのに利便性が高かった。日本では明治に漢語を用いて翻訳。中国や朝鮮にも輸入。漢語による知の連鎖。留学生を通して促進。19世紀末以来、近代化政策の一環として日本に留学生を。私費留学生も増加。高等教育レベルの知識を獲得し、朝鮮人に対する啓蒙を。日本語の影響をより強く受ける。意味を理解するのに混乱を。漢字に依存していた側面も。言語改革の努力は続く。植民地にも引き継がれたが解決はされなかった。
日本による植民地統治。国語の普及を。総督府は教育拡充にあたり。学校でも原則は日本語。罰則で徹底。公文書も日本語。放送などあらゆる媒介に日本語。日本文化や日本製商品も広まる。総督府の朝鮮文化に対する態度は?時期によって変化。文化運動。総督府の態度を意識。10年代は民族文化の展開は難しかった。私立学校で朝鮮語教育を。海外で言語研究も。試みは個別的。19年の三一運動からは変化。様々な民族運動や社会団体が出来る。文化運動も。歴史民俗言語などの研究や言論など。メディアの発達が支える。朝鮮語新聞。雑誌や出版。総督府は普通警察制度を施行。取り調べの強化。事前検閲の制度が確立。社会主義にも神経を尖らせる。検閲によって廃刊などの処分を。言論の自由が保障されていた訳ではなかった。28年10月から31年5月までの行政処分。単行本のリスト。書籍の多くが性を扱う。政治思想を扱うものも多かった。植民地支配を脅かすことを恐れる。常に緊張を余儀なくされる。皇民化政策期。総督府は初等教育において朝鮮語を選択科目へと追いやる。検閲の基準も厳しく。文化活動を掌握しようとする。民族意識の高揚が許されなくなる。転向する者も多く。24年に京城帝国大学が成立。アナーキズム。38年の「朝鮮人の進むべき道」。完全な皇国臣民に。朝鮮語を廃止せよ。38年時点においては否定するほどの過激なもの。三一運動以降。総督府はナショナリズムとどのように向き合ったか。文化管理の性質。15年の「韓国通史」。朝鮮半島史編纂事業を。檀君ナショナリズムを否定し韓国併合を正当化。25年に朝鮮史編集会となる。帝国大学の教授などの歴史家の参加。議事録。歴史叙述における檀君の存在。神話的要素は取り込まれなかった。編年体というアカデミズムの論理をしても、ナショナリズムを刺激するので慎重にならざるを得なかった。ハングルの標準化問題。書き言葉の標準を、総督府は少なくとも日中戦争以前までは朝鮮語教育はなくせなかった。表記法の整備を。言語改革運動の盛り上がり。改定作業を余儀なくされる。28年には民族主義の言語運動団体のメンバーを委員会に迎える。朝鮮語研究会系の議論が通る。朝鮮人のハングルナショナリズムを。朝鮮語の標準化は総督府にも諸刃の剣。日本語による同化を阻むことにも。皇民化政策期になると弾圧に。ナショナリズムを不穏なものとして。朝鮮史学会事件。
大衆文化の領域。20年代後半以降都市部を中心に大衆文化が。平壌。日本人と朝鮮人の生活圏が区分。30年前後から百貨店や映画館。朝鮮人も訪れる。大衆文化のcontentが拡大。都市のmodernな文化。宗主国日本経由で。物や情報を広範に扱う。扱いも慎重。検閲制度など。皇民化政策の時期以降になると媒体として活用。活動写真。映画を例に。ストーリー性のある映画。20年代前半までは多数の外国映画。20年代始めからフィルムだけの映画。活動弁士。26年のアリランが大ヒット。民族主義的映画。映画の拡大に伴い規制を強める。26年には総督府が事前検閲の制度を。30年代前半にかけては左派系の映画活動も。30年代からはトーキー技術が導入。効果音やBGMにより演出する。録音撮影現像の技術は日本との合作。34年に取締規則を。総督府は規制ばかりではなく一定の評価も。社会教化の集団としても。内鮮一体化の映画。軍用列車。志願兵などの映画が。日本の映画製作との合作。本国での上映も。40年。朝鮮映画令。映画製作や上映の自由が消滅。30年代から日本で朝鮮ブームという現象が。文学の領域では日本文壇にデビュー。朝鮮人による日本語創作活動が本格化。朝鮮文学の日本語への翻訳。30年代の日本ではmodern日本などの大衆雑誌が複数。それらにも朝鮮人が。30年代末からは朝鮮ブーム。社会や文化の情報が紹介。39年と40年のモダン日本朝鮮版。内鮮一体を必要とする広報も同時に行われた。流行歌の領域でも。民謡アリランのように歌謡曲も。内地興行もしばしば行われた。戦時期になると戦時歌謡が主に。
時々の政治的なものと密接。思想転向などは戦後は親日行為とみなされ苦難を生じさせる。遺産が現代に残る。

 

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)