今日の昼のentryは例によって放送大学の講義の殴り書きで、後半部は科挙についててあった(中国近世が示す範囲については研究者にとり致命傷にもなり得るが)。書籍も幾つかあり中公新書の中にもある。総じて極めて難関であるのは共通している。何しろ中国大陸は極めて広いから受験生も多かった筈。今の中国でも大学によっては極めて難しいと聞く。私の子ども時代(つまり昭和の後期)では、受験戦争と言われることが多かった。今では言われることは少ないが、少なくともmajorな大学については相変わらず難関である。しかしそれについての問題意識は欠けているのは良いのか悪いのか分からない。その意識から高槻では地元集中の運動があったのは何度も書いている。存在意義はあったのだろうが、私にとっては有害なだけだった。運動に流されて地元の高校に行けば、自分はどうなっていただろうか?