F-nameのブログ

はてなダイアリーから移行し、更に独自ドメイン化しました。

中国近世と科挙(東アジア近世近代史研究第2回)

日本の受験戦争は科挙に例えられることが多かったけれど、ハッキリ言って日本の方が楽だったとしか思えない。

 

夫馬進。科挙。中国史に即して中国近世とは?世界史の中で特色づける、中国近世の科挙の社会への影響は?
中国近世は何時から何時までか。定説はない。時代区分。歴史の変化において同じ特色が在る時代は?その時代の特色は?元々は近代ヨーロッパ人の自らの歴史の区分。古代中世近代。近代は今も含む。3時代区分で分ける。明治日本に伝わるとややこしい問題が。モダンmodernは近世と近代に訳される。ヨーロッパ人として、近代は直接生きる時代に繋がるが、明治以降の日本人にとり、日本の歴史は3つの区分で済まない。日本近世史。内田銀蔵。03年に「日本近世史」。日本の近世はおおよそ江戸時代。近代は使っていない。18年の講演でも古代中世に続いて近世。近世がそのまま近代を意味。現に生きる時代、明治時代の為に別の言葉を使う。最近世を。別の時代区分。明治と江戸とは根本的に違う時代であるという自覚が。近代資本主義と市民革命は根本的になかった。3区分ではなく、明治時代を最近世とする。現代そのもの。早くから近世は近代と違うものとして定着。ヨーロッパやアメリカでも近年、ヨーロッパ史を3時代区分では飽き足らず。アーリィモダンという概念が用いられることが。早期近代。ルネサンス宗教改革など。一緒にくくらない方が良いと。4時代区分。おおよそ1940年代から始まったこと。内田銀蔵の40年以上後。近世=modernと内田銀蔵はみなす。日本の方が早かった。Europaではない世界、日本や中国など古い歴史を持ちながら、Europa文化を受け入れた国家。最近世を意識的に用いて理解しなければならない。
中国史における時代区分の問題。王朝により区分する方法を取っ払う。同じ特色を持つ時代に着目、内藤湖南。京都帝国大学に迎えられる。1907年のこと。講義するにあたりEuropa式の3区分。中国近世史。09年に講義。中国では宋代の中頃から近世とする。中国近世説。Europa史では近世を15世紀以降としたのが常識だった。日本近世は16世紀以降。宋代以降を近世とするとかなり早く始まったとする。内藤湖南の場合も近世そのままmodern。しかし最近世という別の枠組は持たない。3時代区分のまま。宋代の枠組がおおよそ現代まで。科挙の廃止は05年。清朝は11年まで。死去したのは34年。国民政府があったとはいえまだ内戦が続いていた。当時も甚だメリハリのつかない時代。固有な中国文化の発展史としてのサイクルはすでに閉じられた。近世説は3区分のまま。後継者は資本主義の影響を受けた時代を別にする。最近世とする。中国最近世こそ中国近代と中国現代そのもの。私は4時台区分に変化。日本の学会では近世の始まりを10世紀におくとするのではなく、明末からとする見方を。Europaに始まった大航海時代が中国に影響するから。銀の流通がヨーロッパ中国日本や中米に連動。16世紀辺りからをEuropaでも日本でも近世と。今回はそれを採用しない。中国史に即すると10世紀にうまれたものが辛亥革命まで続いたと考えるのが妥当。Europaから受けた影響は大航海時代は決定的なものではなかった。宋代に始まる政治は18世紀19世紀まで大きな変化はなかった。西洋の衝撃は2回。16世紀と19世紀。中国史に即せば第1回目は大きく変化しなかった。それがグローバル・ヒストリーにより重要。
科挙の実態と平等社会。固有な社会や文化を。中央集権的官僚制を。中国では中央集権的官僚制を。秦の始皇帝から。紀元前140年。董仲舒。武帝が董仲舒の答えを良しとしたのは自分の考えと合致。儒教的徳のある者を。裏を返せば世襲的なバックがない、手足になるものを。豪族の勢力を抑制。政府の最高長官から横槍が。全て罷免せよと。武帝は聞き入れざるを得なかった?豪族貴族の立場に立つ者が横槍を入れたのに対し譴責できなかった。せめぎあいが。これから1000年。宋代まで。科挙は983年に。1905年まで。世襲的登用が無くなる。情実と利権を奪う。合格者の順序を入れ替えている。激しい競争。一般の人間も立身出世が。漢代からは均分相続。男兄弟できれいに分割。土地はどんどん小さくなる。どの家族も没落。科挙で進士を得ることが最も確実に近い蓄財の方法。南宋の時代の2つの史料。南宋時代には進士合格者の40%以上が一般庶民。明代からは史料が多い。明清時代の科挙のシステム。三段階。供試を受けるためには学生になる必要。庶民道士など。国立学校でも受かるのは難しい。「阿Q正伝」。進士に。1371年の科挙。明代で初めて。トップ合格者。粗祖父が宋の時代に進士となる。全くの庶民家族。先祖三代に無い。官僚家族の出身者。高級官僚。1371年から1905年まで全体を。明代の初めに庶民家族の出身が80%以上。中国近世とは?16世紀以降とする説が。大きな変化があった?16世紀初めて1505年。庶民家族は40%。1580年代。44.6%。変動らしい変動はない。少なくとも17世紀まで続く。18世紀までの200年でも傾向の変化は認めがたい。社会層の勃興はなく科挙の改変もなかった。宋代と比較。南宋では進士合格の40%が庶民家族。南宋と明代中頃以降はあまり変化がない。清代の初めからの傾向で、庶民家族の進士合格は困難に。
元の時代には数回しか科挙はなかった。知識人が官僚に成りたがらないことが明代にはあった。男子として産まれたからには進士になるのが夢。男子の本懐。極めて大きな影響を。「科挙」。蠢く人の様子を。1766年に生まれた。筆談記録。科挙の様子が生々しく。証言するのは試験場。受験生に対して盗賊のように扱う。不正行為の予防。知識人のprideを取り去るため?皇帝の言いなりと成り手と足となるように。試験中に狭い空間に。寝泊まりを。血を吐くのは本当か?寝ることも出来ない。17回18回と受験。その土地にトップとなった者の妻の地位。五穀豊穣を祈って撒き散らし幸福を投げ与えた。苦難を乗り越えて進士になっても直ちには官僚になれなかった。進士となった者の70%はすぐに官僚になれなかった。清代の19世紀のデータ。進士になるのは平均36歳。知識人の平均寿命を57歳から58歳であろうと。ある知識人が受験勉強のための年月が長い。本人だけでなく妻も苦しかった。彼女の苦労が癒やされたか疑問。清代の中頃には、あまりに残酷な制度。科挙を目指し続けた。進士になり官職を得るのに旨味が。庶民であり続けるのが惨めであると。平等社会であったが甚だしい階級社会や不平等社会。士大夫の一部と庶民。明らかな身分化が。世襲貴族は居なくなったが1代限りの貴族に。科挙を支えた根本の制度を。

 

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)

東アジア近世近代史研究 (放送大学大学院教材)